エッセイ


        鳴弦窓雑記
 俳誌「軸」連載

 
「俳句文化」ということ

 正岡子規は俳句を「文学」だと説いた。これは当時の社会で、道楽の一つとしてしか見られていなかった俳諧を「文学」に格上げしようとする主張であったが、一方でそれは、日本の「文学」に独自性を与えようとする主張でもあった。日本には日本独自の「文学」のかたちがあってよいと子規は考えていたのである。
 一方、昭和になって石田波郷は、俳句は文学ではない、と言った。文学の根源にある「虚構」という概念を否定したところでの発言である。句集『鶴の眼』(昭和14)の序文を書いた横光利一がそのことを取り上げたので、あちこちから批判が起きた。それに対して波郷は、「勿論俳句は文学である」と断ったうえで、「俳句性の確認の為に俳句は文学でないと言つていゝ角度がある」(「馬酔木」昭和15年3月)と説明した。俳句性、つまり俳句というもの独自の特性を見いだすために、「俳句は文学ではない」という視点が有効だと言っているのである。
 では、その「俳句性」とは何か。波郷は、主宰する「鶴」の昭和十八年十月号に次のように書いている。

 俳句こそは些の偽りも許さぬ行道である。構成とか創作とか想像とか、さういふものが文芸の性格を為すならば、俳句は文学ではない。俳句は人間の行そのものである。生そのものである。口頭禅ではない。まして片々たる散文的十七字であるべきわけのものではない。(「此の刻に当りて」)

 波郷のこの主張は、一般の「虚構」を旨とする「文学」の中にあって、「構成とか創作とか想像とか」を許さず、より純粋に韻文によって書き手の生の姿を表出するというところに俳句の特性を見いだそうとするものである。つまり、波郷にとって俳句は、文学の基盤のひとつと考えられている「虚構」を用いない文学なのであるから、それは文学であって文学ではない存在なのである。
 この波郷の考えも、文学の定義に独自性を与えるものである。一般に言われている定義とは異なるが、こういう文学もあるのだという発想は、子規に通じるところがある。
 一般に波郷が切字を重視し、俳句の韻文性を強調するのは、戦後の第二芸術論に対抗してのことと思われている節があるが、それ以前から波郷は散文性を否定していた。
 ところで、これとはまったく違うところで「俳句は文学ではない」と同趣旨の発言がある。歴史学者の森山軍治郎氏が若き日の著書『北海道民衆俳句の旅』(日本放送協会・昭和53)の中に書いているのだが、昭和四十年代、北海道の利尻島に旧派の宗匠がまだ残っていて「わたしらのばあいは、俳句が第二芸術だっていわれてもいいんですよ。親睦が第一なんですから。俳句って、そういうもんじゃないですかね」と語ったというのである。
 これは正岡子規以前に遡る思想である。著者の森山は、第二芸術でもいいと開き直っている俳人に出会ったのは初めてだと驚いているが、現在でも、こうした考えで俳句に関わっている人はけっこう多くいるのである。というより、ほとんどの俳人が、俳句のそうした側面を否定することはできないはずなのである。
 人から俳人と呼ばれる身であれば、賞品の出るようなコンクールの選者をして、納得のいかない作品を数に入れたこともあるだろう。また誰かに宛てた手紙の最後に、思いを暗示した俳句を書いたこともあるだろう。あるいは世話になった人に頼まれて、相手が喜ぶような言葉を並べて揮毫したことがあるかもしれない。
 これが一般の俳句愛好家なら、選者の顔ぶれを見て作品の傾向を変えるのは当然のこと。後世に残す俳句よりは、今日の句会の付き合いを楽しくしようと考えるのが普通なのである。
 厳しく言えば、それらは子規の言う「文学」の俳句ではない。あるいは、波郷の言う「文学ではない」俳句でもない。いわば「親睦」の俳句である。
 だが、実は俳句は、昔からそうやって行われてきた。識者がどんな高邁な理想を掲げようと、現実の俳句はそのように広がっている。そしてその中から、まともな作品を生み出す作家が育っていくのである。
 一方で、俳句の表現力や芸術性について考えなければならない。俳句の表現をこれからどう高めていけるのか、それは文学の中でどれほどの価値を持ち得るのか。
 だが、その考察だけでは、俳句というものの全体を見たことにはならない。それはいわば氷山の海面上に突き出た部分である。俳句には、その下に巨大な裾野が広がっている。
 その裾野の部分まで含めて「文学」と呼ぶには無理がある。文学という学問の領域で、俳句のすべてを考察することはできない。
 なぜなら、俳句は一つの文化であるからだ。その文化の中で人々の豊かな人間関係が形成され、娯楽や遊技とよぶべき活動が行われてきた。
 月並な喩えになるが、ここで氷山の話を思い出してみよう。見えている部分が全体の二割だというあの話である。この氷山の姿に、俳句というものの姿が重なる。
 氷山の見えている部分が、文学作品として流通している俳句である。その下部に、文学と呼ぶにはいささかの注釈が必要な俳句の世界が広がっている。この氷山の全体が、俳句文化と呼ぶべき領域である。
 文学史に残るような作品ばかりが俳句ではない。俳句は、文化としての広がりを持っている。この事実を認識しなければ、俳句というものの真の姿を捉えることはできない。
 従来の俳論は、この文学の水準の水面下に広がる俳句を否定してきた。それは「月並俳句」「点取り俳句」「ご隠居俳句」「類想句」などと呼ばれ、さげすまれてきた。それは、俳句が、「文学」という視点からのみ考察されて来たからである。文学という視点から見れば、たしかに水面上の二割にばかり価値があるように見えるだろう。残りの八割は、類型の海に暗く沈んでいる価値のない存在なのである。
 けれど、それを「文化」という視点から眺めると、様相は一転する。水面上に顔を出す部分の容積は、基盤となる庶民の俳句文化の容量に支えられているのである。豊かに広がった庶民の俳句文化がなければ、文学史に残るような作品が結実することもないのである。
 文学研究の視点に立てば、類型句や点取りを狙った俳句は否定されなければならない。近代文学は、近代的自我を持った個人が、周囲とは違う自分という存在を自ら認識し、状況を相対化して、そのことを外部に表明する営みだったはずなのである。それは点を取り合ったり、俳句の約束ごとに身を預けたりする文化とは相容れないものだ。そうした考えからすれば、この水面下の俳句には何の価値もない。したがって、俳論は、その存在自体を否定するような発言を繰り返してきた。
 だが、よく考えてみれば、多くの俳人は、この文化の基底から這い上がり、海面上に顔を出すのである。俳句文化の営みが、個人の内面を育み、作家を育て上げるという側面を見落とすべきではない。
 文学としての俳句は、俳句文化のごく一部でしかない。それは確かに、俳句部分の花や実であるかもしれないが、枝や幹や根や土がなければ、その花が咲くことはなく、実がなることもない。
 ただ、そこに問題があるとすれば、遊技的な俳句や類想句を作りながら、自分はすでに文学者であると勘違いしている意識の存在であろう。あるいは状況を個人として認識しようとしない主体が、レトリックの型ばかりを身に付け、文学表現を成功させたと勘違いしている場合もある。
 それが文学であるならば、そこには確固たる書き手の世界観があり、独自の視点がなければならない。ここがもっとも肝心の部分である。できあがった作品が成功しているかどうかは二の次の問題である。どのような作家にも、成功作とそうでないものはある。
 文学としての俳句を目指すならば、まずは書き手が、独自の世界観を形成しなければならない。
 例えば高浜虚子が「客観写生」ということを言うが、虚子には、自我を確立していない書き手の主観表明には何の意味がないと言うことが見えていたのである。だからとりあえず客観写生にしておけと言った。
 虚子の断念は同情に値する。しかし一つ異論を唱えておくなら、人は表現することによって内面を形成していく存在だということである。主観の表明を禁じてしまったなら、その人にわずかに残された可能性さえも奪ってしまうことになる。
 現実には、虚子の時代には社会の習慣や因習に頼ってしか生活のできない人がほとんどであったし、現代では、テレビや新聞というマスメディアによってもたらされる世界観にたよってしか世界を理解できない人も多い。
 だが、そうした人たちの中にも、自分自身の言葉がほしいと感じ、自身の言葉で表現ができるようになりたいと思う人がたくさん存在するのであって、そのうちの幾人かがやがて文学としての俳句にたどり着く。
 彼らは俳句の世界に入り、投句し、選句し、成功と失敗とを繰り返しながら、俳句表現を身に付けていく。
 もしその努力が、自らの内面に独自の状況認識を作り上げていくことに結びついていかないのであれば、彼らの俳句が文学になることは一生あり得ない。たまたまできた一句の姿が良いと言っても、それだけのことである。
 その、「それだけ」の世界に安住するのか、それとも独自の文学を目指すのかは、その人次第のことである。人が外からどうこう言う問題ではない。
 ただ結社は、俳句文化の楽しみを生成しつつ、そこから独自の文学表現へと飛翔しようとする意識を育む力学を持たなければならぬと思うのみである。
俳句の価値

