やおいの心は母心

 耽美とはいかなるものか。

 小説では耽美派なるものがかつて存在した。一時期の川端康成や谷崎潤一郎がこう呼ばれていた。江戸川乱歩のある作品などもこう呼ばれていたと記憶する。戦前のプロレタリア文学に対抗するため、文学に政治や社会を持ち込むのを拒否し、ただ美のみを追求した。

 音楽の世界にも耽美派が存在した。文学では美を追求するものがそう呼ばれたが、音楽では自分が美と思っているものがそう呼ばれた。細身の男が派手な化粧をして長髪を染め、キラキラヒラヒラした格好で踊り歌っていると、「耽美派ロック」などと呼んでもらえた。志茂田景樹を思い出していただくとわかりやすい。いまでは、すっかり「ビジュアル系」という言葉に置き換えられているが。

 漫画でも耽美は無視しがたい勢力を誇っている。というか、漫画こそ耽美がその本領を発揮するホームグラウンドなのだ。

 その源流は竹宮恵子の「風と樹の詩」あたりであろうか。ゲルマン系の美少年たちが寄宿舎の中で組んずほぐれつする話である。といったら身も蓋もないが。竹宮恵子としては組んずほぐれつが描きたかったわけではない。ちゃんとしたストーリーがあって、組んずほぐれつはその一要素に過ぎなかった。

 しかし、当時の少女たちは漫画のストーリーではなく、ゲルマン少年の組んずほぐれつに熱狂した。感動のあまり自分でも描いてみようとした。その際、ストーリーなどという余計なものは切り捨てた。そんな少女たちが集まって、[JUNE」という耽美専門の漫画雑誌が創刊されたくらいだ。

 彼女らの漫画を開くと、いきなり見開きでゲルマン美少年が抱き合っている。むろん全裸である。しかも落ち葉舞う野外である。次のページをひらくと、やはり裸で抱き合っている。この辺は抱き合っているのだろうと察して5ページほど飛ばすが、やはり裸で抱き合っている。昨今の人種問題を反映してか、ジプシーの美少年旅芸人も浅黒い肌で参戦していたりする。さらに5ページほど飛ばして、ドイツの秋は寒いし、そろそろ服を着ないと辛いだろうと開くが、まだ裸である。あまつさえ先輩と称する美青年が裸で乱入などしてくる。もうそろそろ服を着ないと、舎監に見つかるぞと心配してさらに5ページ飛ばすが、ああなんということか、裸で舎監とも抱き合っておる。やけくそになって最後のページに飛ぶと、これまでの登場人物全員が裸で不思議な人体オブジェを形成している。素人漫画家の悲しさ、デッサンの基礎が無いので、複数の人間が絡み合う難しい構図を描こうとすると、エッシャーの不思議絵の如きこの世にありえない図を描いてしまうのだ。

 このような漫画を総称して「やおい」という。ストーリーの起伏が無い、意外な結末など探しても無い、組んずほぐれつに必然性が無い、というのを「やまなし、おちなし、いみなし」と呼び、その頭文字をとったものである。
 やおい漫画の題材は先輩少女漫画家の登場人物に限らない。アニメの登場人物、実在の有名人、歴史上の人物、何でもありである。もしもあなたが同人誌即売会に赴く機会あれば、女ばかり集まって怪しげな格好している集団の雑誌を開いてみるがいい。アムロとシャアが、キンキキッズの2人が、猿岩石が、安倍晴明と藤原道長が、沖田総司と土方歳三が、裸で抱き合っているから。

 やおいは意外なところに出没する。まさかこんなところにというところに出現する。私が昔行ったスナックの女の子がやおい同人誌を主宰する女性だった。コミケだのコスプレだの一般社会と剥離した話題に興じる私とその女性を、同行の知人は気味悪く見守るのみだった。
 あなたが会社で書類の整理を命じている女子社員がやおいかもしれない。あなたの恋人がやおいかもしれない。いやいや、あなたの母親が、昔やおいだったかもしれない。やおい発見の目安として、「樹」「瑠」などの漢字を多用する人は危ない、というものがある。そういえば、志茂田景樹も、「風と樹の詩」もそうだな。

