ビルマカレー

1960年秋、私たちは2年間住んだカナダのハミルトンからコネチカット州ニューヘブン近くのブランフォードに移り住んだ。ブライアン・クラークが島夫妻とともにブランフォードの我家を訪ねてくれたのは私達がハミルトンからこの地に移住して間もない頃だった。

ブライアンは主人がカナダ政府の奨学金でオンタリオ州、ハミルトンにあるマクマスター大学のソード先生の研究室で研究を行っていた頃、同じ先生のもとで研究を共にしていた大学院生だった。彼は学生仲間とビアホールに行く時誘ってくれたり、ニューヨークにも同行してくれたり色々面倒をみてくれた。あるとき、学生仲間でカクテル・パーティーを開くから来ないかと言われて行って見ると、薄暗い中で皆がグラスを傾けて談笑している中央に洗面器に入ったカクテルが置いてあって度肝をぬかれた。いくら日本人が貧乏でも食器と洗面器を一緒にはしないだろう。アイルランド系の人だと理解している。

島さん夫妻は東大化学教室以来知りあった仲間同志で頼りになる存在だった。島さんは私達より一年遅くマクマスター大学にきたが私達よりずっとこの地に馴染んだ人だった。ポーランドのクラコフからゲシュタポの手を逃れてカナダに移住したオスカルブスキー夫妻の家に下宿して、絵描きの主人と仲良しになり、油絵を画いて楽しんだり、レストランに通い上から順番に食べて、ウェイターとブロークン・イングリッシュで会話を楽しんだりしていた。少し遅れて奥さんがハミルトンに来て、矢張り同じソード研究室でで研究をすることになった。二人とも隕石のオーソリティーである。

ブランフォードの海岸沿いにはプライベート・ビーチつきのサマーコテッジが並んでいて、冬の間だけ貸し出していた。私達はその一つのクレアーコテッジを90ドルで借りていた。クレアーというだけあって二階の前面にはガラス張りの大きなサンルームがあり、ベッドルームは4つもあった。せっかく大きな家を借りたのだから誰かに泊まりに来てもらいたいと思い、ハミルトンのマクマスター大学で一緒に仕事をしていた島さん達に連絡したら彼らが車を飛ばしてやって来てくれたわけだ。

この辺り、海岸と大西洋に現れたり沈んだりする数個の岩礁以外はさしてみる所もないので、我々は先ずニューヨークに遊びに行くことにした。ニューヨークはターンパイクを利用すると1時間半程の地にあった。島夫人とハムサンドを作って取り敢えずの食料を持って出かけた。セントラルパークで持参の食料を平らげた後何をしてどこを見たのか全く記憶にないのだが、子供も一緒だった事を考えると、ブロンクス動物園へ行ったものと思う。とにかく夕方遅くなって帰ってきた。

夜ご飯をどうしようかと迷っていたらブライアンが「僕がビルマ・カレーを作りましょう。」と言ってくれた。彼は一時期ビルマに滞在していたという事だった。冷蔵庫を開けて牛肉の塊を見つけると、「カレー粉はありますか?」と聞いた。ちょうど買ったばかりのシリングのカレー粉が一瓶あった。「大切なのは玉ねぎとトマトだけれどあるか?」それも常備野菜として買ったばかりだった。「オフコース!」。

彼は大きな厚手なべに油を底が見えなくなるほど入れて火に掛け、3〜4個の玉ねぎの皮を剥いて乱切りにし始めた。私も手伝うつもりで1センチ角ぐらいに切って渡すと「こんなに小さくなくても大丈夫だよ。」といって笑った。時々かき混ぜながら今度はトマトの乱切りを始めた。「玉ねぎが透明になって少し焦げ目がついてきたら玉ねぎと同量のトマトを入れる。トマトもよくかき混ぜて柔らかくなったら塩をいれて、後にカレー粉とほんの少しのチリ・ペッパーを入れるんだ。」これが全てのカレー料理のベースになる。この時カレー粉一瓶が空になったのには驚いた。牛肉1キログラム半位とセロリや人参、ジャガイモインゲンなどを角切りにして入れて一時間ほど煮込んだら出来上がりである。

「グリーンサラダとライスがあれば、来客用でもOKだ。」と教えてくれた。更に、「豚肉を使う時はゆで卵を四つ切りにして一緒に煮ればよいし、鶏肉ならコリアンダーやヨーグルトを加えれば美味しくなるよ。」との事。 この日私達は今まで味わった事の無いブライアンのカレー料理に舌づつみを打ったのである。

それからというものよくこの料理を作ってお客をもてなした。後にバングラディッシュの人から更にこれを引き立てるニンニク、生姜、グリーン・ペッパーなどの使用法も教えてもらい私の料理も少し磨きがかかったように思う。

ブライアン・クラークは数年前に亡くなったのでこの話を見せられないのは残念だ。

なお我々のハミルトン、ニューヘブン時代の話は下記「定子のページ」の5:40年前のカナダ、アメリカーーーに詳しくかいあります。お読みください。

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