 俳句は世界で一番短い詩だといわれる。そのゆえに、世界に広まっているのだという意見さえある。だが、はたしてそうか。
 世界にはかなりの数の短詩がある。ブルガリアにナヴァという短詩があることは以前述べた。中国には、五七五の漢俳があると思っていたら、もっと短い三四三の曄歌(ようか)というのがあるのだそうだ。そのほか、いくつかの国に短詩があるという話を、夏石番矢氏から聞いた。
 それらの中で、どれが一番短いかということは、簡単に比較することができない。言語が異なり、文字も違うのだから当然である。例えば、英語と日本語の長さを、文字の数で比較しても意味がない。一文字の役割が違うのだから比べようがないのである。
 筑紫磐井氏は、連句の七七の短句は、俳句より短いという見解を述べている。七七の短句が独立した詩形として認識されてきた形跡は認められないから、筑紫氏の意見は屁理屈というべきかもしれないが、俳句が世界一短いという主張に意味がないという点には賛成できる。世界一短いということには何の価値もない。俳句の価値は、そんなつまらないところにあるわけではない。
 世界の短詩の中で俳句が一番有名になったのは、俳句が圧倒的な参加者による底辺の広さと相互評価のシステムが、表現の高みを生み出す才能を育んできたからだ。
 俳句は、表現というものをつきつめてきた歴史をもっている。限られた長さのなかで、どれだけのことが言えるかということを追究してきたのである。
 その結果、俳句は、文学表現というものの極限を構成する方法を獲得してきた。それはすべての文学表現の基礎となり得るものである。そのための方法が、「余情」「切れ」「省略」「凝縮」などと呼ばれるものである。
 「余情」は、言外に漂わせる情趣のことで、芭蕉のいう「にほひ」も同じようなことである。『去来抄』にある「くまぐままでいひつくすものにあらず(発句は、細かいところまですべて言い尽くしてしまうものではない)」という表現は、「余情」や「にほひ」が、「省略」と強く関わった方法であることを示している。
 句末の「切れ」は、読後に余情を作りだす。最後の「かな」や「けり」という詠嘆の助動詞は、もうそれ以上言葉では表現できないという気持ちを表しており、その後に余情の空間を作りだしている。
 一方、句中の「切れ」は、それまで言っていたことを中断し、一呼吸置いて視線や意識を変え、別のことを述べるという手法だが、その切断によって生まれる空白が余情を生み出す。つまり、すべて言わずに話を変えてしまうので、そこに意味の関係性をとらえようとして、読者の頭脳がフル回転する。書かれている以上の意味が、読み手によって作られるのである。
■『近代俳句研究1』

