一向一揆の城2
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百姓の持ちたる国の第2弾です。
岩倉城は、鳥越城や二曲城と運命を共にした一向一揆軍の城です。 豊原寺は古くからあった寺院群で、山岳寺院城郭として多くの僧兵を擁し、戦国時代には一向一揆軍の拠点にもなります。織田軍による壊滅後、若干の寺院は再興され明治まで存在したようですが、明治初年の神仏分離令によりすべて取り壊しになっています。
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岩倉城 |
所 在:石川県 小松市原町
地図[MapFanWeb] 交 通:JR北陸本線 小松駅から車で西へ30分 種 別:中世 山城 享禄年間(1530年ごろ)一向一揆衆が、越前の守護大名朝倉氏の攻撃にそなえ築城し、城主は沢 米左エ門と伝えられています。元亀元年(1570年)本願寺派の武将鈴木出羽守が織田軍との戦に備え、白山山麓に鳥越城を主城とする幾つかの砦の整備を行うと、この岩倉城も出城として再構築され、東側にある鳥越へ通じる三坂峠を守備する役目を担います。運命は鳥越城と同じとされており、一揆軍の滅亡により廃城となっていますが、城の争奪戦により織田方による改築も行っているようです。 岩倉山は、小松の平野部から鳥越城のある盆地への中間点にあたり、標高296m、比高215mで、山頂に至るまでは40分ほどの登山の覚悟が必要です。登山口から山に入ってしばらく歩くと、小川に沿って、石垣による平坦地が幾つか確認できますが、いつのものかは不明です。山の7合目あたりの平坦地には、米左エ門屋敷跡があり、当初はここで館を構えていたようです。 上写真は山頂にある本丸で、写真左側のマウンドは櫓跡、右側には二の丸へ通じる虎口が空いています。土塁に囲まれた本丸は、結構な広さを誇り、西側の眺望は木々でさえぎられていますが、かつては平野部が望めたでしょう。現在は手作りの説明看板がたくさんあり、好感が持てます。 中写真は本丸にある投げ石で、柵で囲まれている中に石が無造作に置かれており、下から攻めてくる敵を弓矢の代わりに投げつけたものと、看板に説明があります。 下写真は二の丸の北端にある角馬出しで、ちゃんと四角形になっています。写真右側には、帯郭に通じる虎口もあいています。 二の丸から三の丸へは、土塁による食い違いがあり、一段下がった三の丸は、丸というより本丸櫓直下の馬出しのようです。三の丸西側には空堀もあります。 岩倉城は規模は小さいながらも、連郭式縄張りを持ち、たくさんの帯郭が取巻き、馬出し、枡形虎口などあるので、立派な中世山城といえるでしょう。 |
豊原寺 |
所 在:福井県 坂井郡丸岡町豊原
地図[MapFanWeb] 交 通:丸岡城から徒歩60分 種 別:古代、中世 山岳寺院城郭 大宝2年(702年)泰澄により開かれた豊原寺は、源平合戦、南北朝を経てその規模を大きくし、戦国時代には僧兵を擁して、周辺の山谷に寺院や坊舎が建ち並び、豊原三千坊と呼ばれるまでに勢力を伸ばします。天正2年(1574年)に本願寺派の下間頼照が、一向一揆軍の総帥として豊原寺に本陣を置きますが、翌年の天正3年織田信長が攻め入り、神社、坊舎をすべて焼き払います。 一向一揆が壊滅し、柴田勝家が越前に入封すると、甥の柴田勝豊が豊原に築城し、寺院や坊舎も再興されますが、天正4年(1576年)に、山深い豊原での拠点に限界を感じた勝豊は、豊原寺から西に4kmの丸岡の平地にある丘に目をつけ、丸岡城を築城します。これにともない寺院や住民も移り、豊原は急激に衰退します。徳川の時代になると、越前松平氏の寄進により若干の寺院は再興されますが、明治初年の神仏分離令により廃寺となっています。 上写真は、丸岡城の最上階から東へ望んだ豊原寺の遠景で、私は往復歩いて見学しました。山に入り豊原滝をすぎると、道はなだらかな小川に沿って奥へと続きます。キャンプ場(豊原寺の看板がありチェック要)をすぎたあたりから、坊舎跡と思われる石垣で構築された段段畑のような平坦地がたくさんあります。 下写真は、白山神社本殿跡への入口付近にある豊原寺の看板で、このあたりの石垣が一番見所でしょう。たぶん越前松平氏の寄進により再建された華蔵院はこの辺になると思います。 写真の左側に小川を渡ると、すぐに大きな平坦地があり伝講堂跡とされています。さらに奥に行くと塔の池と呼ばれる小さな池があり、この辺は大きな庭園があったと思われます。この平坦地から白山神社本殿跡へは山道で10分程度で登れ、白山神社本殿跡は草木がぼうぼうで、時代が不明な灯籠や、安っぽい神社の廃屋があります。 |