賈さんの薬膳料理

賈さん蜀より来る

賈さんは四川省の成都地質学院から鳥取県三朝町にあった岡山大学温泉研究所に主人を頼ってやってきた留学生だった。何故人口30万の大都市成都からよりによって人口1万にも満たない田舎町に来たのか聞いたら、「酒井先生に教えてもらいたかったからです。」と答えた。

「俺の仕事を理解しているのはみる目が有る奴だ。」と主人は満足げであった。

来たばかりの頃、日本語はばか丁寧で敬語が多く、周りの人々は辟易して困り果てていた。言葉だけではなく態度も礼儀正しく、アメリカナイズしてフランクな態度に慣れていた人達には、襟を正すよい機会をもたらした。

賈さんの実父は蒋介石率いる国民党に属していて台湾に行ったまま帰らなかったので、彼は有名な漢方医だった義理の父親に育てられた。

幼少の頃から絵を画くのが好きで、山や川の絵を画いているうちに地質学を学ぼうと思うようになった、という事だった。当時彼は成都地質学院、水文系(水の流れを研究する学部)の講師だった。

賈さんは中国政府から月5万円の支給を受けているだけだったので、当然自炊でぎりぎりの生活状況だった。しかし天性の人の良さを備えていたので、周りの学生たちからも慕われ、学生たちはだんだん一緒に賈さんの中国料理を楽しむようになった。

中国では女性も働くのが一般的で、従って料理もどちらか都合の良い方が作るのだそうで、賈さんも料理が上手だった。

「地質学院のコックさん(厨師傳)は2級の免許を持っていて、色々教えてもらいました。」と自慢していた。

賈さんのパーティー料理

ある日、賈さんの料理でパーティーを開く事になった。スーパーマーケットに出向いて肉や野菜を買ったのだが、量は思ったより少なくこれで大丈夫かなと心配だった。

「日本では牛肉が高くて鶏肉が安いけれど、中国では鶏肉の方が高いですよ。鶏肉でも肉より内臓の方が高いです。肉はたくさんあるけれど内蔵は少しですね。脚の先も食べますよ。脚が悪い時は脚、胃腸が悪い時は胃腸、肝臓が悪い時は肝臓、心臓が悪い時は 心臓を食べると良いと言います。」もっともらしい発言だった。

「手伝いますから教えてください。」

「鍋に湯を沸かし、塩、葱、生姜、酒を入れて、鶏肉を茹でます。煮えたら取り出して冷まし、指先で細く裂きます。茹で汁は後でスープにするから捨てません。皮も捨てないで下さい。」鶏肉を湯がいている間に彼は葱の緑色の所をひとかたまり取ってそれをまな板の上に置き包丁を二本持って、両手ですばやく叩いて細かくした。そして先の鶏肉に塩と花椒を振った後、葱をまぶした。

一方、さっと湯がいたもやしを笊に取りその上に大根、セロリを千切りにしたものに塩をまぶしてのせた。水気がとれたところで大皿に盛りその上に鶏肉を盛り付けた。ごまの油、塩、酢、醤油、ラー油、砂糖少々を混ぜたたれで味付けして前菜の出来上がりである。

「次に肉団子を作りましょう。玉ねぎをみじん切りにして下さい。」

彼は豚ひき肉をボールに入れ、玉ねぎのみじん切りと韮一把を2センチほど

に刻んだもの、卵一個分、生姜汁、塩、花椒、酒、小麦粉を混ぜ合わせ、熱した油の中にスプーンですくいながら落として揚げていった。

「外は硬く、中は柔らかくなるように揚げます。そうするには、水を加えて加減すると良いです。はじめに食べてみると失敗しません。」

次は牛肉とニンニクの料理だった。四川省風牛煮込みである。

牛すね肉1キログラム強を3〜4センチ大のぶつ切りにして沸騰水中に30秒位つけて取り出す。新しい湯を肉が十分つかるほど(肉の上6〜7センチ) 加えて弱火で1時間肉が柔らかくなるまで煮る。煮ている間に、シナ鍋に油を入れ煙が出てきたらニンニクを粒のまま一掴みほど、青葱5本(5センチほどに切る)、八角3個、生姜大5片(包丁を横にして叩き潰す)、豆板醤大匙3、醤油1カップ、酒大匙2、花椒大匙1、塩少々を炒め煮2分ほどして、これを柔らかくなった肉の鍋に加えて味がしみ込むまで煮る。とても強烈な料理だった。しかしニンニクの臭いは消えていた。