 鳴弦文庫から、『近代俳句研究1』を刊行した。筑波大学の綿抜豊昭教授には『明治期刊行俳書書誌』をお書き頂き、さらにその資料を文庫にご寄贈頂いた。有り難いことである。教授には、大学院で五年間、書誌学や文学のご指導を頂いた。お陰をもって、この三月で無事修了となる。心から感謝申し上げている。
 頂いた資料は『なると集』『酉歩記』『余波の水くき』『きくの香集』『亀のよはひ』『檜笠』『祥烟集』『ふたもゝ年集』『角組集』『秀芳園主古稀祝賀俳句集』『木の葉の栞』の十一点である。いずれも貴重なもので、特に『余波の水くき』は、つげ義治のマンガにもなった井上井月の編、また『木の葉の栞』は他の図書館での所蔵がまったく確認されていないものである。
 綿抜教授は、各資料から、千葉県の俳人の作品をぬいて下さっている。興味深いので、少し鑑賞してみたい。
『余波の水くき』(井月編・明18)
しつとして居ても小春を知りにけり シモヲサ 旭斎
降脚の湖水にうつる時雨哉          文生
 旭斎は、香取俳壇の中心人物で、全国に名を知られていた。書も巧みで、この地方の明治期の文化を担った一人である。しかし、この句はかなり凡庸であろう。世を捨てた井月の好みであったのか、それとも旭斎から送られたものか。武士の身を捨て、何の仕事もせず、他郷の信濃で乞食同前の生活を送っていた井月と心を通わせるにはふさわしい句であったかもしれない。
『きくの香集』(花井菊仙六十賀集・明23)
葉にひとつむしの穴なし翁草 下総   九十叟 梅庵
良薬の苦きもしらす幾久の主     七十一叟 文岱
手折行人を野菊のあるし哉      六十七叟 謙斎
白菊に申分なき庵かな             花香
しら菊や影さす水も匂はしき          香楳
ほの/\と匂ふ朝日や菊の花          千之
莟から香は芳しや庵の菊            以文
日黒みに達者や菊の庭せゝり          鶴翁
着せ綿や霜にもまけぬ菊の花          畊雨
 千之は、野田で教員をしていた俳人天野千之であろうか。耕雨は、旭の服部耕雨。いずれも平凡な句だが、還暦賀集であれば致し方のないことかもしれない。文岱の句は、菊仙が健康で薬を飲んだこともないと言っているのであろうが、裏もありそうでちょっとおもしろい。
『亀のよはひ』(越後国村山亀石古稀賀集・明23)
打はやす香も潔し七若菜        下総 旭斎
是からか盛りよ梅の七歩咲          逸窓
 旭斎の句は若菜の本意を真正面からとらえた句だが、嗅覚に訴えてきて秀逸。逸窓の句は、当たり前のことを言っただけ句の典型。こういう句を作る人が多かったから、子規が旧派を「月並」と言って批判したのである。
『祥烟集』(湖外三周忌追悼集・明24)
灰ふきを黙てたゝく梅見かな       下総 旭斎
 灰ふきは、煙草の吸殻をたたき入れるための竹製の筒である。「黙て」一語で追悼句にしてしまったのはさすがである。故人も梅が好きだったのであろう。
『ふたもゝ年集』(芭蕉二百回忌集・明25)
咲花を幣にかへてのまつり哉       上総 貞雄
有かたきものは目鏡そはつ暦       下総 旭斎
春雨やひとりの客によこす五器      下総 竹用
 旭斎以外の二人については不明だが、そこそこの句ではないだろうか。旭斎の句の方が妙である。なぜ芭蕉二百回忌に眼鏡の句などを出すのであろう。世間の常識を嫌った旭斎らしい気取りなのであろうか。
『秀芳園主古稀祝賀俳句集』(菊友古稀賀集・明43)
遠眼には老木と見えぬ若葉哉      上総  貞雄
古稀の賀や家の栄て咲く牡丹          弘染
両隣貸家となりて散る柳        千葉 蟇の家
 こちらの貞雄の句はよくない。賀句としても「遠眼には」では、詠まれた方も嬉しくはあるまい。他の二句も駄句である。
『木の葉の栞』(知足庵無能追善集・明44序)
雅びなる山の枯るゝに曇りけり  下総時六十九 老川
文字書た様な空なり初時雨           老川
枯れ果てゝ姿の白き蓮かな    仝      松操
極楽の道も見ゆるや露明り    下総    故極処
初秋の風も身に入む御寺かな   千葉     愛水
慾のない手の面白き踊かな    下総     青藍
野狐の伝寝覚まし雉子かな    仝      松操
 一句目は「雅びなる」と言ってしまったのが惜しまれるが、「山の枯るゝに曇りけり」は美しい言葉である。二句目は薄墨の墨跡を思っているのであろう。いずれも個性がある。松操のはただの説明で句になっていない。極処のは辞世の句だったのであろう。青藍の句はおもしろい。最後の句は「転寝」のことであろうか。
 この時期の句集は月並句がほとんどだが、自分も同じようなことをしていることを発見して、どきっとすることも多いのである。
■「主宰の目、選者の目 一人一人に合わせる」
 スポーツチームには、コーチと監督がいる。コーチは選手を育て、監督は選手を選んで戦いに勝つ。  この二人の価値観は多少ずれる。コーチはそれぞれの選手に寄り添い、その成長を考える。しかし、監督は、ときに選手を犠牲にしてでも戦いに勝たなければならない。
 俳句結社の主宰は、この二つの役割を同時に果たそうとする。参加者のすべてに目配りをし、その技量や意欲を高めつつ、結社として認めうる佳作を選りすぐっていく。これは結構難しい仕事である。  人の歩みというものは、曲がりくねっているのが普通で、まっすぐに王道だけを進んでいく人は少ない。ちょ っと横道へ逸れたからといって、急に評価を下げたら、その人は、自分が退歩したと思ってしまうだろう。谷底の道もまた次の山への道程であることを思えば、それは退歩ではない。そこに選句の難しさがある。
 昨年、ちょっと話題になった本に、池田俊二という人の『日本語を知らない俳人たち』(PHP研究所)がある。受験文法のレベルで俳句を論じてしまった怖ろしくもアブナイ本であるが、選者の誤謬を実名をあげて指摘したので、話題になった。その本で、「き」が過去の助動詞であることを理解していないと書かれた倉橋羊村氏が、「そんなことはわかっているが、選句は初心者を育てるためにしているのだ」と怒っておられた。私には倉橋氏の気持ちがよく分かる。キズはあっても、良いところのある句は採るべきなのである。
 国語教育の世界では、完成度ばかりを追い求める作文教育を「作品主義」として軽蔑する。作品主義では、多くの子どもたちの作文力を伸ばすことはできない。俳句も同じことで、監督業に徹し、作品主義を貫く主宰の懐からは、少数の天才は育つだろうが、その背後に多くの犠牲者が横たわることになるだろう。
 俳句は芸術だから才能のある人だけを伸ばせばよい、というのなら、選句の基準も厳格なものになるだろう。しかし、コーチとして、俳句という文化によって、いささかでも自分を表現し、生活を豊かにしていこうとするすべての人たちのことを思うなら、選句は「良いとこ取り」となり、基準は、一人一人に寄り添ったものとなっていくはずである。
 この、「一人一人に合わせる」ということがもっとも重要である。選句は、人がそれぞれの「風」を作りだすための手掛かりとなるべきだ。そもそも結社の目的は、皆が同じ俳句を作るようになることではない。傑出した個性を生み出していくことが目的なのである。
 とはいえ、選句はやはり厳密であるべきだ。次のような句を採るわけにはいかない。
春の雪心の底はまだ見せず
 季語が動く。「春の雪」は多少うまく付けているけれど、「心の底はまだ見せず」というフレーズは使い回しが利くので危険。「末黒野に何か忘れて来たような」なども同じ。
 諍いて余寒の夜や部屋無言
 「部屋無言」は不要。中七までで十分。
太陽の欲望春を引き寄せる
 理屈は分かるが、実感がない。
賽銭の音の連なる初大師
 月並。だれが詠んでもこうなる。去年詠んでも、来年詠んでも同じ。俳句は一期一会。そのときだけの何かを捉えていることが重要。「照るところばかりを歩き冬の朝」なども同様。
 では、どんな句を採るか。斬新で情報量が多く、実感のある句。規則で選ぶわけではない。最近上位に採ったいくつかを挙げておく。
告白の断面があり初鏡           表  ひろ
初恋の青き山河の歌かるた        秋元大吉郎
刻というものにはらわた涅槃西風     山崎 政江
亡きひとの芦刈っている耳の底      香取 哲郎
山の端に切られ鋭き天の川        金子  敏
梟は石の声して星揺らす         平垣恵美子
生臭きナイフとフォーク聖誕祭      木之下みゆき
十二月八日空行く雲は帆に        岡田 治子
淋しさの獣になってゆく蒲団        市川 唯子
                        (『俳句研究』5月号)
■日欧現代詩フェスティバルin東京
 二〇〇四年十二月九・十日と、東京九段のイタリア文化センターで「日欧現代詩フェスティバルin東京」が開催され、 私も俳句の朗読に加わった。
 「耕された夢・住まわれた言葉」というテーマによる このフェスティバルは、欧州の詩人と日本の詩人を一堂 に集めた日本で最初の詩歌フェスティバルである。
 八日夜には前夜祭があり、六本木の会場に着くと、某 国の詩人が交通事故を起こしていた。その事後処理に走 り回ることになって、先行きが思いやられたのだったが、 どうやらそれは厄落としであったらしく、その後のこと はすべて順調に運んだのであった。
 私の出番は二日目であったので、一日目は、吉増剛造 氏のドキュメンタリー『島ノ唄』などをのんびりと見て過ごした。
 翌日は、大岡信氏の基調スピーチがあり、続いて「グ ローバリゼーションのなかの詩の役割」というテーマで ラウンドテーブル・ディスカッションが行われた。司会 は東大総合文化研究所の小林康夫氏、参加者は、フラン スのジャック・ダラス氏、フィンランドのカイ・ニエミ ネン氏、ポルトガルのカジミーロ・ド・ブリート氏、日 本の辻井喬氏、藤井貞和氏、夏石番矢氏、城戸朱理氏と いう面々である。
 昨今、グローバリゼーションという言葉が流行語にな っている。要するに、情報の伝達が地球規模で速やかに なり、政治・経済・社会の動きが、世界規模で同時的に 進行するようになって、「国家」の境界が曖昧になると いう状況が進行しているのである。
 世界中が同じ基準で動くようになれば、戦争はなくな りそうに思えるし、国ごとの貧富の差も小さくなりそう である。また人権や福祉についての国家間の差も小さく なるだろう。そうした意味では、グローバリゼーション は悪い潮流ではない。
 だが、いくら便利になると言っても、世界中の通貨が 同じになってしまったら、海外旅行をする楽しみも半減 してしまうだろう。私たちは、珍しいものが見たいから 旅行をするのである。多様性こそが文化の豊かさである。世界中どこへ行っても、同じ通貨が使え、同じレストラ ンがあるというようなグローバリゼーションは、決して おもしろい社会を作らない。
 まして、世界が、ひとつの言語になってしまったらど うだろう。便利は便利だろうが、文化の多様性は失われ、 人類は、単純化された単一の貧しい文化を持つことにな る。そんな事態は願い下げである。
 現実に、もっとも問題なのは、現在言われているグロ ーバリゼーションが、アメリカという強大な国家の基準 を、世界中に当てはめようとする潮流と深く関係してい ることだ。インターネットの世界では英語が標準だし、 経済界もアメリカ型の利益優先主義を受け入れているよ うに思われる。
 気づかぬうちに、グローバリゼーションは、私たちの生活に入り込んでいる。中学校では、英語も国語も同じ 週三時間の授業になってしまっている。これもグローバ リゼーションの結果だと言えるだろう。これからの社会を生き抜くことを考えれば、子どもたちが、英語やコン ピュータが使えることは必要だ。だが、それは、日本語 が使え、日本文化を身に付けた上でのことではないのだ ろうか。
 そうした状況で、詩人が、あるいは俳人が、何をどう考え、自分の詩をどうするのかが、今回のディスカッシ ョンのテーマであった。要するに、日本的であることと、 世界に通用するということをどう考えるか、ということ である。
 夏石氏は、俳句が、世界中で重視されつつあることを 述べ、雄弁すぎる従来の西欧の詩を超えた新しい詩の方法が俳句にあることを述べた。また、普遍性を見いだす と同時に、個別性を認識する営みがなされるべきである ことを説いた。
