第3部 薊(あざみ)の国

第9章 大脱走(2)

前頁より




 河口から北海に出ると流石に波が高く、船は揺れた。暫くすると急に
風と雨が強くなり、嵐のようになった。舵が利かなくなり、帆が破れた。
船は一昼夜風波に翻弄された。

(コスパトリック卿と妖精の女王クリスティーナ様のお骨折りで折角脱
出に成功したのに、神は私達に何と過酷であろうか)
 アガサは怯えるクリスティーナ姫をしかと抱いて、半分絶望的な気持
ちになっていた。
「お母さま、しっかりして下さい。きっと助かります。神に祈りましょう」
 マーガレット姫は聖書を胸に一心に祈りを捧げた。

 世の中の十歳の少年ならば、泣き出しているかもしれない。無冠とは
いえ一度はキングと呼ばれた少年エドガーの胸の中には、自分こそア
ングロサクソンの正統の王位継承者であるとの強い意志が燃えていた。
ウィリアム王に連れられ、ノルマンディーの各地も見てきた。明日は暗
殺されるかも知れぬ生活を送って、何時の間にか度胸がついていた。
嵐もまた醒めて受け止めていた。

 神にも祈らず、腕を組み平然とあぐらをかいて船室に座っている少年
を、僅かな家臣たちは、
(流石にアルフレッド大王とエドマンド・アイアンサイド剛勇公の血を引
く方だ)
 と、感に堪えぬ面持で眺めていた。
 船は波浪に揉まれに揉まれ続けた。

 やっと嵐が収まった。風に流されて行く前方に陸蔭が現れ、みるみる
近づく。
「陸だ、たすかるぞ」
 と、水夫の一人が声を出したが、舷側に立ち並び陸を眺める船客の
顔はこわばっていた。

 風が異様に冷たかった。海の色が灰色に変わっていた。
 陸地が近付くにつれ、見慣れぬ景色が人々を不安にした。明かにイ
ングランドでもなければノルマンディーでもフランダースでもない。山に
は木らしいものはなく、野は荒れ地のようであった。

「どうもフォース湾の中らしな」
 と、船長が老練な舵手に同意を求めるように独り言を行った。



 いかにも侘びしい造りの数軒の民家が見えてきた。しかし海岸には
いつ現れたのか数十名の武装した兵士達が、流される船に沿って移
動していた。
 波と風に揺らぎつつ、次第に岸に近付く船の中は不安と緊張で物音
ひとつしなかった。

 船が漂着したのはスコットランドであった。
 このアングロサクソンの王族の漂着が、その後スコットランドの政治・
文化に大きな転換をもたらす運命的な出会いの契機になろうとは、神
のみぞ知ることであった。



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