子規と言文一致      秋尾 敏

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                               (平成7年 「軸」に掲載)

 子規は、言文一致の世代として育った。
 山本正秀は言文一致を七期に分けている[*1]。その節目と、子規の生涯の節目とはみごとなまでの一致を見せるのである。
 言文一致という用語は、慶応二年の前島密による建白書『漢字御廃止之議』に初めて使われたと言われるが、その翌年子規は生まれた。
 子規は明治十六年までを松山で過ごす。自由民権論者らが口語体で思想を伝え始めた時代である。子規も松山中学で演説を試みている。ここまでが山本の言う言文一致の発生期である。
 上京した子規が一高で学んでいた時期は、いわゆる鹿鳴館時代である。欧化万能の風潮の中で言文一致の運動は大きく進展し、やがて二葉亭四迷や山田美妙らの作品が生まれ出てくる。子規は十八年に英語課第四級を落第しているのだが、これは授業のすべてを英語で行う幾何学の授業が厳しく、八十六名中十七名という落第者の一人となったのであった。私たちはここで、子規の落第という一時的な出来事に目を奪われるのでなく、おそらくはほとんどの教科を英語で学んでいた当時の一高生という存在を思い描かなければならないはずだ。数学の授業の講義から質疑応答までを英語で行うという授業をなし得る高校が、現在日本にどれほど存在するかを考えれば、当時の欧化策が、決して浮かれた鹿鳴館の姿に象徴されてしまう側面ばかりでなかったことは明らかだろう。この時代が言文一致の第二期、山本が「第一自覚期」と呼ぶ期間である。
 子規が大学に入学する明治二十三年からは、言文一致の第三期「停滞期」となる。国粋保存の保守的風潮が台頭し始めるのだ。子規の目も、この時期に日本の伝統に向けられることとなる。
 明治二十二年は、子規が文学に向ういくつかの伏線が生まれ出る年である。一月に漱石との交遊が始まり、五月に初めての喀血、またそのとき初めて子規の名で句を作っている。
 子規の文体に大きな影響を与えることになる幸田露伴の『風流仏』が刊行されたのもこの年である。『風流仏』の文体は西鶴調と言われる文語である。もっとも露伴自体は、西鶴の影響をあまり自覚していなかったようではある。
 また子規生涯の後見人である陸羯南によって新聞『日本』が創刊された。『日本』は、民族主義とは言えないが、浮薄な欧化策に批判的な立場を取った新聞である。山本は、この期を明治二十三年から明治二十七年としているが、伝統回帰の風潮は、すでに二十二年にかなりはっきりと現れている。
 子規はこの時期に文化大学哲学科から国文科に移り、小説『月の都』を文語体で書き、『七部集』に感動し、句作の旅を重ね、また俳句分類によって近世以前の俳諧の基礎資料を整備するなど、俳句革新への軌道を定め始める。子規にとっても、日本の伝統を改めて吸収した時期であった。
 言文一致の「第四期」は、明治二十八年から明治三十二年であって、山本は「第二自覚期」と名付けている。日清戦争に勝った日本が、近代国家として国際舞台に立つため、それに相応しい近代的な日本語が求められた時期である。帰朝した上田万年が標準語の必要を説き、同時に記述言語についても洗練された言文一致文章の必要を訴えると、時代は一気に言文一致に突き進んだ。
 言うまでもなく、子規はこの時期、病をおして俳句革新に邁進するのだが、その散文には、言文一致体の使用が増えてくる。明治二十四年に書き始められた小説『月の都』の草稿と三十年に書き始められた『曼珠沙華』の草稿の文末表現を冒頭から順に拾ってみると、『月の都』では「となん・やさし・ぬべし・くちをし・申されき」となっており、明らかに文語体であるが、『曼珠沙華』では「である・であつた・であつた・であつた・あるまい」という具合で、少なくとも文末表現においては言文一致体である。
 第五期は「確立期」で、明治三十三年から明治四十二年のことである。明治三十三年には「言文一致会」が帝国教育会内に設置され、「言文一致についての請願」を両院に提出した。また、小学校教科書の文章を言文一致にすることが認められ、三十六・三十七年発行の国定尋常小学校読本には多くの口語文教材が採用された。言文一致体が、公認された日本語、つまり国語の記述体となったのである。
 子規は、明治三十三年一月から『日本附録週報」に『叙事文』を載せ「文体は言文一致か又はそれに近き文体が写実に適し居るなり」と述べて、写実の文章の方法を述べた。以来それは写生文と呼ばれ、言文一致体の確立と普及に大きな影響を与えていくことになる。
