第2部 反 乱

第8章 ミッドランド制圧(1)

前頁より




 「全軍出発!」
 装備を整えた槍騎兵軍団に歩兵・弓部隊を加えたノルマン軍団は、
威風堂々、鼓笛の音も高らかにロンドンを発った。

 最初の目的地はイングランド西部、エイヴォン河畔のウォーリックで
ある。後年シェークスピアで著名となったストラトフォード・アポン・エイ
ヴォンの少し北部に所在する。



 ウォーリックは小さいこじんまりした町である。かってアングロサクソ
ン7王国の頃、マーシャ地方には多くの小王たちが散在し、その首都
のひとつであった。
(場所も時代も異なるが、3万石とか5万石程度の小大名がひしめい
ていた豊後の国のある藩の城下町の規模を想像すればよいであろう)

しかし9世紀の頃デーン人に破壊されたが、10世紀初頭に「マーシャ
の貴婦人」と呼ばれた女傑ヱセルフリードにより、町は再建されていた。

 町は城壁に囲まれ城主の館もあった。しかし噂に聞く屈強なノルマン
の大軍団を前に、ウォーリックの郷士や市民はたちどころに臣従した。

 ウィリアム王は、ウォーリックのエイヴォン河畔にそそり立つ岩上の
館を直ちに改修拡張し、ノルマン風の強固な城を築いた。
 王は配下のビューモント領主ヘンリー卿を城主に任命し、ウォーリッ
ク郡の統治を任せた。

 次の都市はウォーリックからやや北北東にあるノッティンガムであっ
た。
 
 この町はノッティンガム郡の郡都である。トレント川沿いの小高い丘
にあり、町自体が天然の要害であった。
 町の北には、ロビン・フッドの伝説で名高い「シャーウッドの森」が広
がっている。(ロビン・フッドの物語は、この後続くノルマンの支配に対
するアングロサクソン浪士レジスタンスの集約といえよう)

 古代ローマ軍団はここにも来ており、ローマン・フオス・ウエイと呼ば
れる直線道路を残していた。
 その後サクソン人が来て町を興し、デーン人が破壊し、再興した町に、
再びノルマンが攻めて来たというのは、ウォーリックと同じような歴史で
ある。

 この町には二つの砦が向かい合うように構築されていた。ノッティン
ガムもまた抗戦の準備をしていた。
 町を見下ろすように岩山が聳えていた。

 軍を進めたウィリアム王は、城壁の前に重臣を集めた。
「諸卿も実感したであろうが、ノッティンガムの防衛は堅い。戦えば勝と
うが、攻めるにはいささか多くの犠牲を伴なうであろう。できれば無傷
で落としたい。見ればあの岩山には手が付けられていない。われ等の
城を築き、じっくりと包囲してみよう」

 たちどころに、ノルマン風の城が、この岩山に築かれた。
砂岩質の岩山に濠を穿つのは大変な苦労であったが、この濠で城の
防衛力は飛躍的に高まった。

 驚いたのは徹底抗戦を覚悟していた市民たちであった。ノルマン軍
は攻めることなく、岩山からじっと見下ろしているだけであった。心理的
に疲れてしまって、とうとう降伏した。



 わが国では、北条氏政・氏直父子の篭城した小田原城を、豊臣秀吉
が大軍で包囲し、城を見下ろす石垣山に一夜城を築き、長期戦で降伏
させた作戦と同じである。

 ウィリアム王は降伏した者には寛大であった。城にはノルマンの守備
隊を配置した。城主にはノルマン譜代の騎士ウィリアム・ペヴレルを任
命した。
 同時に、ウォルターに命じてヨーク大寺院アルドレッド大司教に密使
を送っていた。その返事が来るまで軍団はノッティンガムに滞在した。

 一方、ウォーリック、ノッティンガムと次々に無血降伏したとの情報は
城砦都市ヨークに陣営を構えていたエドウィン伯・モルカール伯に届い
た。
 二人はウィリアム王率いるノルマン軍団に恐怖感を抱いた。頼みに
していたスコットランド王マルコム3世やデンマークのスウェイン王から
は支援の回答がなかった。

 ヨーク大寺院のアルドレッド大司教は、二人を説得した。
「エドウィン伯、モルカール伯、ここは思案のしどころですぞ。スコットラ
ンド王マルコム3世やデンマークのスウェイン王の軍団が来なければ、
正直なところお二人に勝ち目はない。部下を説得し、ヨークから撤退さ
れたほうがよい。私が王にとりなししましょう」
と、二人を説得した。

 アルドレッド大司教は権勢に敏感な日和見主義者であった。
 かってゴッドウィン家がイングランドの政治を取り仕切っていた時には、
ハロルド王の戴冠式を執り行なった。ハロルド王がヘイスティングズの
戦いで敗死するや、生き残ったアングロサクソン貴族たちの意見を容
れて、王冠なきままエドガー・エセリング王子を新王に戴冠させていた。
 そして、ウィリアム王の戴冠も行なっていた。

 アルドレッド大司教とイングランド宗教界の実権を争っていた怪僧ス
ティガンドは、依然としてカンタベリー大司教の座にはあったが、故エ
ドワード懺悔王の怒りに触れて以来謹慎していたから、ヨーク大寺院
のアルドレッド大司教の意向は絶対的であった。

 エドウィン伯モルカール伯の兄弟は、またもや節を曲げてウィリアム
王に従うとの誓約書をアルドレッド大司教の使節に託してヨークから
撤退した。

   モルカール伯とイングランド北部ノーサンブリアの領土支配権を争
っているゴスパトリック卿も、スコットランド王マルコム3世とデンマーク
王スウェイン・エストリスサンに支援を交渉したが、両王ともノーサンブ
リア人の反乱には乗らなかった。
 ゴスパトリック卿の反乱の気配も尻すぼみに収束した。
「北ウェールズのブレディン王子は兵を集めておりますが、まだ本格的
には動いていません。エドリック・ザ・ワイルド卿とも連携しているので、
いずれは懲らしめねばと考えています」
「情報収集ご苦労であった」
 ウオルターは、反乱の背後で動くケルトの王家の監視も怠らなかっ
た。「四面楚歌」ならぬ「異民族軍歌大合唱」となるような合従連衡の
動きは、なんとしても未然に断ち切らねばならなかった。

 ウィリアム王の軍団はイングランド中部から北部の要衝ヨークに堂々
と無血入城した。
 王はアルドレッド大司教を招き、エドウィン伯モルカール伯の兄弟に
対する根回しに謝辞を述べ、多額の寄進をした。

 ヨークは古代ローマ軍団の駐屯以来、城砦都市であった。ウィリアム
王は、市内に新たにノルマン風の城を築き、守備兵を置いた。
 ミッドランドも、更に北辺のノーサンブリアも静かになった。

 王は軍団を率いて南下した。目指すはリンカーン、ハンティンドン、
ケンブリッジであった。



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