 城戸氏は、世界の詩人が俳句に注目していること、エズラパウンドのイマジズムやシュールレアリズムによっ て開かれた前衛的な要素が、俳句には最初から含まれて いたという説明を加えた。また、固有のもの、個別のも のを徹底的につきつめていくことが重要だと主張した。
 討論としてはかみ合わない部分の多いディスカッショ ンであったが、それぞれの詩人の含蓄ある思想や表現は みな傾聴に値するものであった。
 俳句は、日本人にしか分からない、と言って済む時代 ではなくなってしまった。なぜなら、世界中の詩人が、 今、俳句という表現に注目しているからである。
 だが、世界に通用しようとして、英語におもねった表 現を考えてみても、決して成功しないはずだ。文化とい うものは、極度に個性的なもの、地域的なものこそが、 普遍性を持つのである。日本的であることによって世界 的になるという発想が重要であるように思われる。ただ しそれは、深く追究された日本でなければなるまい。
■第三回世界俳句協会大会
 ブルガリアの首都ソフィアで行われた第三回世界俳句大会が無事終了した。ナヴァという短詩の伝統を持ち、もっとも人間的な音楽を育んだ国で世界俳句大会が開かれたことは記念すべきことだと考える。
 運営面から見れば、無事とは言えない部分もあったけれど、日程はすべて完遂され、行事のすべてが充実した内容であったことは特筆に値する。現地の組織がどうなっていたのかは分からないが、ともかくも受付やら何やらを日本人が行うことになり、軸から参加した皆さんにもさまざまなご尽力を頂いた。深く感謝している。
 大会の前日は、記者会見、夏石番矢氏のテレビ出演などがあり、夜は日本大使館での歓迎会があって、軸の面々も参加し、各国の俳人の朗読などが行われた。
 十六日からの会場は、ソフィアの中心街にあるヨーロッパ・ブルガリア文化センターで、一日目は、午前十時からのセレモニに続いて、七人の講演が行われた。  まず、セルビア・モンテネグロのドラガン・j・リスティッチ氏が、翻訳によって作家の特徴は失われるが、しかし俳句が世界に広がるという可能性について述べ、「セルビア方言」が、俳句によってその表現力を証明しつつあると語った。確かに少数言語にとっては、その存在を証明する文芸の形式が重要であろう。
 二人目のリチャード・バーンズ氏は、イギリスの著名な文学者であるが、子どもや学生に俳句を教えるときに「考えをほどく(unthinking)」ことが重要であることを力説された。日本の国語教育にも「概念くだき」という用語があり、通じるところがあると思った。
 次のエドヴィン・スガーレフ氏は、ブルガリアの共産党統治時代の反体制作家で、国会議員も三期務めた人である。ナヴァというブルガリアに伝わる短詩と俳句を比べつつ、「詩の国」ブルガリアの俳句の可能性を述べた。
 午後は、アメリカのデヴィッド・G・ラヌー氏が、一茶の句を交えて行われた連句を発表した。ラヌー氏は、一茶の句を数千句英訳している。世界俳句協会のディレクタの一人で、私の句も翻訳して頂いている。
 続いてドイツのマルティン・ベルナー氏が、五月に、ドイツのバート・ナウハイムで行われたヨーロッパ俳句会議の報告をし、清水国治氏が、俳句と俳画の関わりを実践的に述べた。最後はロシアのドミートリィ・クドリャ氏が、現代のロシア俳人が、芭蕉の句との交響の中で作句していることを語ったが、未だにそれ以降の日本の俳句には関心がないようであった。 講演に続いて、ドイツのエリカ・シュヴァルム氏による生け花と俳句朗読のコラボレイションが、私の「青嵐あなたをつなぐ紐がない」の朗読で始まった。シュヴァルム氏は草月流の理事である。その後、伊藤園新俳句コンテスト結果発表、吟遊俳句賞授賞の発表(アラン・ケルヴェルヌ氏受賞)など盛りだくさんの行事が行われた。
 二日目は、ウクライナのオレーグ・ユーロフ氏が、本歌取りの技法を中心に連句の作法を語った。よく勉強していることは分かったが、それではウクライナのオリジナリティはどこにあるのかという疑問も湧いた。
 次は吟遊俳句賞の受賞者アラン・ケルヴェルヌ氏の講演で、芭蕉の世界的な普遍性を例に、俳句が東洋の神秘などではなく、世界の「詩」であることを強調した。
 続いて夏石番矢氏が、「俳句をとおして本当に東洋と西洋は出会ったか?」と題し、R・H・ブライスやロラン・バルトの紹介によって、俳句に関する数々の誤解が西洋にもたらされたことを、実例を挙げ、具体的に指摘した。
 次は、詩人でポルトガルペンクラブ会長のカジミーロ・ド・ブリトー氏が、自身の俳句体験を語り、「詩、特に俳句は、音楽と意味と精神とがわれわれの知る限りもっとも完全な形で結合したもの」と語った。  講演の最後は私で、四月号のこの欄でで述べたような内容を英語で話した。俳諧が、漢詩と和歌の国際交流によって生まれたこと、またそれが、滑稽の精神によるものであることを話したわけだが、何とか通じたようであった。その後自由討議となり、活発なやりとりが行われた。また世界俳句協会の運営についても話し合われた。  その後の俳句朗読では、軸から参加した皆さんも登場し、ブルガリア語に挑戦する人もいて、会場を盛り上げた。その後、ジュニア俳句コンテスト2005の結果発表があって、この日は散会となった。
 三日目はプロヴディフという古い都市への小旅行で、バスで三時間掛けて出掛けた。プロヴディフの詩人との交流会が予定されていたが、地方都市ということで、私は十数人の会かと思っていた。ところが始まってみたら、百人を超える参加者があり、テレビの取材も来ていて驚いた。ここでも俳句の朗読の交換会を行った。私は「大方の道は歩いた蝸牛」「寒林の何かを待っている寡黙」「三日月の明日の重さを考える」の三句を朗読した。
 雑駁な記録になってしまったが、世界の人々がこんなにも俳句に親しんでいることを知ってほしかったのである。
■ 『日本語を知らない俳人たち』の危なさ
 俳句の本には、アブナイものが多い。アブナイというのは、間違ったことやあいまいなことがもっともらしく書かれているということである。アブナクても面白ければよいという本もあるだろうが、正しさを標榜してる本がそれでは困る。
 『日本語を知らない俳人たち』という本が出た。池田俊二という人の著書で、PHP研究所から刊行されている。これは俳人の日本語を糺すという本であるから、間違っていては困る。だが、いささかアブナイ。
 内容は、まず、いくつかの結社誌の誤りを例示し、次に俳人協会の句集の誤謬を指摘して、最後に、全国誌の俳句欄に選ばれた句の誤りを拾い出して、なぜこんな句を選んだのかと名指しで糾弾するというものである。
 個別に言えば面白い部分もある。読んでいて、確かにここは俳人が不用に言葉を使ってしまったなあ、と思うところもある。
 だが、もっと根元的なところで、この著者は三つの問 題を抱えている。
 一つ目は、俳文芸が、中世に始まることを忘れている(あるいは、気にしていない)点である。
 例えば著者は「反省の足りぬ足りぬと髪洗ふ」の「足りぬ」を、文語で作るとすれば「足らぬ」だと言う。確かに平安時代ならそうであるかも知れない。
 だが、「足りる」という動詞が世間に広がったのは、明治や大正ではない。江戸時代のことである。江戸時代の言葉も使えないということは、俳句は平安時代の言葉で作れということなのだろうか。それでは、この句の季語「髪洗ふ」が季語になるのは大正時代になってからのはずだが、それはどうするのであろう。活用のある言葉だけを、平安時代のままにするということなのだろうか(この例句自体が論じるに値する句ではないので、あまり書きたくはないのだが)。
 さらに言えば、文語と口語の混交は、いまや詩における一つのテクニックである。文語と口語の混交を認めないとすれば、短歌の俵万智や作詞の松任谷由実の作品はどうするのであろう。彼女たちは、文語と口語を交ぜるところに自分の文体を作り出している。多くの人が、そこが新しいと感じるから売れているのである。
 二つ目は、著者の文法の理解が、いささか浅いという点である。
 著者がもっとも多く指摘するのは、回想の助動詞「き」の誤用である。「き」の連体形の「し」が、「た」と同じように完了や継続のように使われてしまうというのである。軸でも宮崎修二朗さんが問題にしたことがある。
 だが、著者は、「過去」と「回想」との違いを考えているのであろうか。
 「き」を回想の助動詞というのは、語り手が記憶を甦らせているからである。「き」が読者に伝えてくるのは、その事実が過去だったという客観的な事実以上に、ありありとそのことを思い出している語り手の主観である。
 これは文語のほとんどの助動詞に当てはまることで、「む・べし・まじ・まし・らむ・けり」などさまざまの助動詞は、すべて語り手の主観を繊細に伝えるのであって、語られている事物についての客観的な情報を増やしているわけではない。
 田を守りし生涯八十八夜かな
 この「し」を、著者は誤用だという。だがこれは、「し」を客観的な過去と読むから間違いに見えてしまうだけのことではないか。語り手がしみじみと回想している「し」とすれば十分理解できると思われる(この句も類句が多そうで、論じたくはない句ではある)。
 青芝の雨たっぷりと吸ひし色
 この例も、「吸う」が「現在に及ぶ動作」だから「八割方誤用」だという。そうだろうか。江戸時代にもすでに「やまふかくわけ来しけふや仏生会」(「葛三句集」)、「門へ来し花屋にみせるぼたん哉」(「太祇句集」)などという例はいくらでもある。それらがいくつあっても、「誤用」で済ませてしまう気なのだろうか。
 これでは著者の言う文法が「受験文法」程度と思われても仕方あるまい。受験文法で詩を語るというのは、たとえて言えば、ニュートン力学で宇宙を語るようなものである。
 三つ目の問題は、筆者の文法が、「規範文法」だという点である。今どき珍しいとは思うが、文法を憲法のように考えて、逸脱を許さないという態度には驚くしかない。生半可な規範を、創造という行為に当てはめようとするのは、表現の自由をも犯そうとする思想であろう。
 文法は、規範ではなく科学であるべきだ。それは事実を説明できなければならない。「誤用」を指摘するだけではなく、なぜ俳句の語法がこのようになるのかを説明できなければ意味がない。
 俳句について書かれた本を読むのはよいが、何でも信じてしまうととんでもないことになる。どうやら、ほどほどに参考にする、という程度がよいようである。
■明治40年代の月並俳諧
 虚子といえば、写生句を連想する人が多かろうが、虚 子自身の句は多様だ。というより、虚子は、俳句に多様 な姿があることを一番知っていた人であるだろう。破調 や主観の句も多いし、連句を復活させようとさえした。
 しかし、一般の俳句史では、虚子は、俳句を客観写生 とか花鳥諷詠とかの概念で規制し、俳句の姿を限定した 人という描かれ方をすることが多い。
 確かに虚子は俳句を限定した。実際の俳句は、虚子の 説いた俳句の姿の外側に大きく広がっている。
 このズレが何に由来するかと言えば、虚子が、一般の 人たちがまともな近代俳句を作るには、写生しかないと いうことを信じたことであろう。
 虚子は、子規の考えた新しい俳句を世に広めようとし た。つまり、一人でも多くの人が、まともな近代俳句を 作れるような文化をもたらそうとした。それには、だれ もがすぐにまともな俳句を作れる方法が必要だった。そ れが客観写生である。
 では、なぜ客観写生が有効だったのか。
 それを知るには、当時、まだまともな近代俳句を作る に至っていない人たちの作品を見てみるのが一番だ。
 ここに一冊の旧派の句集がある。明治四十二年六月に 埼玉県入間郡宮寺村から出された『戊申月次集』である。 「月次」というのは、「月並」と同じで、月ごとに句会 を行ったということである。通常は、月刊で薄い句集を 出すのだが、この句集は、一年分をまとめて一冊として いる。各月に、「松の巻」「梅の巻」「桜の巻」「藤の巻」 「桐花の巻」「梅雨の巻」「七夕の巻」「萩の巻」「名月の 巻」「菊の巻」「時雨の巻」「極月の巻」と名を付してい るのが少し洒落ている。  選者は、明治の旧派を代表する宗匠、三森幹雄である。 序文に「天寿老人時八十一歳」と記しているから、亡く なる前年の仕事ということになる。
 おそらくは入間の裕福な商家の人たちが中心となっ て、東京の有名な宗匠に一年間句を送り続け、選をして もらった結果なのだろう。それをまとめたのが、この句 集である。八月分に当たる「萩の巻」の「秀逸」に選ば れた句を見てみよう。