 私が近辺にやおいを発見したのは最近である。

 私の知人がメーリングリストで「アルフィーが好き」と発言した。すでに結婚もし、社会の中堅をなす2児の母である。まあ、これだけなら大したことではない。たかだかアルフィーである。私も「メリーアン」や「星空のディスタンス」くらい知っている。「万里の河」もアルフィーの歌だと思っていたところがアレだが。

 個々のメンバーとなるとはっきり認識していない。オールナイトニッポンでくだらないジョークを連発していた坂崎が一番印象に残っているが、しかし彼と南こうせつの区別がつかない。高見沢は化粧が派手だったという淡い印象しかない故、筋肉少女帯の橘高を黒髪にしたようなものだと認識するのが精一杯だ。桜井に至っては、クリスタルキングの低音のほうだとかシーナ&ロケッツの男だとか、あらゆる黒メガネの男と混同している。だいたい、桜井という名前も、いま「アルフィー」でインターネットを検索してやっと知ったのだ。
 かような有様であるから、もしも南こうせつと橘高文彦とクリキンの低音男が「メリーアン」を歌っていたら、わたしはそれをアルフィーと認定するにやぶさかではない。

 そのような私の思惑をよそに、2児の母は暴走を始めた。アルフィーのCDはもちろんのこと、ビデオを買いまくり、家計は危機に瀕した。(と仄聞する)
 あまつさえメーリングリストでの言動は高揚しつづけ、「高見沢さま」などと呼ぶようになっていった。

 私も尊敬の意を込めて「水野あおい先生」とか「馬場社長」とか呼ぶことはあるが、「さま」は只事ではない。手紙の宛名書きを除き、私が「さま」をつけた人物は、「神様、仏様、バースさま」しかいない。バースより打つのか、高見沢よ。

 2児の母はどうやらやおいへの免疫が無かったらしい。これまで実直一途に過ごしてきたのだ。
「高見沢さま、絶対結婚しないで」「他の女のものになるのは嫌」などと女学生のようなことを言い出した。自分は結婚して2児の母という身でありながら。
 ついには自分の妄想をメールで繰り広げるまでになった。その内容というのが、正に何というか、それもんであった。

 公序良俗を憚るものではあるが、面白いのでその原文を公開しよう。

坂崎「高見沢・・・オレ、お前のことがずっと・・・」
高見沢「・・・すまないが、坂崎、オレは自分以外の人間は愛せないんだ!」
坂崎「それでもいい、一度だけでもオマエと・・・!」
高見沢「よせっ、坂崎! そんなことをしたら、アルフィーはおしまいだぞ! 極貧の生活に戻りたいのか!?」
坂崎「オマエのためなら、地獄に落ちたっていいんだ、オレは」
高見沢「坂崎、やめろっ! ラメ入りのブラウスを破るな!」
坂崎「いつもいつもステージで胸をはだけてるオマエを見て、どんなに苦しかったか・・・」
高見沢「胸なら、桜井だってはだけてるじゃないか。坂崎、よせってば・・・う・・・」
桜井(サキイカをかじりながら)「やんや、やんや!」

 「やんや、やんや」に若干の年輪を感じるが、これをやおいといわずして何と言おう。

 慧眼な男性なら気づくかもしれないが、これはエロ雑誌によくある、聖子だとか涼子だとかりえだとかを主人公にしたアイドルポルノシリーズと同工異曲である。白状すると私も昔「るみちゃんの危機」というこの手の小説を書いたことがある。

 まことに、人間の煩悩は有限であると知らしめ、人の世の儚さを思わせる話である。

 やおいの恐ろしいのは伝染するところである。
 高見沢女と化した女性の言動を見るにつけ、私もやおいの血が騒ぎ出してしまったのである。
 いま、私は南方熊楠と柳田国男のやおいを描くべく、資料を集め始めている。

 ところでかの高見沢女はますますその度を強めている。
 旦那は対抗上、中森明菜にはまっているそうだ。
 哀れなのが子供である。
 アルフィーと中森明菜のビデオを毎日見せられ、好きなウルトラマンダイナを見ることもかなわぬ。しかも母に影響され、まわらぬ舌で「たかみざわたま」と言っている様は見る人の涙を誘う。

 まことに恐るべきは母の愛である。


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