■草加煎餅の美味しさと歴史■




日本の伝統の味として深く、
日本人の生活に結びつく草加煎餅。
シンプルなかたち、素朴な味、
そして、いとおしい香。
そのいずれもが懐かしい故郷。
草加の土地と人々が築き上げ、
はぐくんで来た伝承の銘菓草加煎餅。




■せんべいの沿革と由来■


草加の歴史を一変させたのは、奥州街道の宿駅として慶長11年(1606年)に草加宿が置かれたことに始まる。それまでの一農村は、にわかに宿場としての人馬の乗り継ぎの地となり、旅館・問屋・商家が増えた。立場・茶店も増えて、南の千住宿、北の越谷宿の中間にあって、旅客の休息場となった。ことに寛永12年(1635年)参勤交替の制が敷かれ、東北諸候が草加を通り、江戸に往復するようになってからは、増々宿場町としての様相を整え、栄えていくことになった。

そんな中で、特に煎餅に関係の深い当時の茶店では、客の往来が増すごとに需めにしたがって、草加の古い伝統的製法によるかたもち(堅餅)を焼いた。こうして、草加煎餅は奥州街道の名物となっていくのです。この草加煎餅の起源は実に古く、千数百年前とされています。当時の人達は、生活の知恵の中で、ご飯を携帯用にすべく、今の煎餅を考えだしたのです。

ご飯をつぶして丸め、乾かしたものを堅餅といい、それに塩味をつけて焼いたものが、後の塩煎餅。現在の草加煎餅の源流となっていくものです。元来、草加の周辺は良質の米・麦・豆などが穫れ、温度・湿度が醸造に適していたため、味噌のような発酵食品の醸造は自家用としても盛んで、更に周囲にも商売として移出されました。その頃、利根川沿岸で醤油が発明され、焼き煎餅に醤油を塗ることが始まりました。その香ぐわしさと味が人々に喜ばれ、草加煎餅が街道の名物となったのです。

以上のような史資とは別に、起源に関する言い伝えもある。草加が宿場町としてにぎわいを見せていた頃、旅人相手の茶店が街道にあり、おせんというお婆さんが居た。そこで作って売っていた団子が評判で往来の人達に喜ばれていた。しかし、日によっては売れ残る時もあり、団子を捨てていたところ、武者修行の侍がその様子を見て「団子を捨てるのはもったいない。その団子をつぶして天日で乾かし焼き餅として売っては?」と教えた。おせんお婆さんが早速売り出したところ、お客に好評で名物となり、今の草加煎餅となる。




■製造行程・道具の今昔■



◆三世紀を超える煎餅の歴史◆



●生地屋●



煎餅の製造行程は近年、機械化導入による合理化はあるものの、概して大きな変化はみらません。せんべいが商品化されるまでには数多くの行程を通りますが、そのいずれもが習熟された職人の技術を要しなければなりません。せんべいの行程には、大別して米粉をシンコにして型抜きをし、乾燥させて生地といわれるものまでに作る行程と、その生地を焼いて仕上げるまでの行程に分かれます。前者を生地屋、後者を焼き屋といいます。生地屋は、生地を焼き屋に卸ます。焼き屋はそれを焼いて醤油を塗り仕上げます。先ず原料であるうるち米を粉にすることから行程は始まります。昔は、石臼で挽いたものなのですが、これは大変な労働で、また粉の目も荒く、したがって生地にするにはまとまりが悪かったようです。

今回は、昔の道具も写真で紹介しながら、先人のご苦労に思いを馳せてみたいと思います。粉は熱湯でよく練ります。その練ったものを棒状にまとめ(ニギリ)適当な大きさにしてせいろに並べます。せいろは大釜の湯の上に積まれ、蒸されるのです。湯気が均等にいき渡り全体がむらなく蒸し上がるように、時々下のせいろを一番上に積みかえたりもします。蒸し上がりの様子は長年の勘で、湯気の状態でも判断出来るのだそうです。蒸し上がってニギリは、餅状にするため、再び練り上げられます。餅状に練り上がってものを冷やすのです。これは練りをつけさせることと、アク抜きの効果も兼ねているのです。

この練り、冷やしを二回行ったあとは搗きです。昔は(デッチ)といい、粘りのついた餅を両手の拳で体重をかけ、内側にひねるように練り上げるのは、力のいる仕事で、主に男の仕事とされていた。しかし、この作業は現在、昭和の初期から導入されたドウヅキという動力で行われています。なお、現在の機械化された行程では、粉を練るところから蒸しあげまでを一貫して蒸練機で行います。さらに練り機にかけて冷やし、機械で搗くということになる訳です。搗きあげた餅をシンコといい、シンコをのし台の上で手で伸ばすことを「手のし」といいます。床に座って膝の上にのし台の片方をのせ、前方が床について斜めになる形で作業は行います。台の上にシンコを一杯に広げ、のし棒を転がしてシンコを平らに伸ばします。シンコを広げる時は、べたつかないように手油を手に塗ります。のし台にも、食蝋を塗り、くっつきを防ぎます。一回で伸ばす量は、せいろに入れた半分ぐらい。伸ばすときは、せいろにいれた半分ぐらい。伸ばすときは、のし台の両側に針金を張って伸ばす厚さを調整するのです。針金の太さで生地の厚さが変えられるわけです。このアイディアには感心させられました。

