口語俳句の可能性
                              秋 尾   敏

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 耳を澄ませば、誰しも日本語が少しずつ変わりつつあ
ることに気づくだろう。それは、いくぶん機械的であっ
た共通語としての口語が、百年の歴史の中でさまざまな
地方性と折り合いを付け、豊かな躍動と響きとを獲得し
て、自然言語として熟成されつつある、という前向きの
変化である。                  
 テレビの話し声からも、口語の変化は十分に感じ取る
ことができる。普通の人が、カメラに向かって、日本中
の誰もが理解できる言葉を堂々と話している。しかもそ
れは、到底標準的と言えるような言葉ではなく、それぞ
れの地方性やその人自身の人間性が滲み出た個性ある言
葉である。                   
 もはや、共通語と方言が対立する時代ではなくなって
いる。人はそれぞれの地方性の上に立ち、個性的な言葉
を話しているにもかかわらず、それが共通語として通じ
るという状況ができあがっている。個性的に話している
のに通じるという状況、それは口語の理想の姿である。
共通語と方言はそこで見事に折り合いを付け、しなやか
な日本語として完成されつつあるのだ。       
 リズムの変化に着目してみよう。スピードとイントネ
ーションの変化が、日本語のリズムをよりしなやかで表
現力のあるものにしつつある、と言えないだろうか。
 メディアから流れる話し言葉のスピードはかなり早く
なっている。その結果、音節と音節のつながりはよりな
めらかに連続的なものとなり、もはや日本語のリズムを
「等時的拍音形式」(時枝誠記『国語学原論』)などと
簡単に言い切ることはできなくなてっきているように思
われる。スピードの変化ばかりでなく、さまざまな外国
語の影響や、方言の復権という現象が、より豊かで多様
な日本語のリズムを作り出しつつある。       
 時枝が日本語のリズムを「等時的拍音形式」とした理
由は、彼が考察の対象を、近代日本の無味乾燥な共通語
(標準語と呼ばれたこともあった)の理想型に置いたか
らにほかならない。これはソシュールのラングという考
え方を批判した時枝にはあるまじき行為だと私は考えて
いる。時枝は、そのリズム論において、ラング的存在を
対象としてしまっているのではないか。人工的に作られ
た標準語の理想的な形を思い描いたからこそ、時枝は、
意識としての等時的拍音形式という言い方を一般化し、
そのことが、俳句を「五七五」という音数で数えること
にひとつの学術的根拠を与えた。          
 しかしその誰もが信じている「等時的拍音」という概
念は、日本音楽の伝統的な特性とは大きく矛盾する。例
えば正調の「小諸馬子唄」を聞いてみるがいい。そのど
こに「等時的拍音」が存在すると言うのだろう。日本音
楽は基本的に拍節を超えた音楽である。「等時的拍音形
式」という概念は、標準となる近代的な日本語(口語)
を作り出そうとした知性が生み出した幻想ではないだろ
うか。                                  
 近代日本の口語は、確かに人工的に作られた言葉であ
った。それは標準と呼ばれ得るために、さまざまな地方
の方言からニュートラルな位置づけを必要とされた。そ
のために、ことさら機械的なリズムを与えられたのでは
なかったか。                              
 むろん日本語のリズムの基底と日本音楽のリズムを単
純に同一視することはできない。が、詩歌のリズムを考
えようとするとき、日本人が言葉をどう唄ってきたかと
いう事実を無視することはできないはずだ。そこには、
日本人の言葉のリズムに対する美意識が存在している。
「拍」という概念でのみ日本語のリズムを理解しようと
する方法は、現実を単純化し過ぎていると言えるだろう。
 もともと詩歌のリズムは複雑なポリ・リズム(複合リ
ズム)である。さまざまな要素からなるポリ・リズムに
よって、内面の複雑な躍動感に形式を与えるのである。
しかも日本語の場合、それは自在に伸縮する拍に乗って
唄われる。一歩譲って、日本語の詩歌のリズムを拍で数
えることの合理性を認めたとしても、そこにはさまざま
なレベルの単位が存在する。            
 よく知られているように、その音節が二音ずつ結合し
た「音歩」(土井光知『文学序説』)も単位となる。日
本語の高速化は、その「音歩」の働きをいっそう強化す
る。一音一音が分節しにくくなるからだ。今や、俳句の
五七五というリズムは、二音と休符を組み合わせて一単
位とした「三四三」というリズムで数えた方が自然であ
