出発前に

 またもや妙なきっかけからフィリピンへ行くことになってしまったのだ。

 そもそもは与那国島へいくつもりだった。誘ってくれたのは知人夫妻だ。この夫婦はなかなかの冒険者で、中南米からイースター島までを馬で駆け抜けたという、ジンギスカンかアッチラ大王かというような旅行歴を持っている。新婚旅行では南米へ行って、ヤドクガエルという、生物で最も毒性の強いカエルをわざわざ見に行ったという。夫をその毒で殺すつもりかどうかは知らない。別に私は反対しない。相談によっては有利な証言しますよ。
 馬と蛙だけでなくダイビングにも堪能で、沖縄、オーストラリア、インドネシア等で潜ったことがある。私を憐れんで、その一端に参加させてくれようという企画だったのだ。
 ところが与那国島が駄目になってしまった。小渕恵三のせいだ。沖縄サミットが開催されることになってしまったので、沖縄の便はとてもとりにくくなってしまったのだ。あそこには謎の海底遺跡があって、人造か天然かさまざまな論議を呼んでいる。私見ではどうも自然物らしいのだが、そのへんの議論に終止符を打つチャンスだったのに、惜しいことをした。
 ということで海外に変更すると連絡があったのが四月ごろ。フィリピンに変更すると言われたのだ。

 みなさんはフィリピンと聞いて何を連想するだろうか。
 マッカーサー。レイテ戦。フク団。マルコスとイメルダ夫人。ルバング島の小野田さん。ジャパゆきさん。拳銃密輸。呂宗助左右衛門。心霊手術。こんなものだろうか。この情報量が多いのか少ないのか知らない。劇画のタイガーマスクでは、アジアプロレス王座決定リーグ戦でフィリピン代表のカルメンZというのが登場したのだが、緒戦であっけなく大木金太郎に負けている。キン肉マンの超人はフィリピン出身は皆無だ。中国の拳法、タイのムエタイ、インドの魔術、こういった各国の格闘技に比べると、どうもフィリピンは魅力に乏しい。いや魔術は格闘技ではないけれど。
 でもちょっと魅力あるかな、心霊手術は。キン肉マンでもそういう超人を出せばどうだろうか。フィリピン出身、アリ・メンドーサ。手刀を相手のみぞおちに入れ、そのまま胃袋を掴み出す荒技を得意とする残虐超人。ロビンマスク戦では鎧を突き通せず敗戦。ブラックホール戦では顔に手刀を入れてしまい、そのまま四次元空間に送られて敗戦。ウォーズマン戦では変なものを掴み出してしまい、それが爆発して死去。弱いじゃん。

 情報を収集してゆくほどに、意気消沈していくのであった。
 フィリピン滞在経験のある人が、全員で私を脅かすのだ。曰く、マニラでは夜間は外出しない方がいい。たとえホテルが呼んだタクシーでも、信用してはならない。警官も信用してはならない。否、警官がもっとも信用ならない。バンコクで夜間ふらふら出歩くのは、有り金を失うくらいで済むが、マニラでは金と命をもろとも失うことになる。

 そしてまた飯がまずい。
 旅行者のバイブルとも言うべき「地球の歩き方」が、それを雄弁に物語っている。インドやタイの巻では、現地の食物がいかに美味であるか情熱的に語っているのに、フィリピンの巻では沈黙を守っている。
 フィリピン旅行者のすべてが口を揃えて、フィリピンの食い物はまずいという。すべてが甘酸っぱいという。タイ料理から唐辛子を抜いたようなもので、気が抜けた味ばかりだともいう。褒めるのは果物だけだ。たまに食い物が美味いという人もいるが、よく聞くとファーストフードのフライドチキンが美味かったりする。
 食材としては文句がないはずだ。新鮮な海産物、自然の中で育った豚、鶏。豊富な果物、野菜。タイやベトナム、台湾などと、条件はまったく同じはずだ。やはりアメリカ統治領だったことが味覚に悪影響を及ぼしているのだろうか。

 物売りもすごいらしい。私たちの行く予定のボホール島は、ダイビングで有名なところだが、どこへ行っても土産物売りのおばちゃんがどこからか出現するらしい。海岸で寝ているとやってくるのはさほど珍しい事ではないが、ここではダイビングクルーズに行く船にも出現するという。ひと泳ぎして、いい気持ちで船に戻ってくると、どこからかわいて出たおばちゃんの集団に取り囲まれ、Tシャツ、貝細工、ネックレス等を売りつけられてしまうのだ。それはそれは恐ろしいことだ。

 更なる困難が私を襲う。
 航空券と宿の調達は、知人夫妻にまかせていた。JAL悟空でチケットを購入し、4月27日出発、5月3日帰国の予定だった。JALで海外に行くなんて、生まれてはじめての経験だ。格安航空券の貧乏旅行とはおさらばだ、もうシートが倒れなかったりイヤホンが死んでいたり料理がまずかったりで悩むことはない、わーい。
 ところが職安の野郎、私の失業認定日を5月2日にしやがった。この日に出頭しないと一ヶ月分の失業手当がもらえない。生活できない。仮病を使って伸ばして貰うという手もあるが、国際電話で「熱が出てるんです」といっても説得力があるまい。なにより、出頭日に日焼けした健康そうな顔を見せて仮病は使いにくい。
 ということで、やむなく航空券をキャンセル。5月1日帰国の航空券を独自に探すことになった。さいわい、出発日はどうにでも調整できる。ゴールデンウィークに入る前なら安いし空いているだろう。ということで探し、みごと4月24日出発、5月1日帰国の便を手に入れた。フィリピン航空。ああまた格安。私は格安の人なのよ。

 先行してひとりの期間三日間はどうしよう。潜るわけにもいかないし。いっそのことマニラをうろついていよう。と思って、セブに行くのは27日にすることにした。マラカニアン宮殿にも行ってみたいし。心霊手術の見物もしたいし。
 しかしああ、マニラにひとり。典型的なカモ。やばそう。空港で職員にたかられたらどうしよう。変な運転手につかまって、ぜんぜん違うところに拉致されたらどうしよう。親切そうな人にジュースをおごられたらどうしよう。それに睡眠薬が入ってたらどうしよう。妙なにーちゃんにうるさくつきまとわれたらどうしよう。両替で札をすり替えられたらどうしよう。警官に恐喝されたらどうしよう。小心者の懊悩は続くのだった。あまりに怖いので、到着初日のホテルだけは日本で予約した。高いけど、送迎してくれるというし。

 出発直前にフィリピン航空機の事故。
 マニラ発ダバオ行きの国内線航空機が墜落。マニラからセブまで、乗るはずの飛行機と同型機。乗客乗務員131人全員死亡。同国航空機史上最悪の事故。あぅ。98年の9月廃業し、ようやく建て直しかかったところにこの事故。慰謝料は払えるのだろうか。再び廃業しないだろうか。気になったので、フィリピン航空の日本語サイトを探して行ってみたのだが、相性が悪いらしく必ず「不正な処理が行われました」でブラウザが死ぬのだ。墜落するのだ。撃墜されるのだ。ああ、ますます気になる。

 そして出発前日に夫妻から電話。
「あのね、旅行の日程、変わったでしょ。あんたの宿泊が4月30日までだし、わしらもセブに来る飛行機が遅れて、27日はセブ泊まりになっちゃったんだわ。んでね、日程変更のメールを出したんだけど返事がないのよ。こっちから電話すると宿泊代くらいかかるし、悪いけど明日マニラに着いたら、市外通話で宿に連絡しといてくれるかな」
 あぅ。限られた英語力の私に、厳しいことを。


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