上海・黄山・蘇州・杭州紀行


第7日 杭州(2)――蘇東坡について――




西湖では宋の詩人蘇東坡を語らねばならない。

蘇東坡(1036-1101)(イングランドではノルマン・コンクェストの頃)
正式には蘇軾(そしょく)唐宋八大家の一人。「赤壁賦」の詩で有名である。
22歳で進士に合格、官僚としても相当の力量であ
ったが、「読書万巻なるも律を読まず」と、法律による統制を好まなかった。

派閥の対立で地方官(県知事?)として杭州に赴任。当時ヘドロの状況だ
った西湖を浚渫し、その水草と泥で西湖の西側に2.8キロの湖中の堤いわ
ゆる蘇提を作った。西湖の北にある白楽天が築いたという白堤とともに名
所になっている。
蘇東坡は西湖を愛し、有名な詩を残している。

飲湖上初晴後雨詩

水光瀲艷*(れんえん)晴偏好 山色空濛雨亦奇
欲把西湖比西子  淡粧濃抹総相宣
(*原文の「えん」は古語)
西施が西子と詠まれ、晴れてよし、雨も好しという風景がよく分かる。
薄化粧でも厚化粧でもすべからく良いとぞっこんである。

ロンドン憶良流に詠みかえると
晴れて艶 雨にはおぼろ この湖(うみ)に
西施の姿 こよなく愛でぬ

蘇東坡は大才の人で、詩や文章だけでなく書、画にも一級の作品を残し
ている。座談に巧みでユーモアがあり、誰からも愛され、門人や領民が
慕ったという。農民たちは感謝の意を込めて豚肉を彼に献上した。
その肉があまりに多いので、かれはこれを貯蔵し味をつけて美味に煮込
み、彼らに返した。農民たちは「東坡様の作った肉」(東坡肉)として賞味
した。また料理店では東坡肉とメニューになった。

どこの社会にもあることだが、地方行政官としての蘇東坡の名声を嫉ん
だ男が、
「蘇東坡は悪政を強いています。圧政下にある領民たちは、東坡憎さに
東坡肉として食って憂さをはらしています。このメニューが証拠です」
と、王に讒言した。
王は彼を最南端の海南島に流した。
天性自由人の彼は、これまでに獄舎につながれたり、湖北州に流罪に
なったり、カムバックしたりの波瀾の人生を経験していた。

讒言とわかり許されて、北に帰る途中、江蘇州の常州で65歳で没した。
地図で見ると海南島は遥か南である。礼部尚書という朝廷の大官であっ
たこともあるが、彼は人生は悲哀だけで満たさず、平静な心境で詩を作
ろうとしてきたと解説されている。

皆さん中華料理店で東坡肉(トンポーローつまり豚の角煮)を食べる時に
は、大詩人蘇東坡を偲びましょう。


さて西湖と別れ、馴染みとなった一元バスで名水虎跳泉へ。虎が掘った所
から名水が湧いたと、ビンで汲みに来ている人が多い。

さらに乗り継いで夕刻の六和塔へ行く。970年創建の堂々たる国宝の塔で
ある。
銭塘江はアマゾンの大逆流と比較される潮流の大逆流(旧暦8月18日)が
起きるところであり、その惨禍を鎮めるために呉越王銭弘俶が建立した。


中国の国宝建造物・六和塔

60mの7層(外からは13層に見える)8角の頂上まで階段を上り、大河銭塘
江を眺める。雄大な眺めである。大鉄橋を長い列車が行く。
これで杭州見物も終わった。折り良く待っていたメータータクシーに乗り、
帰りの列車にぎりぎり間に合った。

列車の中で日本に(武蔵美、多摩美)留学経験のある上海の広告会社の
方々と乗り合わせた。私が出向していた広告会社の親会社とも仕事をして
いるとのことで、上海では日中はグッと近いなと実感した。退屈せずに日本
語会話を楽しんだ夜汽車であった。



第8日(8月30日) 上海より成田へ

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