播磨赤松の城
南北朝時代初期、赤松氏は赤松円心(則村)によって北朝の有力武将としての地位が確立され、播磨を中心に美作、備前などの守護大名となりました。四代後の満祐は、将軍足利義教殺害のクーデター(嘉吉の乱)を起こし、のちに幕府の討伐軍に敗れ、赤松氏は一度滅びてしまいます。が、のちに満祐の弟の孫政則により再興がなされ、応仁の乱直後に置塩城を本城にして、再び全盛の時代を迎えました。 この様な経緯により西播磨には赤松氏一族の城、支城がたくさんあるのです。
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白旗城 |
所 在:兵庫県 赤穂郡上郡町赤松
地図[MapFanWeb] 交 通:智頭特急 河野原円心駅から徒歩30分で登山口 種 別:中世 山城 建武3年(1336年)、九州から京都目指して進軍する足利尊氏軍を討伐するために派遣された新田義貞軍を、播磨に迎え撃つために赤松則村(円心)が築城した城で、義貞の大軍による城攻めに耐えた功績により、戦後赤松円心は播磨、美作、備前の守護大名となりました。 以後この白旗城は4代満祐が1441年の嘉吉の乱によって滅びるまで、赤松氏の本城であり、戦国時代初期に満祐の弟の孫政則により赤松氏は復興されると、本城は置塩城に移されたため、白旗城は支城として機能したようです。 この地は因幡街道や山陽街道からも近く、千種川東岸にある標高440mの急峻な山は播磨西端の重要な戦略的拠点であり、山の西側麓の赤松村に館が構えられたようです。 上写真は白旗山を西側の赤松から撮ったもので、写真左部分の最高位部には櫛橋丸、真ん中の平部分に二の丸、右は本丸、三の丸で、ところどころに堀切も確認できます。ここから見る山はかなりの威圧感があり、登山道は山の南から一気に頂上目指すタイトなものです。 登山道に入るとすぐに、建武3年の合戦の犠牲者を供養していると伝えられている五輪塔群があり、白旗八幡神社跡を過ごしてしばらく歩くと、左に折れて頂上への山道となります。 40分ほど喘ぎながら登ると尾根に出られ、さらに10分ほどで最高位の櫛橋丸に到達します。 櫛橋丸は巨大な岩がゴロゴロしているのみで、郭の雰囲気ではありません。当時も見張り台のような機能のみでしょう。 尾根伝いに堀切を一つ通過すると二の丸があり、ここには二段の平坦地が確認できます。 さらに北へ歩くと中写真の本丸に到達します。城跡碑がひっそりと建っていました。さらに北側には帯郭を1つはさんで三の丸があり、下写真は帯郭から撮った三の丸です。写真右上の北端には土塁の遺構がありました。三の丸から西側には赤松の集落が良く見渡せます。 本丸にあった看板の縄張図によると、侍屋敷跡の郭や大手郭とされている郭の列が、二の丸の東側斜面に展開しているようですが道はないようです。 また赤松の集落の高台には館跡の伝承をもつ保育園があり、グランドの奥に土塁があるようですが、電車の時間が無かったので良く見ていません。 |
中道子山城 |
所 在:兵庫県 加古川市志方岡
地図[MapFanWeb] 交 通:山陽電鉄本線 高砂駅からバス30分で登山口 種 別:中世 山城 ”ちゅうどうしさん じょう”と読みます。築城年代は明らかではありませんが、円心の四男氏則が築城したとされています。他の赤松一族が北朝方に対し、氏則は終始南朝に与し戦い、至徳3年(1386年)領内で叛乱を起こすと、北朝方の一族との戦に敗れ、氏則一族は自害して果てています。 氏則のあと城主になったのは赤松氏の一族である孝橋氏で、数代のちの嘉吉の乱で一時山名氏の持城になりますが、赤松再興により再び孝橋氏が治め、赤松氏が凋落するなかに置かれても中道子城は孝橋氏のものであり、のちの秀吉の中国攻めにより落城しました。 中道子城は別名志方の城山と呼ばれ、加古川市街地から北に6Kmほどのところにあり、周りは丘や小山が取り囲んでいる標高270mの東西に長い山で、南側の眺望は抜群です。 上写真は最高位にある本丸で、赤松城址の碑がぽつねんと建っています。本丸の西端には南に向けて米倉跡と呼ばれる10m四方の空間があり、状態のよい土塁が周囲を囲んでいます。さながら枡形虎口と言っても差し支えないでしょう。 この米倉跡からさらに南には神社の御社のようなものがあり、さらに南には二の丸が位置します。中写真はその御社付近から二の丸方向に撮ったもので、左右両側に底の浅い掘があり、中央の道は土橋のような雰囲気を出しています。掘の向こうは一段上がって二の丸です。 下写真は二の丸から撮った山の南側の風景で、加古川市、高砂市、明石市まで眺望できるようです。120mmの望遠レンズで港にあるクレーンまで確認できましたが明石海峡大橋までは見えません。 二の丸の北西には三の丸があり、周囲の土塁に沿った遊歩道には、四国八十八ヶ所巡礼を模倣した石仏がポコポコ並んでおり、三の丸内部はヤブの中です。 二の丸の南には関西電力の反射板の施設がある郭があり、さらに南に城門跡とされる郭がありました。この郭の南端部分は青いシートがかぶせてあり、何かの発掘調査中のようですが詳細は知りません。このあたりの眺望もみごとです。 |