これを煮込んでいる間に、よく知られた麻婆豆腐を作った。豆腐は水気を取る為にあらかじめ茹でておく。牛ひき肉を炒め取り出し、水を捨てる。この鍋に油を足し、葱、生姜、ニンニクをみじん切りにして炒め、豆板醤と肉を加えて醤油と水1カップで煮込む。仕上がりに葱みじん切り、ごまの油、花椒を振りかけて出来上がりである。

鶏の茹で汁にトマトと青菜をちらし鳥の皮も刻んで入れて、味の素、塩のみでさっぱりしたスープも作った。中国ではスープは最後に出されるそうだ。後はご飯と漬物を出して立派なパーティー料理になった。

「四川料理では日本の漬物によく似た漬物がありますよ。泡菜といってキュウリ、キャベツ、人参、大根、生姜などを塩水と高粱酒、花椒、唐辛子と一緒に壷の中で漬けるのです。」ただし塩水は一度沸騰させたものを冷まして使うとか。

ドクダミは野菜

賈さんの仕事はさしあたってこの土地の水の分析をする事に始まった。研究所の向かい側には三朝川が流れていて、その上流をたどると大岩に挟まれた三徳川になる。この清流は岩清水の賜物でとても喉越しが良い。この水を使って作られる三徳の豆腐はNHKでも取り上げられて放映されたほど美味しくて有名である。私達も度々三徳へ赴き三徳山三仏寺の戒上院や天狗堂でこの豆腐を賞味したものだった。

賈さんはこの流水のサンプルと途中の畑に置かせてもらっていた雨水を集める装置から採った天水のサンプルを時々取りに出かけた。そんなある日、三徳の山道でドクダミが群生しているのを見つけた。

「日本ではこれを採って乾燥させて漢方薬にしますが、賈さんも使いますか?」と聞くと、

「中国では野菜として食べますよ。柔らかな新芽を摘んで醤油、ごま油などをかけて食べると美味しいですよ。」というのである。実際に昨年、成都の賈さんの食卓でご馳走してもらったが、あの何とも言えないいやな臭いも気にならず、おまけに毛細血管を丈夫にして、動脈硬化を防いでくれると言うのだから申し分ないと思えた。

賈さんは歩くのが好き

賈さんはバス代を節約してよく歩いていた。川沿いに倉吉まで歩く賈さんをよく見かけた。倉吉までは約10キロの道のりだが、水清くのどかな田舎道だから、気持ちよい散歩だったかもしれない。倉吉にはあの当時すでに中国出身のコックも来ていたから、話し相手を求めて出かけていたのかもしれない。

「賈さん、一日で一番長く歩いた距離はどのくらい?」

「75キロメートル位でしょう。」

私は中学の競歩大会で40キロ歩いた経験があるが豆が出来て大変だったのを思い出した。中国には「食後百歩歩けば、99歳まで元気」という諺があるが、それはともかく賈さんの生活費を心配して、主人は大学本部に奨学金を願い出て、月額3万円を下付してもらうようになった。賈さんの生活も楽になっただろうと一安心したものだった。

賈さんの出張

賈さんは研究以外に倉吉の主婦たちに頼まれて料理教室の講師を務めた事があった。私のPTA友達が主婦連の有力者だった為この催しが実現した。

短時間で仕上げる事も考えて、出し物は例によって棒棒鶏、肉団子、麻婆豆腐にした。大学院の学生だった柳沢さんも動員して本場の中国料理を披露した。

「ラー油の作り方を教えますから見ていて下さい。」と言って、シナ鍋に油を半カップ熱し、とうがらしを一掴み入れた。強烈な煙が出たのを覚えている。

「四川料理は唐辛子をたくさん使って辛いですよ。広東料理や北京料理は辛くないし苦味もないですね。」

この時助手を務めた柳沢さんは現在山形大学助教授で成都理工学院教授となった賈さんとの共同研究で酸性雨に取り組み話題を提起している。

泊村の井戸掘りを手伝ったこともあった。泊村の周りには山がなくて、海が近いので井戸を掘ると塩水が出るので、土地の人は困っていた。

「調べてみましょう。」と言って、私が運転する車で泊周辺の山や断層を見て回った。研究所から電気探査機を借りてきて水の有無を計ってもいた。 

「断層の傾きがこうなっているから多分この辺りをボーリングすれば出るかも知れないけれど、あまり自信はないです。」確かにそこは村でも見当はつけていたところだった。しかし結果的には水は出なかった。その後私達は東京に移ってしまい、泊の水問題はどうなったのか知らない。