 子規は叙事文の中で、「言葉を飾るべからず、誇張を加ふべからず」と述べ、旧来の美辞麗句的表現や常套句を否定したが、それは、自然主義の運動が、主に描く内容や対象の考察を先行させたのに対して、まず直截にいかに描くかという問題を先行させた運動なのであった。
 このように、子規は言文一致の運動とともに育ち、その潮流に新たな流れを加えるにいたった。
 だが、その新しい日本語の書き言葉を作り出そうとする作用は、言文一致という一つの概念に集約され得るようなものだったのだろうか。
 こうして、言文一致の運動と子規の生涯とを重ね合わせてみると、むしろ日本語の伝統の中から、日本語の上質な表現力を汲み取った才能が、新しい日本語を生み出していく姿が見えてくる。
 明治二十三年からの国粋保存の保守的風潮の時期を山本は「停滞期」と名付けているが、この時期に日本の多くの知性が伝統の力を再認識したことは、その後生まれる新しい日本語の質を高める力になったにしても、決して妨げにはなっていないのではないか。少なくとも、子規という言語主体の遍歴においてはそのようである。
 さらに明治二十八年からの「第四期」に、子規が俳句革新に邁進した行為も、必ずどこかで日本語の記述の近代化に関わっていることであろう。 
 ならば、言文一致の運動を、新しい書き言葉の生成の中心に位置する大きな潮流として認めることはできるにしても、その名称をもって、近代日本語の書き言葉の変容の全体を指し示す名称とすることは適切ではない。現に、二十世紀の半ばにでき上がった近代の文体を、誰も言文一致体と呼ぶことはなかったのである。
 虚子たちが引き継いでいった写生文の運動は、たしかに言文一致の潮流に直接関与する運動ではあったが、しかしすでにそれは文末表現の問題の先の、レトリックや構成の問題なのであった。すでにそれは言文一致という用語が基本的に表している意味を逸脱している。
 まして子規の俳句や短歌の革新を、言文一致の運動と呼ぶことは不自然である。だがそれにしても、それは明らかにどこかで、近代日本語の成立に関わっている。
 子規は俳句や短歌という言語活動の場において、言文一致という潮流に関わりながら、またそれとは異なるベクトルを発することによって、新しい日本語の形成に参与していたのだ。子規は言文一致とともに育ち、やがてその時代の成果を踏まえて、新しい近代日本の記述言語を作り上げようとしたのである。
 子規が、そのように動いたとき社会に起きた変容、それはまず、子規という言語主体の内面に生起した出来事であったはずのものである。
 子規の話し言葉は松山のものであり、書き言葉は、漢文訓読のリズムを深層に持つ文語である。
 その子規が上京して、さまざまな方言に接し、定まりつつあった標準語にも触れ、また欧米語からの語彙や文脈を獲得していく。
 その場はいうまでもなく日常の人間関係と読書、そして学校である。学校というメディアの機能の第一が学問の内容を伝達するにあったとしても、第二の機能は、近代のそうした日本語を伝達していくことにあったと言えよう。いや、言語の内容と形式が不可分のものであるとすれば、それは同一の作用であったとも言える。
 やがて子規は獲得した言葉を表出し始めるが、そのとき子規の言語行為には、強靱な二つの力があったはずである。
 ひとつは、そのときの日本語を壊す力である。
 子規にとってそれは、自己の内面の言語を破壊する作用でもあった。既に自分自身が獲得した旧来の日本語の、役に立たなくなった部分を切り崩し、捨て去る力である。子規は、月並の宗匠俳句の言語世界を一度内面化し、自身の言葉とした上で批判している。それは決して外部からの批判とは言えない。子規が月並を批判するのは、自己否定としてある。
 もうひとつは、新しい言葉を作りだそうとする力である。それは子規の内面においてのことであるとともに、その発する言葉を理解し、解釈する他の言語主体を増やそうとする力でもある。周囲に同志を集め、伝え、語り、その行為によってさらに自己の内面の言語の構造の質を高めていく。さらに、新聞や雑誌という印刷メディアを活用し、自身の生み出した言語を、日本のさまざまな場所に送り届けていく。それが子規の生き方である。
 子規が、この二つの作用を当たり前のように行うことができるのは、子規に、日本語に対する暗黙の信頼があるからである。欧米語の語彙や文脈を獲得しなければ日本語が新しくならないという強迫観念がまったくないのである。
