駆けまわる娘

 病院の廊下を、娘が泣きながら走ってきたのに驚いた。
 しかし足音も泣き声も聞こえない。
 目で追っているうちに、ふっと見失った。
 妙なのは、私といっしょに談話室にいた数人が、まったく気にしない様子で、喋ったりテレビを見たりし続けていたことだ。

 病室で隣のベッドにいる老人と雑談しているとき、その話をしてみた。
 彼は腎臓が悪く、もう3年もここに居るということだから、病院の事情には詳しい。
「見えましたか」
 老人はちょっと眉をひそめた。
「あなたは……、霊というものを信じますか?」
「いや、あんまり信じるほうではないですが……」
「信じても信じてなくても、見える体質の人には見えるそうですな、霊というものは……」
 老人は私に微笑みかけ、
「実は、その娘さんもそうでした」
 そして、こんな話をしてくれた。

                 *

 その娘さんが入院してきたのは、2年ほど前の冬でした。
 18か19か、大学生だったそうです。
 胃の具合が悪いということで、精密検査を受け、そのまま入院したようです。
 気持ちのいい娘で、わたしにも会うと必ず挨拶してくれたし、談話室でよくみんなと話しては笑っていました。
 ところがその娘さん、妙な癖がありました。みんなと笑っているときでも、突然びくっとして、しばらくうつむいてふさぎ込むことがあるんですな。
 まあ、なんといっても病気なんだし、憂鬱になることもあるだろう、と、そのときは考えていたんですが。

 ある晩、わたしが談話室にひとりでいるとき、その娘がいきなり駆け込んできたのです。
 えらくおびえていて、とにかく泣きじゃくるばかり。
 一生懸命なだめすかしたのですが、泣きながら、「見えたの……見えたのよ!」と言うだけ。
 ようやく落ち着かせて、話を聞いてみました。

 その娘さんも、霊が見える体質だったのです。
 その上始末の悪いことに、えらく怖がりなたちだったんですな。
 子供のときから、時折見えていたそうです。
 何度見ても、慣れないんだとか。
 そのたびに脅えて泣くので、友達にからかわれたそうです。

 ここに入院してから、よく見えるようになったそうです。
 診察室にうずくまった老婆だとか、廊下をすうっと通り過ぎる半透明の男性とか。
 無理もありませんな。死人には事欠かないところですから。
 子供の頃のように泣きだしはしませんが、その度に怖くて、下を向いて我慢していたそうです。

 その晩は、ベッドで寝ようとしていたとき、足元に見えたんだそうです。
 黒い煙のようなものに包まれて、一対の眼だけが。
 その目つきがなんとも邪悪で、普通の霊とは思えなかった。
 とても我慢できるようなモノじゃなかった。
 それで病室を逃げ出して助けを求めて来たのだそうです。

 その日はそれでなんとか収まったのですが、それからもその眼は何回か出てきました。
 夜、廊下を駆ける足音と、泣きじゃくる娘さんの声が聞こえることがありましたから。
 そのうちに患者の中でも評判になる、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないかなんて言うものも出てくる、お医者さんの間でも問題になったらしいです。
 精神鑑定を受けさせられたと、自分からわたしに言いました。
 そのときの娘さんは、かわいそうにすっかり衰弱していました。
 あの眼はますます頻繁にやってくると、言っていました。

 精神的にも参っていましたが、肉体的にも衰弱していたんですな。
 本人には知らされていなかったのですが、娘さんの病気は、癌だったそうです。
 それも若いため進行が早く、あのときはもうあちこちに転移していて、手遅れだったのです。

 あの眼は、娘さんを迎えにきたのかもしれませんな。
 それからふっつり、その娘と会うことはなくなりました。
 毎日やってくる眼を怖がって暴れるので、拘束衣を着せられたそうです。
 ベッドに縛りつけられて、怖くてたまらない眼を見せられて、泣きわめいて。
 それから半月もたたないうちに、娘さんは死にました。

                  *

「それから、あの娘が廊下を走るようになりました」
 老人は謎めいた微笑を私に向けて言った。
「変な噂がありましてな。あの娘が見えた者は助からない、と。まあわたしも見えるし、退院のめどは立たないし……」

 私は嫌な疼痛を感じた。
 私も胃潰瘍といわれて、ここに入院してきたのだ。
 胃の奥のほうが妙に痛む。


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