英国とアフガニスタン(3)

英国の大軍団が全滅した第一次アフガン戦争
(続き)



3 英軍、峠道の確保に失敗

 北部インド(現パキスタン)とアフガニスタンとの交通は、古くからカ
イバル峠(Khyber Pass)を越える道が開かれていた。パキスタン側の
都市ペシャワルの西にはジャムラッド城塞があり、ここから山道に入
りアフガニスタンのダッカに至る約40キロの峻険な峠である。標高は
1,100メートルある。かってはペルシヤのアレキサンダー大王も通った
シルクロードの著名な峠である。

 ダッカに降りてさらに西に進むと、要衝ジャララバードの町がある。
ジャララバードから首都カーブルまでの間には、これまた山肌を縫う
がごとくカーブル峠(Kabul Pass)がある。

 アフガニスタンに侵入したインダス軍団は、カーブルやジャララバー
ドに駐在していた。彼らに必要なのは、都市の制圧だけではなく、そ
の拠点を結ぶ交通路の確保であった。

 当部の山岳地帯はギルザイ族が支配していた。古代からインドや
アフガニスタンの支配者は、交通路の安全を確保するため、山岳部
族になにがしかの金を与えてきた。いわば通行保証を得る税金であ
った。

 インド総督府は、こうした部族長に対する対策が英軍主導のインダ
ス軍団にも必要であると進言したが、インダス軍はギルザイ部族対策
を行っていなかった。必要なしとの判断をしたのか、担当部局が失念
したのか不明である。

 しかし、昔からの慣行を無視されたギルザイ族は、インダス軍に敵
意を持ち、2年の間にこの怒りは増幅していた。彼らは、カーブルと英
領インドに通ずる交通連絡網を遮断してしまった。

 この情報に驚いたたカーブル駐在のインダス軍は、直ちに、陸軍少
将ロバート・セール卿を隊長とする一隊をカーブル峠の確保に向かわ
せた。セール卿の部隊は、1841年10月12日、長くて狭いカーブル峠
道に入った。

 峠道の央ばまで来た時、突然、あちこちの岩陰から銃撃にあった。
地形をよく知っているギルザイ族は、峰の上や、向こう岸や、あちこち
の岩の間から、狙いを定めて射撃してきた。

 セール卿も膝を射抜かれて負傷した。多くの負傷者を出しながら、
よく戦い、峠を確保した。しかし、それからも日夜を分かたぬ攻撃に
晒され、18日間山道で戦い続け、ようやくジャララバードの駐屯地ま
で辿り着いたのは、一ヶ月後の11月12日であった。

 この間に、出発地のカーブルでも、大事件が勃発していた。

4 英国外交官・将校暗殺と悲劇のカーブル脱出

 カーブルにはウィリアム・マクナーテン卿を大使とする英国の外交
使節団は使節団公邸に住んでいた。しかしこの公邸は、防衛面では
不十分であった。

 軍の駐屯地とは離れ、わずかに数カ所の小さな砦で守られている
に過ぎなかった。多分、カーブルに残留した英軍は武力を過信してい
たのであろう。

 幽囚されている前王ドースト・ムハンマドの王子アクバル・カーンの
友人たちが、「英国の外交団は、アフガニスタンの部族の幹部をロン
ドンに送り、殺害する計画をしている」との偽情報を流布していた。

 1841年11月2日、英国外交官・将校暗殺事件が起こった。
 暴徒たちは、まず外交官のアレキサンダー・バーンズ卿とジョンソン
大尉の私宅を襲撃し、卿の弟バーンズ中尉やブロードフット中尉を殺
害し、放火した。

 彼らは軍団駐屯地や外交団公邸を包囲し、射撃を加えてきた。英
軍も頑強に抗戦したが、弾薬も食糧も尽きてきた。

 アフガニスタン側から、前王ドースト・ムハンマドはじめ捕虜の釈放
と引き替えに、英軍はカーブルはじめアフガニスタン全土から撤退せ
よとの条件が提示された。ウィリアム・マクナーテン大使は奸計には
まった。

 12月23日、アクバル・カーン王子との交渉を進めるため公邸を出た
マクナーテン大使と付き添いの数名の将校兵士らは、会談場への途
中で暴徒に殺害された。

 英軍団の最高指揮官エルフィンストン将軍は、何とかして兵士らを
無事撤退させようと思慮した。アフガニスタン側から更に条件が出さ
れた。銃6丁を除き、完全に武装解除して撤退せよと言うのであった。

 この条件を受け入れて、1842年1月6日、英軍兵士4,500名、軍属や
女性子供を含む家族12,000名、合計16,500名は降り積もる雪の中を、
ジャララバードに向けて出発した。

 武装解除と引き替えの撤退の安全は守られなかった。暴徒は次々
と襲いかかり、兵士たちはわずかに剣で身を守り、民間人や家族を
守ったが、遂に抗しきれず、雪道は鮮血に染まった。道路は死体で
埋まっていった。

 一行がカーブルから35マイル(約56キロ)離れたジュダルックに到
着したときには、16,500名のうち僅かに300名になっていた。一行は
小さな廃虚にたどり着き、空腹と疲労に身を横たえた。

 翌朝、カーブル峠へと暁の中を出発したが、たちまち暴徒に追い付
かれ、次々と殺害されていった。

 この窮地を脱したのはただ一人、ブライドン博士であった。
彼は1月13日遂にジャララバードに到着し、カーブルの悲劇を伝えた。

 カーブル軍団および外交団全滅の報は、ただちにインド総督府に
伝えられた。

 カーブルに続いて、ガズニーの要塞が包囲され、アフガニスタン側
に降伏した。しかしカンダハルを守っていたノット将軍と、ジャララバー
ドを守っていたセーラ将軍は、両拠点を守り抜いた。

 インド総督府は、直ちに反攻を決めた。

(続く)



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