「俳句朝日」2007年5月号掲載
1現代仮名遣いは歴史的仮名遣いの一種である 現代仮名遣いというと、歴史的仮名遣いに対立させて考える人が多い。 しかし、それは違う。まず誤解のないように言っておかなければならないのだが、現代仮名遣いは、歴史的仮名遣いの系譜に連なるものであって、たとえば「広辞苑」には次のように説明されている。 平安中期以前の表記に準拠するものを歴史的仮名遣、発音のままに表記するものを表音式仮名遣という。現代仮名遣は、歴史的仮名遣をもとに現代の発音による区別を加味したもの。 つまり現代仮名遣いは、決して「発音式仮名遣い」ではない。従来の習慣を尊重し、そのうえで時代に適合するように単純化したり修正を加えたものである。したがって、仮名遣いを大きく分類した場合は、むしろ現代仮名遣いは歴史的仮名遣いの一種だと言ってもよい。つまり、現代仮名遣いは、歴史的仮名遣いと同じように、発音どおりは書かない仮名遣いの一つなのである。 このことを知らないと、お互いに「実際の発音と違う」ということで言い争いになったりする。もうお分かりと思うが、それはとんでもなく不毛な争いである。歴史的仮名遣いも現代仮名遣いも、わざと「実際の発音と違う」ように作られた仮名遣いなのである。 では、どうしてこの二つの仮名遣いは、発音どおり表記しようとしないのであろうか。 それは、発音どおり書こうとすると、時代によって仮名遣いがころころ変わってしまうからである。発音というものは結構変化するものなのである。そこで、文法とか語源とかの変化しにくい要素に着目し、それによって表記の仕方を規定しておく。すると、多少実際の発音が違っても、頻繁に仮名遣いを変える必要がなくなる。 もう一つ理由がある。それは、現在の仮名では日本語を発音どおり書くことなどできないということである。 例えば、「するめを」というときの「す」と、「焼きます」というときの終わりの「す」はまったく発音が違う。「するめを」というときの「す」は「su」と書けるが、終わりの「す」は「s」だけの音に近い。これはもう仮名遣いではどうしようもない問題である。これは現在の日本語では珍しい現象ではない。だから、仮名で実際の発音どおり書こうというのはあきらめた方がいいのである。 ということで、私自身の結論としては、現代仮名遣いも歴史的仮名遣いも「どちらもそうは変わらない」というところに落ちつく。 2 なぜ私は現代仮名遣いなのか 物心ついたころ、父が現代仮名遣いで俳句を作っていた。父の所属していた「麦」も、主宰した「軸」も現代仮名遣いの結社であった。したがって、私が現代仮名遣いで俳句を書くのは自然のなりゆきであって、特に意識して決めたことではない。 私は、歴史的仮名遣いを嫌ったこともなければ敵視したこともない。私は戦後生まれであるが、そう裕福な家に育ったわけではないので、与えられた本の半数は歴史的仮名遣いで書かれた戦前のものであった。小学生のころの一番の愛読書は、講談社の修養全集であったのだから、歴史的仮名遣いはかなり読み慣れているし、愛着もある。歴史的仮名遣いで俳句を書くことにも抵抗はない。 だが、主宰を継いだ結社は現代仮名遣いであった。したがって、私は現代仮名遣いで俳句を書く。 むろん私は現代仮名遣いが好きである。少なくとも口語を書くときには、より自然に表記できる気がするし、なにしろ五十年以上も使い慣れているから日常感覚で使える。文語を書くときは、「出ず」が出るのか出ないのか分からないなどという混乱も生じるが、仮名遣いの混乱はほかにいくらでもあるから、そんなのは我慢するしかない。ともかく気楽に書けるのがいい。 現代仮名遣いで書いたから俳句がよくなるということはあまり考えないが、歴史的仮名遣いより透明に思想を伝えてくれるのがいい。歴史的仮名遣いは、内容になにがしかの色が付くし、少し気取った感じにもなる。「かっこつけてる」というべきであろうか。そうしてみたい気分のときもあるが、等身大で表現しようとすれば現代仮名遣いになる。 そもそも現代仮名遣いが生まれた理由が、だれもが使いやすい仮名遣い、ということであった。これは、戦後民主主義の根本の思想である。大事にしていきたい。 「せうべん」が読めぬ三十代の夏 河合凱夫 3 もっと多様に 世界は多様なほうがいい。歴史的仮名遣いと現代仮名遣いの二つがあるから俳句はおもしろい。発音式仮名遣いやローマ字表記の結社が増えてくればもっといい。 俳句の世界では、現代仮名遣いが少数派のようだが、だったらなおさらそれを大事にしたいと思う。 大銀杏黄ばめり暴力にたえて 中島斌雄 歴史的仮名遣いで俳句を書くというなら、なぜ変体仮名や草仮名(万葉仮名を草体に崩した仮名文字)をお使いにならないのであろう。明治の旧派あたりまでは、草仮名で書くのが常識であった。仮名に変化を付けて書くのが俳句の伝統というものである。 句集にしても、今では和装木版は贅沢の極みだが、そういう句集がもっと作られるべきである。 句集の文字にしても、なぜみんな明朝体なのであろう。宋朝体やゴシック体の句集はあまり見ない。私は、第一句集『私の行方』も第二句集『納まらぬ』も楷書体で印刷した。なんでもかんでも明朝体が当たり前という状況がおもしろくなかったからである。 俳句は、創造の文化である。特異性、独自性を作りだしていくことが仕事なのである。 ■現代仮名遣いによる句 うぐいすが呼んでいるのはきっと海 敏 山ざくら牛やわらかくふり返る 〃 ほんとうの夜を探している夜鷹 〃 |