東京新聞連載 「わたしの愛誦句」  秋 尾    敏        平成14年3月日曜版

第一回
赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
 この句に巡り会ったのは中学生のときのことで、たしか学習参考書にあったのだと思う。直観的に、赤い椿が白い椿といっしょに落ちたのだと読みとったのだったが、解説を読むと違っていた。時間差なのだという。なるほどとは思ったが、ではなぜ同時に落ちたと読んではいけないのか。そのとき、むらむらと懐疑の心が芽生え、回答とか定説とかを信じない青春期に突入した。むろんそれは、自分の感性への疑念でもあったのである。
 やがて、解釈というものはその作品の芸術性をより高く導きだす方の勝ちだという萩原朔太郎の論に方向性を見出すのだが、この句は今でも、ことあるごとに蘇って私を脅かす。お前の読みは一面的なのではないか、急所をはずしているのではないか、と。その意味でこの句は愛誦句ではない。私に取り憑いた句である。そうではあるが、生涯で一番反芻してきた句なのである。
第二回
蒼い墓あり朧夜の火が焚かれ  河合凱夫
 人には死の予感というものがあるのだろうか。この句を詠んだ四ヶ月後、凱夫は冥界に旅立った。  この句が、わざわざ「あり」とまで述べているのは、焚かれた火に墓が浮き上がり、ああ蒼い墓があったのだ、と作者が改めて認識したからである。火の後ろに佇む墓の「蒼」に、作者は何か特別なものを感じ取ったに違いない。
 それにしても春の夜の墓前で火を焚くという行為は通例のことではない。モチーフとしての実景はあったのだろうが、この景は、幾度となく作者の胸に去来し、反復されてきた心象の風景ではなかろうか。  おそらくこれは、このときにふと浮かんだ死の予感というようなことではないのである。「蒼い墓」とは、作者の心に棲み続ける死へのイメージである。人の内部には、常に死を考えている部分があるということなのであろう。
第三回
初蝶の石をぬけ出る白さかな 秋元大吉郎
 俳句には、普遍的な意味を持つ「ハレの句」と、私的な挨拶句である「ケの句」があると言われている。だが実際は、すべての句に、ハレの側面とケの側面があるのではなかろうか。  掲句は、初蝶を詠んだ写生句である。「石をぬけ出る」という感覚的なとらえが、清明な初蝶の生命力を鮮やかに伝えている。  しかしこの句は、県議会議員の職にあった作者が、一身を賭して市長選への出馬を決意したときの句なのである。とすれば、この句に込められた思いや挨拶性もまた明らかである。  写生句としての読みは、この句のハレの面を引き出し、また作者の状況を理解しての読みは、この句のケの面を引き出す。  俳句表現は、私的な境涯を、このように写生句に重ねて詠むことができる。そこにも俳句の面白さがある。そのことを私に教えてくれたのがこの一句であった。
第四回
野を焼いておのれ葬る如屈む 井上純郎
 「ごとく」とか「ように」というのは直喩であって、明らかに似ているものどうしを結びつける修辞法である。
 ところが俳句の直喩は、簡単に似ていると分かるものどうしを結びつけようとはしない。この句のように、日常感覚では似ていると思われないものどうしを結びつけ、読者の新たな認識を呼び覚まそうとする。
 野焼きの荒涼とした景色の中に、抜け殻のように屈み込む所作を、作者は「おのれ葬る如」と喩える。野焼きは、古い草木を焼くことによって新たな生命力を呼び込もうとする作業であるから、この人も、自らの過去を葬ることによって未来を獲得しようというのであろうか。日常感覚と隔たった措辞による直喩の違和感は、読者の人間存在に対する深い認識を呼び起こす。俳句の比喩は、日常感覚での類似感を超えて、 存在への深い認識を呼び起こすものである ことをこの句は教えてくれる。
第五回
ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋
 昭和八年の作。何と新しい感性であることか。「ちる」と「海」とを繰り返すことで、桜の花びらが永遠に海に散り続けるかのような時間の連鎖を表現し、眼前の光景を描写する文体でありながら、抽象化された虚の空間としての心象風景を作り出すことに成功している。
 ここには瑞瑞しい明るさと寂寥感とが同居している。詩人は未来を予見する存在だと言われるが、まるでこの後に起こる大戦中の散華や戦後の虚脱感を見通し、荒れ果てた魂を救おうとしているかのようである。人の営みのすべてを包み込んで繰り返される季節の循環、時間の永遠性そのものを詠っていると言うこともできよう。  難しい言葉はどこにもない。人を驚かす新奇な言い回しもない。それでいて、この句はいつになっても新しく、私たちの胸を打つ。不思議なことである。言語表現の可能性の大きさをこの句は教えてくれる。