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ブレア首相、中東和平ロンドン四者会議を主催


平成10年4月21日の朝日新聞夕刊は、5月4日ロンドンで、ネタニヤフ・
イスラエル首相、アラファト・パレスチナ自治政府議長、オルブライト米国務
長官とブレア英首相の中東和平四者会議が開催されると報じています。

欧州連合(EU)議長国としてイスラエルを訪問したブレア首相は、19日ネタ
ニヤフ首相と会い、さらに20日にはアラファト議長に提案し、両者は米国を
含む首脳級会議開催を受諾したものです。


先般米国とアイルランド共和国に働きかけ、北アイルランド和平合意の調印を
行って世界を驚かせたブレア首相が、今度は大英帝国時代の帝国主義政策が深
く関係しているともいえる中東紛争の解決に、積極的に乗り出してきたことに
注目されます。

そこでユダヤとアラブ諸国のパレスチナ紛争の歴史と英国の関与を概観してみ
ましょう。


1 古代イスラエル王国の興亡

(1)古代イスラエル王国とユダ(ユダヤ)王国の成立と滅亡

紀元前約2000年前、イスラエル人(ヘブライ人)がメソポタミヤからカナ
ンの地(パレスチナ、現在のイスラエル国)に定着、農耕に従事し、ヤーウェ
(エホバ)を信仰。

その後一部はエジプトに移住したが、モーゼに率いられてパレスチナに帰国し
た。(映画「十戒」のハイライトです)

紀元前11世紀サウルはカナンの地の先住民ペリシテ人に勝ち、イスラエル
王国を建国。

サウルの跡を継いだダビテの時代はイスラエル王国の全盛期で、ダビテはエル
サレムを都とし王宮とエホバの神殿を建てた。
(エルサレムと王宮と神殿がイスラエル人の民族自覚の象徴といわれる)

ソロモン王の死後、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。
イスラエル王国は前722年にアッシリヤに、またユダ王国は前586年バビ
ロニアに滅ぼされた。ユダヤ人は「バビロンの捕囚」となった。

(2) ローマ帝国の弾圧とユダヤ人の長期流亡と迫害

前538年ペルシヤがバビロニアを征服、ユダヤ人は解放され帰国し、神殿を
再興ユダヤ教を成立させた。
しかし前1世紀にローマの統治となり、弾圧され世界各地に流亡し、以来何世
紀にもわたりユダヤ人は迫害されてきた。

(映画「ベン・ハー」はこの弾圧の時代を描いています)

2 民族国家建設の気運と英国の言動

(1)19世紀のシオニズム(復国運動)

19世紀世界各地で民族主義が勃興した。特に東欧・ロシアでのユダヤ人弾圧
に対し、「祖先が神から約束されたカナンの地パレスチナに帰り、建国するこ
とによって迫害の歴史は終わる」というシオニズムが台頭した。

(2)英国のユダヤ建国支援の約束

第一次世界大戦中の1917年、英国はオスマントルコとの戦いにアラブ人の
協力を依頼しながら、一方では世界のユダヤ人の協力を得るため軍事上の拠点
であったパレスチナに、戦後ユダヤ人の国家を建国することを約束した。

1918年パレスチナは英国軍政下におかれ、1920年英国の委任統治領と
なる。ナチスドイツの弾圧もあり、世界各地よりユダヤ移民が急増した。

2千年の間この地に住んでいたパレスチナ人は、ユダヤ人の急増と自民族が少
数民族化する危機感を懐き、英国の政策とユダヤ人に反感し、対立抗争を深く
した。

(3)英国対独戦にアラブの協力要請

第二次世界大戦中英国は対独戦にアラブ諸国の協力を要請した。
(映画「アラビアのロレンス」が参考になります)
このためユダヤ人の国家建設を抑制する政策に転じた。英国は両民族の対立を
抑え、支配権の維持を画策したが失敗。1947年委任統治を放棄、処理を国
連に移管した。



3 アラブ・イスラエルの抗争

(1)第1次中東戦争(イスラエル独立戦争、パレスチナ戦争)

1948年5月英国委任統治が終了。英国軍は撤退。ユダヤはテル・アビブで
イスラエル建国を宣言。同時にアラブ諸国軍がイスラエルに侵入し、中東戦争
が勃発した。

歴史的な市街を含む東エルサレムはヨルダンが占領。西はイスラエルが抑えた。
イスラエル建国の結果、大量のアラブ難民が発生した。

(2)第2次中東戦争(スエズ動乱)

1956年エジプトのナーセル大統領はスエズ運河の国有化を発表。自国の権
益を侵害される英仏はイスラエルと組み、スエズを武力攻撃、占領したが、世
界の非難を浴び、撤退した。

(3)第3次中東戦争(6日戦争、6月戦争)

1966年シリアはパレスチナ・ゲリラを支持。エジプトはヨルダンと軍事同
盟イスラエルとの緊張高まる。
1967年イスラエルは突然、アラブ連合、ヨルダン、シリアを奇襲。東エル
サレムを征服、エルサレムを再び統合。エジプトのシナイ半島全部、ヨルダ
ン川以西のヨルダン領、ゴラン高原などシリアの国境20キロを占領した。

(4)第4次中東戦争(10月戦争)

1973年10月エジプトはスエズ渡河作戦を実行。アラブ諸国もイスラエル
を急襲。アラブ石油産油国は石油の生産制限と価格の引き上げで欧米などイス
ラエル支援国を牽制。世界経済にオイル・クライシスと呼ばれるショックを与
えた。エジプトはスエズ運河とシナイ半島を、ヨルダンはゴラン高原を奪還し
た。またPLOがパレスチナの代表として認められた。

(オイル危機はロンドン憶良見聞録「5分でまとまる国」を参照ください)

(5)レバノン侵攻

レバノンはキリスト教徒とイスラム教徒の内戦が泥沼と化した。

(1975年の内戦勃発で、清泉銀行ベイルート事務所の同僚たちが、命から
がら脱出し、憶良氏の勤めていたロンドン支店に避難してきた日を思い出しま
す)

1978年イスラエルは隣国レバノンがPLOの基地となっているので侵攻した
が、国連軍はイスラエル軍を撤退させた。
1982年イスラエルは再びレバノンを侵攻、米国の仲裁でPLOは国外退去。
国連軍の駐留でイスラエル軍も撤退したが、内戦紛糾。国連軍も撤退。
シリアがレバノンを支援しているが、イスラエルとの緊張は緩和していない。

4 相互承認と和平への動き

(1)パレスチナ暫定自治協定

1993年8月、ノルウェーでPLOとイスラエルが秘密会談。イスラエルが67
年に占領した地域のうち、ガザ地区とヨルダン川西のエリコの5年間の暫定自
治について合意した。

9月、米ホワイトハウスで、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相が
調印、PLOとイスラエルの相互承認が行われた。
またヨルダンとイスラエルの合意文書も調印された。

(2)1998年の四者会談

局部的には小さな衝突はあるが、この5年間の暫定自治期間が9月にきれるの
ので、あらためて今後のパレスチナ占領地域の最終的地位について結論がださ
れるとみられる。

長い間紛争の続いた中東に、ようやく和平の機運が訪れようとしています。
大英帝国はかってその帝国主義政策の推進の結果、世界各地に多くの問題も残
しました。
ブレア首相は今、英国の歴史の過誤の解決に東奔西走しているように見受けら
れます。彼の行動力や説得力には目を見張るものがあります。

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