 沖鱠さつはりとした風味かな       巨盛
 夕顔や雨は降らねと此の湿り      花渓
 わすられぬ忘れかたみや土用干    果然
 素人にも出来る料理や沖鱠      花寿美
 楠を植えし庵や風かをる         左遊
 神垣やおのつと風の薫りくる      やまけ
 相撲召す使や是も国の華         有節
 遊 をほめ/\風呂を貰ひけり      一静
 沖鱠暑さわするゝ風味かな        巨盛
 夕かほや煙も細き家ひとつ        茶好
 鮮かにしまりし味や沖鱠         三ツ雄
 山間の一すち道や風かをる       不出来
 ゆふかほやしめりの戻る戸張絹     花渓
 夕顔に軒尚低う覚えけり          一静
 武蔵野や今は桑茶に風かをる      茶好
 大方は女物なり土用干し         一静

 これがいわゆる月並調の句である。「秀逸」に選ばれ た句にしてはいささか水準が低かろう。すでに子規が没 して七年、大正を間近に、まだこうしたレベルの句会は 数多く存在していたのである。虚子は、こうした人たち を相手に、俳句とはどのようなものかを言わなければな らなかったわけである。そこを考えなければなるまい。
 さて、しかし、上記の中で、少しは俳句と呼べそうな ものもある、次のような句である。

