ごはん二十番勝負

 香川県、というよりこの場合は旧国名の讃岐で呼ぶ方がぴったりくるが、とにかくその地方発祥の、セルフサービスのうどん屋。このスタイルの店も関東に進出して十年あまり、すっかり定着した感がある。
 ところがそこで、うどんを頼まない客がいるという噂を聞いた。
 何を頼むかというと、ごはんだけである。
 普通、うどん屋ではごはんだけ頼む客を想定していない。
 ごはんは、うどんだけでは物足りない、かといっていなり寿司やおむすびではいやだという大食漢向けに、うどんのサブとしてのラーメンライス的役割を果たしている。もしくは、うどん屋なのにうどんは食いたくないという偏屈向けに、ご飯にチクワ天だのエビ天だの天ぷらを載せて天丼にするための土台という役割である。
 ところがその客は、ごはんだけ頼むのだそうだ。
 セルフのうどん屋では、天かす、おろしショウガ、ネギ、ゴマは無料で提供され、またごはんを頼むと天丼製作用のタレがついてくる。
 その客はこのシステムを悪用?し、ごはんに無料の天かすとネギとおろしショウガを載せ、タレを掛けて、いわばタヌキ丼のごときものを制作して食すのだそうである。
 丸亀製麺ではかけうどんが280円、ごはん130円。つまり食事が150円安くあがることになる。

 牛丼屋でも同じような悪事?を働く輩がいると聞いた。
 牛丼屋のごはんは、普通牛皿とセットでの注文を想定している。しかしその客はごはんだけ頼み、これに無料の紅ショウガを大量に載せて食するのだという。
 うどん屋のタヌキ丼もどきに比べても不味いような気がするのだが、とりあえず吉野家では牛丼300円、ごはん140円。つまり食事が160円安くあがることになる。

 ただでさえデフレスパイラルのまっただ中にある外食産業は、この客単価激減傾向に憂慮しているという。
 今後はココイチでカレーを頼まず、108円のライスに卓上の福神漬けだけ載せてかっくらう客が出没しないとも限らない。
 日高屋でラーメンを頼まず、160円のごはんに卓上のラー油をぶっかけてむさぼる客が出てきても不思議ではない。
 小諸そばでそばを頼まず、100円のごはんに卓上の梅干しとネギとワサビを載せて醤油を垂らして賞味する客がいないと、誰が保証できようか。
 「ごはんだけの客」はファストフードチェーンだけとは限らない。
 牛角では190円の小ライスに焼き肉のタレをぶっかけて食する客の出現におびえていると聞く。
 野田岩ではごはんだけ注文して蒲焼きのタレをかけろと命じる客を追い出した場合、法律的にはどういうことになるのか顧問弁護士と相談していると聞く。
 つな八ではごはんだけ注文して隣の客の天ぷらのコロモを拾って盗作たぬき丼を制作する客がいたら、店員と客で協力して追い出しましょうという防災訓練を準備していると聞く。

 嗚呼、かつてのラーメンライス的鷹揚なる食文化はどこへ行ったのだろうか。
 ラーメンを食い、さらにライスも食う。濃厚なラーメンスープと淡泊なるライスのハーモニー。ラーメンのスープはラーメンの一方の主役であるとともに、ごはんに味噌汁的な役割も担う万能選手だ。そして、チャーシューやメンマをライスに載せて食らう遊び心。ライスをラーメンのレンゲに入れてラーメンスープにひたして食う冒険心。

 ラーメンライスに限らない。
 山口瞳が勤務していた頃のサントリーでは、天ぷらうどんとごはんを注文する文化があったという。
 うどんに載った天ぷらをごはんに移し替え、天丼とかけうどんとして賞味するのだという。
 天ぷらはうどんだしを吸って「薄味の天丼」として十分その役目を果たし、うどんは天ぷらの油のなごりを残し、かつコロモが少々残留して「天ぷらのうまみを持つ天かす少なめのたぬきうどん」として堂々の役割を果たし、そのハーモニーで心豊かにサラリーマン生活を送れたという。
 この逆を東海林さだお在学中の早稲田大でもやっていたとのこと。
 こちらでは天丼とかけそばを注文し、天丼の天ぷらをかけそばに移し替えるのだ。
 天丼の天ぷらは濃厚なタレを吸収し、そばに投入されてそばつゆと混じり、「濃厚風味の天ぷらそば」と化す。そして残されたごはんは天丼のタレがしみこみ、天ぷらのコロモも多少残留して、「甘じょっぱいタレがしみた少々たぬき風味の旨味ごはん」として心豊かな大学生活を送れたという。