のしが出来ると型抜きです。型抜きには、ブリキで出来た輪を使います。このワッカをシンコに押し付けて丸く抜き取ります。手前の方から出来るだけ隙間が出来ないように抜いていきます。また、抜き残りは、他のシンコと混ぜてのして使います。ブリキの抜き型は、大中小とあり、大丸、中丸、小丸のせんべい生地になります。しかし、今回私達が見たものは近代化された機械で、シンコをのし機にかけると型抜きまでして出てくるものでした。型を枠彫りにした1メートル程のロールを気お回にセットすると、上の写真のように整然と並んで乾燥網の上に生地が出てきました。その様子はまるで手品をみているようで、いつまで見ていても飽きのこないものでした。

型抜きされたシンコは、天日乾燥されるもです。日の出と共に干し、日が暮れると家のなかに入れます。乾燥日数は、天気によっても違うのですが、三日から五日。あまり乾燥させすぎるとヒビだらけになってしまいます。ころあいを見て干し上げるのも生地屋の腕なのです。庭で干すと甘味が出て香もよいので良質の生地が出来るのですが、かなり広い干場が必要になります。町場で一貫製造するようになってからは場所が確保出来ず、やむをえず今では金網にのせて乾燥するようになっています。金網であれば、屋根の上に持っていって干すことも出来るからです。今回お尋ねしたところも庭と屋根の上で乾燥をしておりました。生地屋は、少しでも長く生地を天日乾燥した方が効率がよい訳けですから、日の出までに型抜きまですませてしまいたいのです。ですから生地屋の朝は早いのです。雨が降ってしまうと何日も休みというのも辛いですね。乾燥が完了すると、いよいよ焼屋へ卸すことになるわけです。




●焼屋●




生地屋から納入された生地は、まずホイロ(火炉)で、適当に暖めます。ホイロは箱形で下に炭を入れ、上は何段もの棚になっていて、そこに生地を置いて暖めるのです。こうすることで、生地に含まれている水分をぬくのです。この作業は、ベテランの職人さんでできないそうです。ホイロにかける時間が短いと、焼く時に火が通らなくなって堅いせんべいが出来上がってしまいます。暖めた生地は、焼き台で焼きます。焼き台は、角火鉢に金網が乗ったようなもので、炭火で焼きます。せんべいは、裏返しにして、オシガワラで押し、そらないようにするのです。オシガワラは、把手の付いた土を焼いたもので、古代の土器を見たような感じになりましたが、これが今でも一番よいのだそうです。せんべいはその後、焼き色が付くまで焼き上げます。そして仕上げです。焼いたせんべいにせんべいに醤油を刷毛で塗ります。醤油は一度煮てから使うと煎餅に艶がでるのです。塗った醤油を乾かせば、草加煎餅の出来上がりです。



◆せんべい豆知識◆



★とってもヘルシーな食べ物です★


あったかいお茶をやりながら、おせんべいを食べる。こんな時の満足感は、あゝ日本人に生まれてよかったと思うことでしょう。おせんべいは塩味だからと思う方もあるでしょうが、これに含まれている塩分は普通のおせんべい10枚ぐらいで1.5グラム程度。欧米では自然食品コーナーに置かれ、ダイエットをこころがける乙女に喜ばれています。着色料や防腐剤が含まれていないのもうれしいですね。


★良質タンパクで栄養も満点です★

おせんべいの原料はお米。お米には良質なタンパク質が牛乳と同じくらい含まれています。その他、脂質、糖分、灰分、カルシュウム、ナトリュウム、ビタミンB1、B2など、数えあげていくとキリがありません。たくさんの栄養を含みながら、しかも、太らない菓子ということで、若い女性には最高!バリンと食べて彼との友情も暖めましょう。


★固いものをかむことは老化を防ぐ★

宮中では昔から、固いお餅(あられ、せんべいの原形)を食べて健康と長寿を祈る儀式がありますが、実際に固いものをかむことは、からだにとってもよいのです。唾液の分泌を促すばかりでなくあごの筋肉を働かせるため、その刺激で亜tまの生理作用は活発化し、老化を防ぐという効果もでて来ます。また、米菓には歯に悪い成分は含まれていないため、歯医者さんもすすめる健康食品なのです。

参考文献---「草加手焼き煎餅組合パンフレット」より


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