ロンドン憶良の世界管見


世界ローイング・マスターズ・レガッタ出漕記


――70歳の憶良、鶴見川亀クルーの舵を引く――




  鶴見川の亀クルー

 横浜の鶴見川は日本一水質汚染のひどい川であった。市は十年前
「水よ甦れ」と、汚濁改善に本格的に着手した。市民がボートを漕げる
川に変えようと、立派な艇庫を作った。

 私の母校は関東に艇庫を持っていない。休日に漕ぎたくても意のま
まにならなかった55歳前後(当時)の後輩たちは、早速「濃青会鶴見
川で漕ぐ会」を結成した。濃青会とは端艇部OBの会である。
 彼らは毎週のごとく川に出て、ナックル・フォアを漕いだが、やはり
シェル・フォア、さらにはエイトの軽快な艇速感が懐かしい。

ついには母校より廃艇となったエイトを譲り受け、瀬田川から鶴見川
に運び込んだ。意気盛んである。クルー名を「タートルズ」と命名した。
「年をくって陸の上ではノソノソしているが、水上ではスイスイと動くよ。
酒も大好きだし」との意だそうである。
彼らの舵手が都合のつかぬ時には、「先輩すみませんが…」と電話
がかかってきて、代わりに舵を引いた。



 年々、川の水はきれいになり、小魚やボラが跳ね、水鳥が来て、岸
には釣り人が糸を垂らすようになった。水質はワースト4位にまで改善
された。

 ところで世界には年をとっても漕ぎ続ける連中が多く、自由参加の
国際的なシニア・アマチュアのマスターズ・レガッタ(FISA)がある。
後輩たちは、毎年このレガッタへ参加していた。今年(2005年)は
9月上旬グラスゴーに、エイトとフォアで参加すると、春先から練習に
熱心だった。

スコットランドへの誘い

 ところが彼らの舵手が多忙となり、ついにレガッタ参加を口説かれ
た。窮状を見て見ぬ振りするわけにはいかない。この機会にマクベス
王の資料探しや、七百年ぶりにイングランドから返還された「スクー
ンの石」の拝観などもしたいと心は揺れた。

 日程は9月6日現地集合。7・8日練習。9日エイト、10日フォアの
レースと決まった。
 7月早々、一人遅れて参加を決めた。とたんにロンドン地下鉄で大
テロが起きた。家人はそれでも行くのかというが、今更止める訳には
いかない。当初はロンドン起点に往復鉄道の旅を考えていたが、航空
便は日米英を避け、ロンドン市内に入らぬ旅程に変えた。

 引き受けたからには腰を据えた。7・8月の週末は、猛暑の中練習
に明け暮れた。朝九時出艇、昼食後午睡、3時出艇という現役時代の
ような訓練日もあった。

 クルーの平均年齢は約66歳であるが、62歳から70歳までの幅が
あった。十年来練習しているとはいえ体力には差が大きい。意気軒昂
な元気者も、病み上がりもいた。腹の突き出た者もいる。熱中症対策
にお茶や水を持たせ、塩分補給に梅干を持参した。

 マスターズの距離は千米である。現役の二千米の半分であるが結構
厳しい。二ヶ月の練習と、隅田川でのレガッタや他クラブとのトライアル
などで、クルー各人の漕力や気心が分かった。さらに艇の進行方向に
偏りがあると知った。コース侵害で他国のクルーに迷惑はかけられない。
だが舵だけでは方向を修正できない。クルー編成を見直さねばと考えた。

土壇場のシート変更提案

 エイトは舳先から順にバウ、二番、三番、四番、五番、六番、七番、
整調という。
 通常バウ二番は小柄なペアが乗る。三四五六番のミドル・フォアには
重量ある者がエンジン・フォアとして推進力を発揮する。
 整調ペアには冷静老練な技巧者を置く。タートルズも、この常識的な
編成になっていた。

 現役ならば八人にさほどの体力差はなく両舷揃うが、OBクルーでは誰
がどこに乗るかによって、方向性に大きな偏りがでる。私は舵手の立場
から、体型や漕歴ではない、現在の漕力によるシート変更提案をした。

 漕力ある四名をストローク・フォア(五六七整調)にして、直進推力とピ
ッチやリズムに責任を持たせる。漕力均衡した老練の者をバウペアにし、
バウ・フォアは方向性とバランスに責任を持つという役割分担を明示した。
そのためバウと五番を、二番と四番を入替える大胆な提案であった。

 クルーは私の提案を容れ、出発直前の9月3日、最終練習で試漕した。
当日バランスも方向性もよく、シート変更が決定された。
 最後のトライアルを逆風で引いた。クルーは「現地は毎日順風だとの
情報です。順風で最後の練習を漕ぎたいとお願いしたはずです」と、私
にクレームをつけた。しかし、艇の上では舵手の指示が優先である。

「英国の夏、特にスコットランドは『フォアシーズン・イン・ア・デイ(一日の
中に四季がある)』というほど気候は激変する。逆風ありうる。それより
セーターなど冬支度を用意して行け」と助言した。