賈さんは水墨画が上手で、特にパンダの絵は人気があって、皆画いてもらっていた。私の手元にも数枚の絵があるけれど、どれも玄人はだしのものである。書もなかなかのものだった。

賈さんの買い物

賈さんの留学半ばで主人は東京に移る事になり、残務を次の教授に頼み気の毒だったが、最後の一ヶ月を東京ですごすことになった。ここでも彼は腕をふるい、筆をふるって皆の人気者だった。東京に来て彼が先ずした事は、秋葉原に行って、中国向けの電化製品を土産に買うことだった。後に中国を訪問して分ったのだが、テレビ、洗濯機、ラジカセ、テープレコーダーなど色々有った。お嬢さんいわく、「日本へ行く前は何もなかった。」

私達はずっと人民服で頑張っていた賈さんにせめて衣装くらいは調えて帰国させてあげたいと思い、高島屋へ連れて行きイージーオーダーでスーツを一着調えてあげた。ちょうどその頃娘が高島屋に勤めていたので、息子たちにもこの方法でスーツをオーダーしていて思いついたわけである。

スーツが出来上がった日、賈さんは背広を試着して嬉しそうだった。

今でこそ中国は衣料大国であるが、1984年当時中国の多くの人々は青色の人民服を着ていたし、従って、中国へ旅行する時は人民服を買って着ているほうがよい、と旅行案内にも書いてあったものである。主人も1986年に中国を訪問した時は、北京の王府井百貨店で人民服を買い求め、ずっとこの服装で旅行した。上海植物園に入るときなど「どこに外国人がいるのか?」と詰問されたものだ。(外国人は車で入れた。)

賈さんの漢方薬

上記の通り私達は賈さん帰国後二年ぐらい後の1986年5月、北京、成都、貴陽、上海を訪ねる旅に出た。中国事情に疎かった私達を先ず苦しめたのが北京の砂嵐だった。多くの女性は頭がすっぽり入るネットを被っていた。私はすっかり呼吸器官をやられてしまい、ずっと咳き込むようになって往生した。

成都に着くと、賈さんはとても苦い漢方薬を作ってくれた。コップに一杯の煎じ薬だった。

「何が入っていますか?」

「麻黄、杏仁、甘草、石膏が入っています。咳を静めるのによく効きますよ。明日もう一杯飲みましょう。」やれやれと思ったが我慢して飲んだ。確かによく効いて翌日からの康定行きには苦痛無く出かけられた。

冬虫夏草

1994年、私達は再び成都を訪問した。熱水系を観るために康定からチベットの方に足を伸ばした。高度4200メートル程の峠に着いたとき、私達は車から降りて、外気を吸ってみた。たいした変化も感じなかったが、

「酸素が少ないから、走らないで下さい。」と言われた。

ふっと見ると、チベット人らしい人々が山の上から走り降りて来るではないか。「こんな所で何をしているのかなあ。」と聞いたら、

「冬虫夏草を採っているのでしょう。とても高く売れるのでこの辺の人は一生懸命ですよ。」本によれば冬虫夏草はヤガ科の幼虫に寄生して成長した茸のことだそうだが、疲労回復や免疫活性化に有効とのこと。成都を離れる時、空港で一箱買ってみたがかなり高いものだった。

「どのようにして調理すればいいですか?」

「鶏と一緒にスープにするといいですよ。葱少しと生姜も一寸、塩、酒、胡椒など入れますね。湯葉やどんこしいたけ、千帳(豆腐を圧縮して薄くしたもの)と一緒に煮てもいいです。」冬虫夏草は水洗いして湯葉で千帳や椎茸を巻き込んでたわら状にした中に差し込む。それをスープで煮込むのだそうだ。私は圧力鍋を使って作ったがとても柔らかくなって良かった。

