「見よ、あの彗星を]
ノルマン征服記


第4章 葛 藤



1051年、エドワード王は義兄弟のユーステス伯をフランスからイング
ランドに招待した。ところがドーバーの町で伯爵の家臣と市民が乱闘
騒ぎを起こし死傷者を出した。

エドワード王は、領主であるゴッドウィン伯に、関係した市民を罰する
ように命令したが、ゴッドウィン伯は王の命を無視した。
重臣会議を開催するという宮廷へも出頭しなかった。

体面を傷付けられたエドワード王は、ゴッドウィン伯の欠席した重臣会
議でノルマン系や北部イングランドの貴族の支援を得て、大実権者で
ある岳父のゴッドウィン伯やその一族を国外追放を宣告した。

ゴッドウィン伯はフランダース(現在のオランダ・ベルギー地方)に、次
男のハロルド伯はアイルランドに亡命した。
王は王妃エディスを尼僧院に追放した。



アングロサクソン随一の豪族ゴッドウィン一家があっさり国外に亡命し
たことは、かえって不気味であった。

エドワード王は、カンタベリー大寺院の大司教に任命した「ジュミエー
ジュのロバート師」を呼び、ローマ教皇より叙任の認証を受ける旅の途
中、ノルマンディ公国に立ち寄るよう命じた。

「もしイングランドかノルマンディで戦乱が起こる様な時には、相互に助
け合うというような同盟に近いニュアンスを伝えてみよ。余はノルマンディ
育ちであり、子供もいない。万一の場合には亡父エセルレッドの血縁を
とるか、母エマの縁者をとるかまだきめかねるが、ウィリアム公にはな
んとなく親近感を覚える」

ノルマン人のロバート大司教は喜んでローマに旅立った。
この時の曖昧な口頭の密約が、その後のウィリアム公の運命を大きく
変えることになろうとは、神のみぞ知ることであった。




翌1052年、ゴッドウィン伯はフランダースで兵を挙げ、南イングランド
のワイト島に上陸した。旧領の家臣たちが合流し、アイルランドからは
ハロルド伯たちが帰ってきた。

エドワード王はノルマンディ公ウィリアムに応援を求めたが、ウィリアム
公は動かなかった。国内の統治に忙しい上イングランドに進攻する準
備がなかったからである。

反乱軍であるゴッドウィン一族の船団は威風堂々テームズ河の河口
まで来た。
ロンドンの宮廷ではノルマン系貴族たちが、抵抗か降伏か判断しかね
ていた。
エドワード王には決断力はなかった。

そこえウィンチェスター大寺院のスティガンド大司教があらわれた。
怪僧スティガンド大司教は、「流血の惨事は避けるべきだ。ゴッドウィン
伯に抵抗しても無駄だ」と、半ば脅迫めいた熱弁をふるった。



ゴッドウィン伯の無血クーデターは成功し、ノルマン系貴族や聖職者は
追放された。
政治の実権は再びゴッドウィン一族の手に帰り、王妃エディスも尼僧院
から宮廷に帰ってきた。

スティガンド師の政敵「ジュミエージュのロバート」大司教もカンタベリー
大寺院から去り、スティガンドがローマ教皇の許可なく総本山カンタベ
リー大寺院の大司教となった。
ローマ教皇庁の枢機卿会議はスティガンドを異端視した。




一介の田舎郷士からカヌート大王の寵を得て、今やエドワード王の岳
父としてイングランド随一の大貴族にのし上がった65歳のゴッドウィン
伯は得意の絶頂にあった。

しかしエドワード懺悔王も弱い葦ではなかった。ゴッドウィン伯の専横を
快しとしないイングランド中部マーシャの領主エドウィン伯や北部ノーザ
ンブリアのシワード伯と密かに手を握って、ゴッドウィン伯を倒す機会を
窺っていた。

1053年春、復活祭を祝う宮廷晩餐会が開催された。
その席で、「十数年前、王の兄アルフレッド王子を暗殺したのは私とい
う作り話には困ったものだ。事実なら神はひとかけらのパンで、拙者の
息の根を止めるだろう」と、豪傑笑いした。

何ということかその瞬間ゴッドウィン伯はパンを喉に詰まらせて、絶命
した。
これを見た盟友スティガンド大司教は顔面蒼白となっていた。




ゴッドウィン家の広大な領土は次男ハロルド伯が継承した。
ハロルド伯は男前であり聡明な戦略家としてもサクソン貴族に名声が
あった。

ゴッドウィン伯は亡くなったが、新たな実権者ハロルド伯は王にとって
不快であった。

三男トスティ伯は兄ハロルド伯と違い粗野で、兄弟仲が悪かった。
エドワード王はトスティ伯を寵愛した。
北部ノーザンブリアのシワード伯が亡くなった時、王は強引にトスティ
伯を領主に任命した。

この人事が、後に兄弟の骨肉の口火となろうとは、敬謙な懺悔王とて
夢想だにしなかった。




第5章 大聖堂縁起

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