 楠を植えし庵や風かをる           左遊
 神垣やおのつと風の薫りくる       やまけ
 夕かほや煙も細き家ひとつ         茶好
 山間の一すち道や風かをる        不出来
 ゆふかほやしめりの戻る戸張絹      花渓

 お気づきと思うが、これらの句は、自分以外の景物を 描いた句である。レベルはともかく客観写生である。
 それに対し、一句目の、「沖鱠さつはりとした風味か な」などは、完全に主観の表明であって、それが、まる でテレビのグルメ番組の科白のような月並臭を作り出し ている。どう見てもこれは俳句ではない。
 私の考えでは、写生とは、それ自体が客観的に記述す る行為である。したがって、客観写生とは、客観的に写 生することではなく、客観を写生する行為なのである。
 一方に、主観を写生する句も存在する。しかし、これ は難しい。なぜなら、主観(自分)を客観的に記述する という精神や文体を、当時の一般の日本人は、まだ身に 付けていなかったからである。
 虚子は、そういう俳句愛好家が山のようにいる時代に、 近代俳句とは何かを説いた。そのことを忘れては虚子が 可哀相だし、、逆に、こういう人たちに向かって説かれ た虚子の言説を、そのまま現代の俳句の定義と考えるの もおかしな話なのである。
■新暦・旧暦
 高校に入学して、天象部に入部した。ほとんどの高校 では地学部と呼ばれている部活動で、要するに天体観測 や気象観測や地質調査をするのである。
 私は希望して気象班に入った。中学のときから気象観 測には興味があって、ときどきは柏市にある気象大学校 に遊びに行ったりもしていたのである。
 天文や地質をやる連中と較べると、気象班は人数も少 なく、やることも地味で、ともかく毎日欠かさずに朝の 観測を継続して、熊谷気象台にデータを送るのである。 そのほかには、電気的な測定に興味があったので、秋葉 原に通っては、サーミスタなどという素子を仕入れてき て、精度の悪い温度計を作ったりしていた。素子の特性 を補正できるほどのレベルではなかったから、まあ遊び のようなものである。
 朝の観測も、私は決して真面目な方ではなかったから、 よく遅刻をして先輩に睨まれていた。しかし、ある大雪 の降った元日に、私一人が定刻にたどり着き、何とか一 人で観測を済ませて、部の窮地を救ったこともあった。
 台風が来たときだけは、気象班は部の花形となった。 二十四時間観測と銘打って、突然、全部員による合宿が 始まるのである。このときばかりは、気象班がリーダー シップをとるのである。
 今の高校では、たぶん許してくれないのではないかと 思うが、当時はこれが伝統で、ともかくも台風が来ると、 校長から合宿の許可が出た。一晩中、気圧計や風速計を にらみ、もっと風が強くなれと念じ続けたものである。
 しかし、普段の花形は、やはり天文班の連中であった と思う。天体望遠鏡を操り、新たな彗星を探し続ける彼 らは、少なくとも地味な観測を続けるばかりの気象班よ り、また地をはい回るばかりの地質班より、カッコよか ったはずである。
 実際、天文班のレベルは高かった。小学生の頃から毎 晩のように天体望遠鏡を眺め続けているような天文少年 がたくさん集まっていた。赤道儀という複雑な動きをす る天体望遠鏡を、古い自転車の部品を使って自作してし まうような連中がゴロゴロしていた。月面のスケッチな ども、プロさながらに美しく描く連中ばかりだった。
 私は、天体のことがどうもよくわからなくて、星座な どもほんの数個しか覚えられなかった。だいいち、自分 の住んでいる地球が太陽の周りを回っているなどと、ど うやって想像したらよいのだろう。日常感覚と、図に書 かれた太陽系の姿とのギャップを、私は最後まで埋めら れなかった。
 それでも、青春の三年間を、そうした仲間と過ごした 経験は大きかったように思う。今、歳時記を眺めながら、 二十四節気の雨水とか、七十二候の半夏生とかを考えて いると、多少は黄道の位置関係などが思い起こされるの である。  天文や気象のことがよく分かっているわけではない が、それでも、的はずれの季語や歳時記に対する批判に 気づくことは多い。現代俳句協会の新しい歳時記につい ても、多方面から批判が出たわけであるが、その批判の 多くは、正当とは言えないものであった。  まず基本的に知っておくべきことは、江戸時代まで使 われていた暦が、決して純粋な太陰暦ではないというこ とである。明治の改暦は、太陰暦から太陽暦に変わった わけではなかった。
 江戸時代の暦は、太陰暦ではなく、太陰太陽暦である。 つまり、月の満ち欠けをもとにした太陰暦と、太陽の動 きをもとにした太陽暦の折衷案なのである。  なぜ折衷案を使ったかと言えば、農耕のためである。 太陰暦では、一年が三百五十四日しかないので、一年に 十一日のずれが生じる。それでは種蒔きや刈り入れの目 安にならないから、そのずれを調整する必要が出てくる。 それが、太陰太陽暦である。
 二十四節気というのは、その調整のために中国で考え 出されたものだ。二十四節気は、一つおきに節気(正節) と中気に分けられている。節気から次の節気までは約三 十日である。月の満ち欠けの周期は、これより少し短い から、そのずれが蓄積されてゆくと、中気を含まない月 が出てくる。それを閏月とし、月をひとつ増やす。これ によって、月の満ち欠けと一年とのずれを調整していた。
 ここで理解しておかなければならないのは、暦と季節 感とのずれは、実は江戸期代の方が大きかったというこ とである。閏月まで入ってくるわけであるから、暦の日 付から季節感や種蒔きの時期を予想することは、ほとん どできなかったに違いない。だからこそ農耕には、太陽 の動きを元にした二十四節気や七十二候を利用したので ある。  どうも、昔の太陰太陽暦の時代には、季語は、季節感 とぴったり合致していたというとんでもない誤解がある ように思う。昔の「季」(江戸時代には季語とも季題と も言わなかった)の多くは、今よりもっと実感を離れた ただの「約束」だったのである。
■世界俳句と滑稽

