話し言葉の誘惑

 小説などで作者が苦労するのが、方言の扱いである。割り切って全員に標準語を使わせるのならいいが、多少なりともリアリティを出そうとする場合、登場人物にどんな言葉を喋らせるか。

「ああ、ひもじっちゃ。わらわらあづぐの店さあばい、ちょっくらべろやらにどまめやらとうきびやらずんだ餅やらはったぎやら呼ばれっちゃ、すんできどごろねっぺや」
「おどげでねぇ! んだげ? いぎなりとろっぺつあがらえっちゃ? わんつかいやすごでない? ほいど腹だべさ?」
「しずねぇ! ごっしゃぐべさ。えらすぐねぇ。からすこぶ食らわすべさ」
「なーんだべまづ、あがらえてつぐにばりすぐねたばるとべこになるべっちゃ」
「あんだもおだってや、わすのこと海さべこ呼ばるべさ。そりゃわがんめぇ? いげすかね」

 上記のように、リアリズムに徹して完全な方言を使わせると、その地方の出身者以外には誰も意味がわからない、などという現象をもたらす。上記例は仙台の妙齢の美女ふたりの会話だが、仙台人以外はなんのことやらわからないだろう。おそらく仙台人にもわからないような気もするのだが。なにしろ東北に行ったこともない私が、ネットの仙台弁講座だけを頼りにでっちあげた文章だから。
 それだけでなく、はたしてふたりは本当に美しいのか? とか、本当に妙齢なのか? とか、やっばあがり過ぎなんでないかい? などという、いらぬ疑惑すら読者に持たせてしまう。
 だいいち、この方法を採用した場合、外国人が登場するたびに横文字が発生し、読みづらいことこのうえない。たとえばこの方式を採用して「ジョン万次郎漂流記」を書こうとした場合、水夫(西部なまりの英語)と船長(アイルランドなまりの英語)と万次郎(土佐弁)の三者会談がどのように書かれるのか、ちょっと想像もできない。

 ちょっと方言を織り交ぜてみる、というのは多くの作家が使う手である。この場合も、どのくらいのパーセンテージで交ぜるか、という問題がある。
 たとえば司馬遼太郎などは、ほとんど標準語に近い言葉を登場人物に語らせる。織田信長も豊臣秀吉も明智光秀も、標準語を話す。これを方言にして、信長と秀吉には尾張弁、光秀には京言葉を使わせてみると、たちまち「国盗り物語」が清水義範の「金鯱の夢」になってしまう。ちなみに、清水義範は光秀に標準語を使わせているが、京言葉だからいまの京都弁に近いはずだ。

信長「おお藤吉郎に十兵衛かや。最近どぎゃぁしちょーる。播州はどうだがや。丹波はどぎゃーしちょる」
秀吉「なーんもありゃぁしませんがや。殿さんのご威光で、あ、ほりゃ、草刈るように、ちゅーみゃーか、ばっさばっさこっちになびーてきゃーすがや。天下の織田家に逆らうようなたーけらしい奴は、播州にはおりゃーしみゃせんだがや」
光秀「丹波どすか。なんせ田舎どすさかいなあ。ほんに難儀どすわ。おまけに波多野の一族が、あんじょうおきばりやすよってに。ほんにかなんわ」
信長「だちかんのう。そーゆーとろくせゃぁコト喋るのは、この口かや。ええ、この口かや」
光秀「いやぁ、かなわんわぁ。ぶぶ漬けお食べやす」
信長「たーけ。なぜ味噌カツと言えんのきゃー」

 信長や秀吉だけではない。天下の大忠臣楠正成は、河内の土豪だったというからには、おそらく今の河内弁に近い言葉を喋っていたはずだ。だから、有名な「桜井の別れ」も、おそらくこのような会話だったと思われる。

楠正成「正行、正行はどこじゃい?」
楠正行「何ぞいや、お父ん」
正成「わしらはもうあかんわ。足利尊氏の軍勢は三万、わしらはわずか五百。こら、どもならん」
正行「ほんまになあ。新田のボケが白旗城あたりでスカタンしてけつかるよってに、こんなしょうむない目に」
正成「せやからな、おどれとわいも、ここらでお別れや。さっさと去にさらせ」
正行「お父ん、そら殺生な。わいも一緒に連れもっとくれな」
正成「あほんだら。おどれまで死んだら、楠がみんないんでまうやんけ。ほしたら、誰が尊氏を倒すんじゃい」
正行「お……お父ん!」
正成「よう聞け。おどれはわいの息子じゃ。他の奴らがいんでもても、けったいなことになっても、おどれだけは帝を裏切ったらあかん。ええか、ぼちぼちいんでもて、おどれが最後のひとりになっても、尊氏の餓鬼を殺ったるんじゃ」
正行「お……お父ん! あんじょう肝に銘じたわ。わいは立派に、楠の組を守っていきまっさ!」

 なんだか「太平記」が、松竹新喜劇か今東光のやくざ小説「悪名」になってしまったかのようだ。

 さらに古い話になると、方言といったレベルではなくなってしまう。万葉集などから推測した結果によると、今の我々がハヒフヘホのH音で発音する言葉を、奈良時代の人間はファフィフフェフォのF音で発音していたらしい。さらに遡り、飛鳥時代以前には、パピプペポのP音だったらしい。
 また古代は、濁音を発音しなかった。バビブベボのB音は、パピプペポのP音で発音していたわけだ。
 ということで推測するに、飛鳥時代の人間の会話は、おそらくこんにちの我々の言葉よりも、いわゆるポコペン言葉に近かったと思われる。
 そう、「チューコク人、チューコク人、言うて、パカにすな。おなしメシ食うて、トコちかう」という、中国人を馬鹿にした、あの喋り方である。
 たとえば中大兄皇子と藤原鎌足の密談も、原音に忠実に表記すれば、このようだったと思われる。

「皇子、蘇我入鹿のたぴ重なるポウキャク、もはやゆるすコトてきんのコトあるね。ペケあるよ」
「そう思てくれるか鎌足。わたしもカマンにカマンをかさねたけと、もうペケあるよ。造反有理ある。わしらのクーテターに味方する軍勢、あるあるか」
「あるある」
「よいある。明日、イーアルサンスーウーの刻に、入鹿の首チョンある」
「チョンは困るある。差別用語あるよ」

 こういう会話を採用してくれれば、「新しい教科書を創る会」にも賛同するんだけどなあ。


戻る          次へ