 子規の包含する暗黙の仮説はこうである。日本語は本来、近代文明を語り得る深層の力を有している。ただ歴史の経緯の中で、その本来の力が今のところ発揮されていない。日本語が表層の様式をちょっと変化させて本来の力をとりもどせば、近代文明を語ることなどたやすいことだ――。
 おそらく子規は無意識に、日本語の国際性や普遍性を信じていたのであろう。既に中国語を柔軟に取り入れた日本語を、それと意識して日常的に使用していた子規にとってすれば、それは当然のことであった。
 これは漱石のような留学体験を持たぬ子規の楽観であったろうか。だが、百年の後の今の日本語の姿を見れば、結果として誰も子規の認識が誤っていたとは言えないのである。
 子規の意識は過去の言葉に向う。芭蕉を読み直し、蕪村を再評価し、さらに俳句分類という途方もない作業を行う。
 それは、日本語というものが持つ根源的な力への信頼である。やがて万葉集を取り上げる子規の意識が同様の発想に基づいていることは言うまでもない。
 その日本語に対する信頼のために、子規は、壊しかつ作るトリックスターとして時代を生きることができた。
 言語を壊す力、それは時代感性から発せられる個人の創造の力である。日々の生活の中で受け止めた事象を言語化するとき、従前の表現、すでに認知された表現では蔽い尽くせない部分を何とかしようとするベクトル、それは個別化に向う個性の力である。個人が作り出した特化された言葉こそが、時代の言語を変容させる力を持つ。
 むろんその力が、個人の内面の創造力からだけでなく、異界の言葉や、ある特定の領域の言葉によってもたらされる場合もある。だがその場合も、その言葉の必然性を持込んでくるのは、一個の言語主体である。
 一方、言語を作るという作業は社会的な行為を伴う。表出された言葉を受け止める主体がなければ、その言葉は意味をなさない。話し手は聞き手を要し、作家は読者を持たねばならない。そのとき初めて言語は、共同化へと向うのである。
 子規は、自らが生み出した新しい五七五の韻律を表出し続けた。その行為は、それまでの俳諧の世界の秩序を破壊するものであった。その構造を打ち壊し、価値観を転倒させるものであった。
 さらに子規は、その価値と解釈の仕方を説きつづけ、その受け手を増やしていった。そして、近代日本語がおおよその形を整えたとき、まるで歴史の使命を果たし終えたかのように没する。
 子規の、その二つの力が、虚子と碧梧桐という二つの才能に分化されて継承されたのである。
 言うまでもなく、虚子は作り、碧梧桐は壊す。
 作る虚子にとって、言語は個人の外部に普遍的に存在している。それは個人を越える超越的な存在である。それは構造として、どこか個人を超越した空間に、いや、空間を越えた時空に浮かんでいる。
 それは、虚子に主観性や自意識が不足しているということではまったくない。逆である。虚子の内面にはそのようなものが充満している。にもかかわらず、虚子は主体の外部の言語を追究するのである。
 一方、壊す碧梧桐にとって、言葉は一人一人の個人の内部に存在する。したがってそれは、碧梧桐自身の内面にもあるし、また子規の内面にも存在するはずのものである。
 碧梧桐は、記述され構造化された言語よりも、彼の目の前で話し続ける主体の言語を、真実の実体として感じ取る感性の持ち主である。
 言うなれば虚子はラングを信じる構造派であり、碧梧桐は具体的なパロールを信じる主体派である。そしてどうやらこの二人は、この互いの深層の違いを生涯自覚することがなかったようなのだ。
 碧梧桐は子規の革新的な資質を受け継いだようにみえる。そうした見方からは不可解なことだと思われるかもしれないが、虚子の言葉こそが新しい近代の言葉であり、碧梧桐の言葉は、むしろ旧来の日本語の近代から疎外された部分を重く背負っている。
 日本の定型詩における近代の構造を守り、強化する方向に力を尽くしたのが虚子であり、その過程で疎外され、捨て去られた部分にこだわり続けたのが碧梧桐である。
 これはよく誤解されることだが、虚子は、日本の伝統を守るという意味で守旧派なのではない。子規が生み、虚子自身が育てた俳句という場における近代日本語を守ろうとする守旧派なのである。
 碧梧桐の破壊は、すでに近代日本語の破壊である。それは子規の破壊とはすでに段階が違う。
 逆説的な言いように聞こえるかも知れないが、日本の近代化という尺度で測る限り、虚子はあくまで成功した改革者であり、碧梧桐は失敗した保守派である。この意味で、日本の近代という座標の中で見る以上、いかにも虚子は光であり、碧梧桐は影なのである。  

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