 私にも似たような経験がある。
 かなりな昔、大学に在学していたとき、金があると学食でカレーとトンカツを注文していた。
 カレーの上にトンカツを載せ、トンカツのつけあわせのキャベツはそのままとして、「カツカレー」と「キャベツサラダ」として賞味していた。
 もっともこれは、食文化を謳歌していたわけではなく、単にカレー150円、トンカツ70円で、合わせてもカツカレー270円(サラダ付き)より50円も安いという経済的事情によるものであった。ごはんの輩とぜんぜん変わらないね。

 しかし、ラーメンライスを遙かに超える食文化的営為をなした人物がいる。内田百閧ナある。
 内田百閧ノよると、天丼は、天ぷらの味が染みた飯を食うもので、天ぷらは用済みだから捨ててしまってかまわないという。
 さらにハムエッグも、ハムの香りを卵に移す料理なのだから、ハムは捨ててしまって卵だけ食べるべきだという。
 柳川鍋も泥鰌と卵で牛蒡に味をつける料理だから、牛蒡だけ食べて泥鰌と卵は捨ててしかるべきだという。
 シュークリームのシューはクリームを包む単なる容器なのだから、クリームだけ食べてシューは捨てなければならないという。
 「うどん屋でごはんだけ」と「内田百閧フ天丼」、その結果としては似ているが過程が双曲線のように異なる。
 うどん屋のごはんが、ごはんに無料トッピングを追加して制作された、プラスの発想である。
 内田百閧フ天丼は、天丼から天ぷらを除去することによって制作する、マイナスの発想である。
 マイナスの発想は、その元となる食材が豊穣でなくては成り立たない。つまりは豊穣な文化が根底にある。

 内田百閧フ文化的営為を現代に実践するとどうなるだろうか。
 うどん屋でごはんとエビ天と茄子天を注文し、ごはんにエビ天と茄子天をのせ、タレを掛けて5分待った後、エビ天と茄子天をゴミ箱に捨てて、天ぷらの余香のしみたごはんだけをいただく。
 牛丼屋で牛丼を頼み、具の玉ねぎと牛肉は捨て去り、紅ショウガをのせてツユのしみたごはんを賞味する。
 ラーメン屋でラーメンライスを頼み、ラーメンの麺は捨てて代わりにごはんを投入し、ラーメンスープのおじやを制作して食べる。
 焼肉屋でカルビとロースとごはんを注文。カルビとロースにタレをつけて焼き、そのかたわらごはんでおにぎりを握る。肉がかりかりに焼けたら取り出して捨て、おにぎりを鉄網に載せて焼き、焼き肉風味香ばし焼きおにぎりを制作してかぶりつく。
 寿司屋で上寿司を注文し、載ったお魚はすべて投棄。残った魚の余香ただようわさび酢飯にガリを一枚かぶせ、ちょっとだけ醤油をつけて頬張る。
 フランス料理屋でフルコースを注文。フォアグラカリカリソテーも牛ヒレステーキもすべて捨て、フォアグラの脂の残るトリュフソースやヒレステーキのグレービーソースにライスをひたして召し上がる。
 花見に持参した岡山名物の豪華ばら寿司。サワラ、アナゴ、鯛、海老、伊達巻き、椎茸、干瓢、湯葉、筍、独活、蓮根、牛蒡、甘酢生姜、等々のごはんの上にある具をすべて傍らのゴミ箱に投げ捨て、下に残ったごはんだけを、「お、ここはほの紅くへこんでいるから海老が載ってたんだな、こっちはしょっとタレが残ってるからアナゴがあったんだな」と、それぞれの具の残留思念を楽しみつつ食う。
 ううむ、どれもおいしそうだ。
 ただしこれを実行する前に、店のおやじや周囲観客がこれらの文化的営為に対してどのような感想を抱くか、確認したほうがいいと思う。牛丼だけは、「肉抜きネギ抜き」の呪文でつつがなく達成できそうな気もするが。


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