 七月にブルガリアで行われる第三回世界俳句大会でスピーチをすることになった。何の話をしようかと考え、「滑稽」について話すことにした。
 いうまでもなく俳句は滑稽の文学としてスタートした。雅語を用いて洗練された美の世界を追究する連歌や和歌に対し、俳諧は、漢語や俗語を用いて、人間の本音をおもしろ可笑しく言い放つ文芸であった。
 初めのうち俳諧は、駄洒落や下ネタや頓知という程度の笑いを扱っていた。それがだんだん複雑な笑いを言い表すようになってくる。芭蕉は、そういう時代に登場した。
 芭蕉は、談林派という言葉遊びのグループから抜け出て、蕉風と呼ばれる独自の作風を作り出していく。
 芭蕉の俳諧は、精神性とか倫理性とかも読み取れるようにも出来ているので、芭蕉によって俳諧が、滑稽から離れていったと考える人もいる。
 だが、おそらく芭蕉は、俳諧を滑稽から離したのではなく、滑稽の質を高めたのである。
 「笑い」というものの幅は広い。赤ん坊が母親を見つけたときの無垢の笑いと、他人を侮蔑した差別の笑いの違いを考えただけでも、笑いというものの多様性は理解できるだろう。難しいところでは、禅僧が月に懸かった雲の晴れるのを見て大笑したなどというのもある。
 笑いを表す言葉を考えてみても、微笑・軽笑・大笑・高笑・哄笑・爆笑など、笑いの度合いを表す言葉があり、また、艶笑・冷笑・嘲笑・諂笑・失笑・顰笑・苦笑・微苦笑・憫笑・顰笑など数々の笑いの質を表す言葉がある。外来語のナンセンス・ペーソス、ウイット、ジョーク・ユーモアなどの言葉も一般的に使われている。
 そうした数々の笑いの中で、俳諧が、あまり洗練されたとは言えないナンセンスやジョークを語っていたときに、芭蕉は、もう少し程度の高い滑稽を見せたのである。
それは、象徴性のある深い情緒を含んだ滑稽であった。
 道のべの木槿は馬に食はれけり    芭蕉
 ただ有名だから覚えているという人もいるだろうが、ここには「あらら、食われちゃったよ」という軽い笑いがある。しかもそこには、驚きとはかなさが同居している。決して単純な笑いではないのである。加えて、対比的に、馬の生命力までも描かれている。何の説明もないスケッチなのであるが、かなり複雑な人生の一シーンが描かれている。
 このとき芭蕉は「世界文学」を生み出したと言える。なぜならば、ここにあるものは、西洋のヒューマニズムに基づくユーモアに通じる認識だからである。芭蕉は、馬を怒っているわけではない。木槿に同情して泣いているのでもない。ただ、その両者に共感を寄せ、世の中には、そういうことも起こり得るのだと、微笑んでいるのである。
 ユーモアは、差別の笑いではない。自分を、あるいは自分たちを笑うのである。特定の人や、特定の人々を笑うのではなく、私たち人類というものはおかしなことをするものだという考え方をするのである。共感の笑いと言ってもよい。この場合、芭蕉の共感は、動物と植物にまで及んでいる。
 これが世界文学である証拠に、芭蕉は、今、世界中で読まれている。日本で一番有名な文学者は、おそらく芭蕉であろう。
 もうひとつ、正岡子規の句を読んでみよう。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな    子規
 子規の辞世の句である。仏というのは、まさに死のうとしている自分自身のことである。ここには、自分の死さえも、「滑稽」の精神でとらえようとする詩人の魂がある。子規は、客観的に距離を置いて自分の死を見つめ、世の中には、そういうことも起こり得る、と微笑もうとしている。
 従来、笑いの要因は、論理的矛盾や誤謬だと考えられていた。けれどそれらは、怒りや悲哀などの別の感情も生み出す。したがって、それは笑いの十分条件とは言えない。
 私は、笑いを生じさせる根本は、表現者と受け手の間の「理解」や「共感」にあると思う。コミュニケーションの成立言ってもよい。そうでなければ、母親を見つけた赤ん坊は笑わない。差別の笑いは、その差別感を共有する困った人たちの間の共感である。
 では、俳句の滑稽はどのようであるべきか。
 それは、常識を越えたレベルでの共感を作ることだ。常識という硬直したシステムを、上から眺めて笑うのである。そして、状況を、より深いレベルで了解し合ったという喜びを、読者との間に作り出すのである。
 と、いうようなことを考えた。だが、これを英語で話すというのは、かなり難しいことのようにも思える。果たして理解を得られるのであろうか。会場に生まれるのは共感の笑いか、それとも憫笑か。まあ、やってみなければわからない。
■ トラピスト

 俳縁によって当別のトラピスト修道院を訪ねることになった。トラピストは、沈黙・祈祷・精進・労役の戒律を厳しく守るカトリックの一派である。『広辞苑』には「一八九六年(明治二九)日本にも伝来した」と記されているが、それはこの当別の修道院が竣工した年であって、実際の伝来はそれよりもっと古い。

 その歴史ある修道院に、神父であり、俳人の高橋正行氏がおられる。ラテン語やフランス語を初め多くの外国語を駆使し、神学関係の翻訳書も多い。また、院の厨房を預かり、フランス料理界にも名を馳せている。
 氏の所属は「渋柿」である。大正四年に松根東洋城によって始められたこの結社は、古典や連句を大切に育んできた会で、「軸」とは、かなり趣の異なる俳句を楽しまれている。つまり、普段はなかなかお会いする機会のない方なのである。それが、ふとしたことである人の紹介があり、句集のご相談に伺うことになった。
 函館空港は思っていたより海に近かった。着陸態勢に入ると津軽海峡の波に手が届きそうである。
 銀翼の降下に光る冬の濤
 空港に雪の静けさ海見えて
 空港に降り立つと、道が分かりにくかろうと迎えに来て下さっていた。修道士の運転をレンタカーで追う。
 恩顔のロビーに立たる雪催い
 雪の道未だ馴れずと励まさる
 街を抜け、海沿いの道を進むと、右手に修道院へ登るみごとな並木道が見えてくる。
 風花の海峡にありトラピスト
 到着後はお茶を飲みながら、これまでのことなどをいろいろと伺った。小学生のときご母堂を亡くされ、父子三人でこの修道院に入られたという。弟の
 