主人の災難

この年、私達は賈さんに連れられて重慶から武漢まで三峡下りを楽しんだ。有名な白帝城や赤壁、三峡ダムの出来上がる過程を眺めることが出来た。武漢で黄閣楼を見学に行く途中、大木の陰に陣取った占い師(算命)から、

「一寸、一寸、そこの人、私の言うことを聞いていきなさい。」と声をかけられた。その場は知らぬ振りして通り抜けたが、後から思い返すと、彼は何か気づいていたのかなあとも思ったりした。

帰国後直ぐに受けた人間ドックの検査で、主人は左腎臓に大きな腫瘍があると宣告されたのだった。

賈さんから来た8月の手紙には「先生の左の腎臓に腫瘍があることを聞いてびっくりしました。中国旅行のご苦労が原因で無ければよいがと思っています。先生の手術が成功して早く回復するよう祈っています。」とあった。

腫瘍は腎臓の外壁に出来たもので、長年気づかれずに成長していた。エコーによって発見された時はすでに7センチ大になっていたのだ。本来なら背中側から摘出手術をするのに、脾臓への転移を心配して、腹側からメスを入れることになった。これがその後5ヶ月間の昏睡状態を余儀なくされた発端で、退院まで9ヶ月間の入院生活を強いられたのである。

やっと昏睡状態から覚めて頭が回復してきた頃、阪神大震災が起きた。

賈さんからの贈り物

賈さんの2月25日付けの手紙では、

「先生のからだはよくなってきましたか?先生の食欲はどうでしょうか。食べることと飲むことはだんだん強くなる方がいいと思います。

百合などの食べ物を郵便で成都から贈ります。百合は米と一緒に粥をつくるもので消炎や鎮静効果があります。よくいにん(よく苡仁、ハトムギの種子)、蓮実、欠食は健脾のため鶏とか肉と一緒に煮ると良く、銀耳は生精のため飲むものを作る原料です。チャンスが無いので日本へ行って先生に会う事が出来ません。失礼します。」とあり、数ヶ月後に段ボール箱一杯の漢方の材料が送られてきた。中には、上記のもの以外に人参(ウコギ科オタネニンジンの根で、免疫活性化、疲労回復など古くから万能薬として有名な漢方薬)、天麻(ラン科オニノヤガラの塊茎、鎮静効果がある)、冬虫夏草、クコの実、貢米(赤米)で作られたもので熱湯でといて食べるものなど色々入っていた。

その頃主人はやっと飲み物だけは飲んでも良い、しかし透明なものでなければいけないと言われていて、栄養は点滴に頼る状態だった。

賈さんの薬膳

5月末、やっと退院にこぎつけたものの、腸のつなぎ部分からの漏れは改善されず、病院通いが延々と続いた。

賈さんは翌1996年に山形大学の招待で日本にやって来た。(正確には主人が残した研究費を賈さん来日の費用に当てた。)東京に引っ越していた我家にも来てくれて、先に送ってくれた漢方薬を使って料理を作ってくれた。

骨付き鶏肉を生姜一かけと葱を縦切りにしたものと天麻を大切りにしたものと、よくいにん(よく苡仁)を一掴み入れて塩味で煮込むだけなのだがさっぱりとして美味しかった。天麻は見た目も細長い芋のようだが食感もねちっとした芋のようだった。百合根や蓮の実も先ずは水でもどして米と共にお粥にする。

中国の人は生の蓮の実を滋養強壮のためにおやつの様に食べている。またクコの実もご飯と炊き込むとよい。私は松の実も一緒に炊き込みごはんにいれている。「一日にピーナッツ10粒ぐらい食べると体によいです。」とか、「菊菜のおひたしは体に良い。」など色々教えてもらった。

昨年(2004年)私達は再度成都の賈さんを訪問する機会を得た。

成都には同仁堂など有名な漢方薬を作る工場もあり、薬膳を出す食堂も色々あった。賈さんはそのうちの一つに案内してくれた。残念ながら何を食べたか忘れてしまい思い出せない。賈さんの奥さんが私達の体を案じて作って食べさせてくれた蓮の実のお粥やドクダミの料理などは忘れられないのだが。

主人は帰国後10年に及ぶ通院から開放された。賈さん一家の長年にわたる交友に感謝すると共に今後も変わらぬお付き合いを願うものである。

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