鬼畜の集う街

12月25日(水)
 また朝食ぎりぎりの時間に起きる。あれだけ買ったビールがまたもなくなっている。この部屋には妖怪ビール飲みわらしでも出没するのであろうか。あるいはタイだからピー(妖精)か。
 しゃあさん、今朝はお粥を三椀食っていた。ついにすべてを食いたくなったらしい。それにしても朝食のときにもっとも幸せそうな笑顔になるのは、ちょっといかがなものかとも思う。
 そして昼までまたも惰眠をむさぼる。こうなると年寄りというより老人の旅に近い。

 やおら昼ごろ起きあがり、鬼畜博物館へ向かう。いちおう世間はクリスマスだし、そんな聖なる日に鬼畜というのはいかがなものか、という議論もあったのだが、ま、どうせこの博物館が旅の主眼だったし、仏教徒だし、クリスマスイブに部屋で鍋を食ってたふたりに聖なるもへったくれもないし、ということで衆議一決。
 スカイトレイン(いつもながらこの名前はかっこいいね。スカイライダーみたいで)で終点のタークシン橋まで行き、そこからボートで上流へさかのぼる。ボート乗り場は建物に隠されていたり地球の歩き方の地図が間違っていたりしてわかりにくいことが多いが、タークシンの乗り場は駅と直結していてわかりやすい。

船着き場近辺

 ボートの中には、黄色い衣を着た坊さんがたくさん乗っていた。そして半数くらいが、われわれの降りたバンコク・ノーイ駅前で降りた。この坊さん、いったい大挙してなにを目的としているんだろう、まさか鬼畜博物館に行くわけでもあるまいし、と怪しんでいたが、どうやらバンコク・ノーイから電車で地方に行くらしい。
 とにかくバンコクには坊さんがいっぱいいる。バスにも電車にも乗っているし、町中をよくぶらぶら歩いている。いや、ぶらぶら、というわけではなく、ちゃんと托鉢という目的があって歩いているのだ。
 日本の坊主のように世襲の土地財産や幼稚園経営や葬式で儲けているのではなく(そういうのも一部にはあるかもしれないが)、タイの僧は托鉢で食っている。ヤクザと同じように自分の縄張りというのがあるらしく、そこを廻っては奥さんに昨日の晩飯の残りなどをいただいて、僧院に持ち帰ってわけあって食べるのだそうだ。だから、肉や魚は食べない、などと偉そうなことを言っているわけにはいかない。みんなが食べるものを食べる。もともとブッダの教団はそうだった。肉食戒だとか葷酒山門に入るを禁ずだとかは、中国に仏教が伝わって皇帝から広大な寺院領をせしめるようになってから生じたものだ。
 タイに坊さんが多いのは、タイの男性のほとんどが生涯の一時期坊さんになるからである。まるで昔の日本の徴兵や、いまの日本のボーイスカウトのようなものだ。ただし兵隊やボーイスカウトと違って、坊さんになる時期は一定ではない。大学を卒業してすぐ僧院に入る青年もいるし、会社を定年になってやっと暇になったから僧になる老年もいる。ただし本人の意思で僧になることが必要だから、日本のような未成年の小坊主はいない。小坊主のように見えるのは、僧の世話をするため雇われている少年である。アニメの「一休さん」は、ありえないことだからタイで人気を呼んだのかもしれない。
 たいがいは数ヶ月、長くて一年くらいで坊さんをやめて還俗するが、そのまま居着いてしまう人もいる。そのまま居着くと思われていた人が、とつぜん還俗したりすることもある。
 しゃあさんに聞いた話だが、成人してからずっと僧院に居着いて、日本ではご住持や住職と呼ばれるくらいの、けっこうな身分まで昇った初老の僧が、とつぜん還俗して僧院を出ていったことがあるそうだ。僧の高徳を慕っていた人が、いったいどこへ行ったのかと心配してあちこち捜していたら、僧院に近い街で人力車を引いているところを発見した。なにしろずっと僧院にいたから、世間ズレしていないため商売もできないし、専門知識がないから会社勤めもできない。けっきょく、粗食と荒行で鍛えた肉体をもとでに稼ぐしかなかったのだ。
 心配したもと信者が「なぜ、せっかく偉くなった僧院を捨て、こんな仕事に……」と問いかけるのに、その元高僧の人力車引き、にっこりと笑って、
「すべては仏のみこころです」