見事な漕艇環境と運営

 大会には34ヵ国より小艇からエイトまで、男女漕手舵手延べ約7千
4百名が参加した。私たちのように二種目以上のエントリーもあるから、
実際には3千名余であろう。
 地元英 788艇2307名
    独 447艇1361名
   米国 238艇 798名
   日本  29艇 117名の参加であった。

 参加資格は27歳以上のクラブや個人である。競漕は年齢別種目別に
行われる。クルー平均年齢が65歳以上はG、70歳以上はH、75歳以上
はIクラスである。

 会場はグラスゴーから約30マイルほどの郊外である。市内19ホテル
に分宿している参加者のために、会場までの臨時専用循環ダブルデッカ
ー・バスが頻繁に運行されていて、往復の交通に不便はまったく感じない。

 クライド川に沿った湖に、8レーン二千米の国際公認コースが設定され
ている。艇庫、補修設備、レストラン・脱衣所・駐車場、バーなど周辺設
備を含めると、戸田コースの比ではない。鬱蒼とした林に囲まれ、湖畔は
刈り込まれた芝生が美しいカントリー・パークである。
 日本はGDP第2位の大国というけれども、羨ましく感じる。





 小艇からエイトまで合計2453艇のレースを、二日間で行う。予選も
決勝もない一回限りのレガッタである。発艇は3分間隔である。ゴール
に到達していない時に、次のレースが発艇する。各クルーは、プログラ
ム通りすぐにスタートに着かねばならない。

荒天下最高の漕ぎ

 グラスゴーは既に初冬の雰囲気であった。雲が重く垂れ込め、クルー
が入手していた情報とは裏腹に、7日は猛烈な横風である。
 借用したエイトを出して練習するが、休むとすぐに横風に流される。
8日もまた横風での練習であった。

 9日エイトのレースである。天候は昨日までとは逆の方向からの横風
に加えて冷雨である。悪い予感が当たった。セーターを着込み、レイン
コートに身を包んで乗艇した。
 しかし、船台を離れウォーミング・アップの瞬間からバランスがよく、
方向もぴたりと直進した。クルーは自信を持ってスタートに向かった。
 Gクラスのエイトには10クルーが出漕していた。タートルズと組んだ
のは国際混成、ドイツ、オランダ、英国クルーであった。
 強風下の着艇は難しかった。横風にぶれた方向を修正中に、スタート
のブザーが鳴った。右隣のオランダとバウが若干掻きあったが、すぐに
方向を修正できた。悪天候下にもかかわらずクルーの漕ぎはよかった。
ピッチも予定通りで、艇のバランスもよく直進した。波を引っ掛けるスプ
ラッシュもなかった。



 元国際選手クラスを集めた巨漢ぞろいの外国クルーにはとても太刀
打ちできないが、健闘した。ゴールしたクルーは、これまでにないよい
漕ぎで千米を漕ぎ終えたことに満足していた。私が舵を引いて以来最
高の出来であった。適材適所の人事配置が成功した。

 10日のフォアも終わった。順風は一日もなかった。初めての国際レ
ガッタは無事終った。

楽しかった内外の親善

 クルーには家族連れもいて、総勢17名の賑やかさであった。「美味
しい所を探して」という要望があった。7日オイスター・バー、8日イタリ
アン、9日タイ料理をカンで探した。
「英国にもうまい店あり」と、楽しく談笑して過ごした。

   10日の夜は打ち上げパーティである。(私は翌日からの一人旅も
あって休養したが)参加者の話では、夕焼けの湖中に立つゴール・タ
ワーの上に、夜八時、バグパイプ奏者のシルエットが浮かび、朗々と
演奏が始まった。花火が上がり、大テントでは食事パーティとスコット
ランド民族音楽と舞踊が続き、さらに深夜二時までダンスで盛り上が
ったと。



 皮肉にもレース後の11日は快晴無風の日和であった。
 エディンバラに向かう列車の隣席に屈強な男が二人乗り込んできた。
胸のエンブレムにEKRCとあった。聞けばドイツ北部キール漕艇クラブ
のベック氏とクラウゼ氏であった。

 Bクラス三十六歳以上の舵手なしフォアに出たが、横風に翻弄されて
蛇行を繰り返し、まったく不満足なレースに終わったとのこと。
まっすぐ進みよい漕ぎが出来た当クルーを祝福してくれた。

 ベック氏の祖先はパン屋(ドイツ語でベッカー)だったろうと。また
クラウゼ氏の祖先は、ドイツ国境に近いポーランド出身で、同地では町
が城壁に囲まれており、夕方になると城門を閉めた。祖先はその門を
閉める役であったと。英語のクローズと同じ語源だという。
 私の祖先は農業、大杉は英訳するとビッグ・シーダーツリーだが、実
際は背が低いというと大笑いになった。
 歓談弾みあっという間に下車駅のヘイマーケットに着いた。(完)
 
                                 
 少し年配の方ならキールがドイツ軍特に潜水艦Uボートの軍港であ
ったことを知っているでしょう。今もキールは軍港だそうです。しかし
両氏の話では、若い人はハンブルグなどの都市に出て行くそうです。



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