 氏は、留学もされて今はこのトラピストの院長であるが、若い頃体調を崩されることの多かった正行氏は、この地に留まって院を守ってきた。そのために独学でボイラー技士などさまざまな資格を取られたという。
 半日を神父と語る雪つもる
 院内を案内して頂き、最後にライブラリを見せて頂いた。私有財産を許されない修道院の学習には図書館が不可欠だと、これも氏が企画し創られた図書館なのであった。氏はここで、主にギリシア正教やロシア正教などの東方教会について研究されている。カトリックとプロテスタントが別れる前の原始キリスト教の姿を追っておられるのである。またシリア文字やハングルにも挑戦されているという。
 図書館に知恵の静けさ冬灯
 軒氷柱シリアの文字に誘わる
 静かな夕食のあと、夕べの祈りを見せて頂いた。天井から釣られた燭台は、鳥の形のようであった。聖歌は日本語で唄われていたが、最後の歌だけは違った。
 玄冬の鳥は鎖に捉えられ
 ラテン語に母音の力冬の夜
 私はカトリック教徒ではないけれど、こうして修道院にいると、自ずと罪のことや死のことに考えが及ぶ。昨年の、多くの人との別れを思った。故人を思うと、自分の至らなさばかりが甦る。
 罪業の火かも雪鬼の踊りかも
 裸木に罪育ちたり咆哮す
 翌朝は、明るい雪晴れの日差しで目が覚めた。塔の上から津軽海峡を見晴らすと、雪雲の晴れ間から、海に光のベールが差し掛かっていた。
 お別れに、著書を何冊か頂いた。揮毫をお願いすると、その一冊に「人間とは理性的動物ではなく/神の姿神の似姿として/神に創られ/愛されているあなたです」と記して下さった。一宿のおつきあいではあったが、みごとに私の弱点を見抜かれているようであった。言葉の通り私は、理性という脆弱な道を選択した子羊なのである。
 雪晴れのこの暖かき別れの掌
 函館湾をめぐり、千歳空港に向かった。千歳で若干の時間があったので、ウトナイ湖に立ち寄った。湖畔の森の雪道を歩いていると、足許に小さな虫が寄ってくる。蜘蛛であった。足を動かすと、逃げるどころか靴の方に向かってくる。何度やっても同じことであった。どうやら靴のわずかな熱を感知し、その方に向かってくるものらしい。危うい本能である。だが、私の理性も、この蜘蛛の本能と大して変わらぬものであるかもしれない。
 東方の理性にすがる雪の蜘蛛
 帰りの機内で、頂いた一冊を繙いた。セル・パスツールという人の『イエススの祈り』という本には、東方教会が、カトリックに較べて「光」と「心」を重視するということが書かれていた。「精神」とか「魂」とかの概念は、ギリシア哲学の影響を受け、西洋的に変容していると言う考えであるらしい。なるほどローマ帝国に渡る以前のキリスト教は、今よりもっと東洋的であったに違いない。「心とは、魂と肉体が存在の深みにおいて交わる場所である」という一節が心に残った。
■著作権を考える

 山田奨治著『日本文化の模倣と創造 オリジナリティとは何か』(平成14・角川選書)を読んだ。類句類想の議論が頻発する俳句界に住む者として、考えておかなければならない問題がまとめられているので紹介しておきたい。
 本書は、三部からなる。
 まず第一部「模倣と創造 オリジナリティとは何か」では、妖怪ブームを例に、著作権のない素材の重要性が語られる。コピーできる素材がなければ、流行は起こりえないというのである。また西洋絵画の歴史も模倣の歴史であったことが語られる。模倣に基づく創造、すなわち「再創」によって、新たな文化は生み出されいくという。要するに著者は、「独創性」の神話に疑問符を打ち、コピーの復権を唱えたいのである。
 第二部では、著作権法への疑問が語られる。まず明治の「著作権法」が、個人の創造性を守るためではなく、不平等条約解消との引き替えに作られたものであることが論証される。著作権とは、個人の権利などではなく、国家戦略の道具だったという解釈である。当時の日本の国会では、著作権など日本の得になるわけがないが、列強に伍するためにはしかたがないというような議論が行われていたようだ。なぜ損かと言えば、それまで日本は、欧米の著作物を勝手に翻訳して参考にしていたからである。
 第三部では、連歌を例に、共同で作られたり、真似によって作られる文化の価値が論じられる。「本歌どり」「付け」などの再創によって、「近世までの日本では、文芸は共同体が所有するものだった」という。さらに茶道や歌舞伎を例に、「型」という模倣の中に立ち現れる「風」という微細な創造性が語られる。いわゆる「守・破・離」の問題である。そして最後に、昨今のデジタル社会の問題に移り、小林秀雄の「模倣は独創の母である」という一節を引きつつ、本物と同じものがコピーできてしまうデジタル社会では「情報の排他的な所有という近代のパラダイムは終焉を迎えるだろう」と予測するのである。
 第二部の著作権の解釈にはいささか極端な部分があると感じつつも、私も大方では本書の意見に賛同したい。俳句という古い歴史を持つ文芸に関わる者として、俳句作品が「共同体が所有するもの」だという感覚は、現在でも多少は生き残っているように感じる。例えば、私が「碧耀集」の選に当たって添削することがあるというのもそうであろうし、どこぞの出版社が、事後承諾で私の句を歳時記に載せるなどというのもそうである。これらのことは、著作権法の考え方からすればかなりおかしなことに違いないのだが、俳句の世界では確かにそうしたことが慣習として生き残っている。これを、前近代的な未開の文化とするのか、それとも近代を超えた未来に新たな可能性を持つ文化とするのか。
 本書で面白かったのは、第一部で語られている狩野派の学習法についてであった。狩野派では、手本によらず自分の才能で描く絵を「質画」、手本から学んで描く絵を「学画」といい、弟子には「質画」をいましめて「学画」を奨励した、というくだりである。著者の山田氏は、個人の著作意識が明確になるのは明治末期の白樺派を待たねばならないというのだが、正岡子規の写生論は、それより早く個人の創造性の意味を的確にとらえていたように思われる。まさに子規は、近代文芸における「質画」の重要性を論理化した最初の人であろう。
 また、これは孫引きであるが、尼ヶ崎彬著『日本のレトリック』にある藤原定家が設けた「本歌取り」が盗作にならないための規定というのも面白かった。
@歌の総量の半分までを可とする量の規定
A上句の七五や下句の七七をそのまま遣うことを禁じる配置の規定
B本歌の趣向の中心部分をとり本歌取りであることをわかるように作る引用部位の規定
C最近の作者からではなく古人歌からとる引用対象の規定
D本歌と主題をかえるという主題の規定
というのである。今でも役立ちそうな項目もあるが、それより、こうしたことを八百年も前の日本人が一生懸命に考えていたことが楽しい。
 私たちが潔癖な著作権主義に陥るのは危険であろうと考える。それはまず謙虚さに欠けるし、またこの市場経済社会では、金権主義に直結してしまうおそれがある。お前の句は、私の句に何文字分似ているからいくらよこせとか、そういうことになってしまう可能性があるのである。実際、音楽の世界ではそうしたことが起きている。
 しかし、だからといって俳句がただの模倣で終わってしまって良いわけはない。そこに、絶対無二の「私」の「風」が作られていかなければ、「それはあなたでなくてもよかった」ということにしかならない。あなたが生きた証にはならないのである。

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