るかも知れない。俳句の定型を三四三として説明するこ
とは十分に可能である。             
 さらにスピードの変化は、三音一組の音歩を作り出し
もしているようでもある。「赤い花が」という言葉のリ
ズムを従来の音歩論は「あか」「い・」「はな」「が・」
(・は休符)と説明するが、今やこれは「あかい」「は
なが」という三連符の二拍で説明する方がはるかに現実
的である。つまり三音一組の音歩が存在するということ
である。                                 
 また単語や文節の区切りもリズムの分節を作り出す
が、これらも口語の高速化によって、それぞれのリズム
単位としての固まりの度合いが強化されている。
春宵の居酒屋(パブ)にギターの弾き語り
                        荻原都美子             
 この句を指折り数えて五七五のリズムで刻むことの愚
かさは誰もが理解するであろう。上五はまず大きな一拍
の内にあり、それは微妙に「しゅん」「しょうの」とい
う二つのうねりに分かれようとする。人によっては、自
立に向かう「の」の遠心力を感じ取るかもしれない。そ
れ以上の細かな分節は不要であろう。中七は七音で刻ん
で読むこともできる。だが、英語に馴れた人なら「パブ
に」「ギターの」という分節を強く感じることだろう。
座五も五音に刻めるが、しかし上五から続く大きなうね
りの慣性によって、ここも一つ、あるいは二つの音の固
まりになっているようにも感じられる。       
 俳句の定型を便宜的に、あるいは象徴的に「五七五」
であると説明すること自体は許されることかもしれな
い。だが、だからといって俳句のリズムが五七五である
と理解してしまうことは問題である。それは形式であっ
てもリズムではない。詩歌のリズムとはそんな単純なも
のではない。美を作り出す要素は、そんな単純なもので
も分かりやすいものでもない。それはもっと微妙で、も
っと繊細なものだ。したがって、そのリズムの美しさを
追究するために、定型にさまざまなゆらぎが生じるのは
当然のことである。                
 文語は、長い歴史の中で、繊細な情感の表現力を生み
出してきた。しかし口語は、東京の話し言葉がもとにな
っているとはいえ、さまざまな方言からニュートラルな
位置に置かれた共通語という立場によって、極めて人工
的な響きとリズムを与えられてしまった。      
 だが、その口語も百年の歴史の中で、少しずつ複雑で
陰影のある響きを作り出しつつある。リズムという側面
だけではない。響きや暗示力においても文語に対し得る
力を、それは持ちつつある。「等時的拍音」などという
幻想を超克し、そこに人間の感覚の複雑な躍動を感じ取
らなければならない。                
 日本語が乱れているとか乱雑になったとか、マイナス
の変化ばかりがとりざたされるが、着実に口語は進化を
続けている。平均的なスピードが速くなったことは確か
だが、だからといって日本語が不明瞭になったというこ
とはない。かえって昔の白黒映画時代の、当時としては
早口な会話の方が、今となってははるかに聞き取りにく
い。日本語のしゃべりの技術は明らかに洗練され、しか
も豊かな肉体性を取り戻しつつある。        
 百年の歴史の中で、近代日本語は徐々に生命の息吹を
獲得しつつあると信じる。調べの美しさにおいて、到底
「文語」にはかなわないだろうと思われた「口語」も、
さまざまなイントネーションが与えられ、複雑なリズム
の中に歌の言葉としての深さを獲得しつつある。    
 確かに文語は美しい。私自身、文語の美しさに酔いし
れることも多い。また文語の方が冗長な表現を避けるこ
とができることも、体験的に理解している。したがって、
文語の誘惑に抵抗することは並大抵のことではない。け
れど、もはや口語を否定する理由もまた存在しない。
 俳句は、よく過去の言葉に目を向け、そこに俳句の不
易な本質を見出そうとする。だがそれは、きわめて危険
な行為なのではなかろうか。私たちの理想の日本語、そ
れは過去には存在しない。そうでなければ、次々に新し
い作品を生み出すことの意味はどこにあるというのだろ
う。                                     
 新しい言葉の地平を切り開こうという意志を持つ者と
して、文語の力に一方で感嘆しつつも、これからの口語
の力をさらに拡充させていく義務を感じる。現在の口語
は、その努力に十分報いてくれる水準にあると考えるの
である。                      
           2000年口語俳句年鑑 『俳句原点』掲載

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