 閑話休題。ともかくも鬼畜博物館である。
 シリラート病院の広大な敷地内をしばらくうろつく。どうやら裏口から入ったらしく、看板も立っていないのだ。構内の医学生らしき男女に聞く。
 そのときふと思ったのだが、今日の私はドクロマークのTシャツを着ているのだ。こんな恰好で、しかもクリスマスに病院内をうろつき、しかも解剖学博物館を見たい、などというのは、このうえなく不敬なことではないか、などといまさら煩悶する。しかし医学生たちはさわやかに道案内をしてくれた。ああタイの医学生はいい人たちだ。日本の医学生よりずっといい人だ。
 解剖学博物館はとある古びた建物の二階にある。もっともこの病院内の建物はみんな古びているが。受付で荷物をあずけ、二階に上がる。
 スーパーマーケットでは数多くの商品が、野菜の部、鮮魚の部、干物の部、肉類の部、豆腐・蒟蒻の部、菓子の部、などと分類され展示販売されている。この博物館も同じように、目玉の部、耳の部、脳髄の部、骨格の部、肝臓の部、陰部の部、奇形の部、などに分類され展示販売されている。いや販売はしていないか。
 それにしても膨大な資料だ。たとえば目玉でいえば、教育用の巨大目玉プラスチック模型から、本物の目玉のホルマリン漬け、目玉から脳髄までの神経のつながりがわかるようにしたもの、胎児の目玉ができるまで、犬の目玉、などさまざまな目玉がある。最後のはひょっとすると落語が好きな人がならべたものか。まあこんな感じで、耳、鼻、口、脳、脊髄……とえんえん続くのである。あくまで教育的資料、という色彩の硬派な博物館なのである。
 奇形の部も豊富な資料を誇る。ほとんどどんな奇形でもある。みつくち、狼咽などの軽量級からはじまり、ひとつ目、無脳症、シャム双生児などのヘビー級まで。なかでもシャム双生児は本場だけに豊富な品揃えを誇る。「われらの偉大なる先輩」みたいな感じでチャンとエン(バーナム一座に出演し全世界的人気を誇ったシャム双生児)の写真が掲げられるもと、身体ふたつで首ひとつ、身体ひとつで首ふたつ、身体も首もふたつで顔だけ共有、顔も別れかけて三つ目ふたつ鼻になってる人、などなどなど。
 しばらく行くと、しゃあさんが「きゃあ」と叫んでとびのいた。何事ならんと駆けつけてみると、そこにはなぜか、肩胛骨から腕の骨格標本がテグスで吊されているのであった。それが扇風機の風を受けてぶらんぶらんと揺れる。なかなか風流だね。
 この博物館は入場無料だが、見学者には維持費を寄付してください、との貼り紙と喜捨箱がある。出るときにそこに五バーツのコインを入れようとしたら、しゃあさんに怒鳴られた。ああ、ケチったから怒っているのか。そうだよね、これだけ見せてもらったのだから十バーツくらい出しても、とあくまでケチなことを考えていると、
「そんなに出しちゃ帰りの交通費が足りないでしょ! 寄付は二バーツまで!」
 ああ、しゃあさん、シャム双生児より揺れる腕の骨より、あなたのその鬼畜さが怖かった。

 そこからシーウィというレイプ殺人犯のミイラが展示されていることで有名な法医学博物館に行ったのだが、こちらは前回も書いているし省略。解剖学博物館と比べると、どうしても観光客向けの見せ物という感じがするね。それにしても、穴の開いた頭骨と穴を開けた銃弾を並んで展示していたものが今回はなくなっていた。事故死した人の写真に目線を入れるのも、前はやってなかったような気がする。やはり徐々にタイも人道化しつつあるのだろうか。

 博物館が面白くて、ずいぶん長居してしまったものだから、もう夕方近くになってしまった。ワットポーに寄る予定だったが、そちらは中止することにする。かわりに、タークシンの船着き場近くにあるワットヤンナワーに寄る。この寺の塔は船の形をしている。なんでも船キチガイの王様が建てたものだそうだ。
 この僧院はまだ建築途中で、屋根などは作りたてである。その向こうに巨大なビルがある。しゃあさん言うところによると、あのビルは一大高層高級ホテルにするつもりで骨組みまで作ったのだが、そこで資金が尽きてしまって建築は中止。いまは朽ち果てるままに任されているという。並んで見ると、どっちが歴史的建造物だかわかりゃしない。

廃虚

 スカイトレインでラチャダムリまで戻り、リージェントホテルへ。超のつく高級ホテル、バンコク随一の高級ホテルだ。ここの超豪華なラウンジで超豪華なアフタヌーンティをしようというのだ。
 たしかに豪華なラウンジで、香り高い紅茶をいただいた。しかしそこで話す話題が、鬼畜博物館のこととか、ねとらじの話だったりするのはどうよ。私の恰好は鬼畜Tシャツだし。
 しゃあさんの頼んだアフタヌーンティセットはサンドイッチに始まり、スコーン、ケーキ数種、チョコレートまで出てくる。ふたりで分けあってちょうどいいくらいの分量。これで四百五十バーツ。
 それにしてもバンコクはいまだにクリスマス気分。日本では二十五日の朝になった途端、ぱっとクリスマスの展示を片付け、いっきょに正月気分に突入するのだが、バンコクではいつまでもだらだらクリスマスであるらしい。二十五日といえば厳密にはクリスマスだからかな、と思ったが、翌日もその翌日も飾り付けはそのままだった。店のお姉ちゃんもサンタ帽かぶっているし。どうやら年末までクリスマスで通すらしい。ひょっとしたらいまだにクリスマスなのかもしれない。いかにもタイらしい、と言っていいものかどうか。

いまだにクリスマス気分

 夜はまたホテルの部屋で鍋。きのうの残り物と、紐皮うどんみたいな平べったい米の麺で煮込みうどん。
 ついでに、いかにも脂が乗っていそうないなだの刺身を百バーツで買ってきたが、意外と淡泊な味だった。これなら刺身よりカルパッチョにしたほうがよかったかも。
 ネームという、豚肉を発酵させた一種のハムも買ってみた。ベトナムのネムチュアに似た味で、ほのかに酸っぱい。さすがに、こちらのほうが唐辛子が効いている。
 ビールを大量に買ったのは当然として、いつものシンハやビアチャンやビアレオの他にも、ちょっと変わり種の瓶ビールも買ってみた。
 Klassik はちょっと甘口のビール。Becks は辛口でホップの効いたビール。これがいちばんうまかった。
 ES というのがいちばんけったいなビールで、ビールと書いてはいるが何の酒なのだろう。やたらに甘ったるい。それも普通の甘さでなく、人工甘味料を混ぜたような。Tequylized Brew とあるが、テキーラならTequila だしなあ。謎の酒である。


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