愛・少女フィリピーナ物語

 いつものように朝食を終え、慌ただしく身支度しながら、田崎康雄は、
「おい、今日はあの子が来る日じゃなかったか?」
 と妻に尋ねました。
 和美は食器の後片付けをしながら、「ええ」と答えました。
「そうか、俺は仕事で迎えに行けないが、よろしくたのむ」
「わかってますよ」と和美は、夫を送り出しました。

 子供のいない田崎夫妻が、女の子を引き取ることに決めたのは、先週のことでした。
 カンゼオン・アランと妻のサラが、偽造パスポートで日本に入国したのは、10年前のことでした。それから10年間、夫婦は日本に違法滞在を続けてきたのです。
 その間に夫婦には娘も生まれました。
 けれど先月ついに犯罪が摘発され、夫婦はフィリピンに強制送還されることになりました。
 しかし、日本で生まれ、日本で育ち、日本語しか知らない娘は、特別措置で日本滞在が許されるようになったのでした。
 そうすると、よるべない娘に家庭をつくってやらなければなりません。
 フィリピンの両親の代わりを田崎夫妻が引き受け、家に引き取って育てることになったのでした。

 朝食の片付けを終え、掃除をしていた和美は、ふと時計を見上げ、
「あら、もうこんな時間」と掃除機を放り出しました。
 もう10時の10分前になっていたのです。
 上着だけ着て、あわてて和美は駅に急ぎました。
 駅に着いたときは、もう10時を過ぎていました。
「もう来ているかしら」
 和美が駅前を見渡すと、広場のベンチに、古ぼけた鞄をクッション代わりにしてもたれて座っている少女がいました。少女は赤いごばん柄のギンガムを着て、ふさふさとした髪の毛を二つに分けておさげにし、浅黒い顔の白い目を右、左と向けて、しきりにだれかをさがしている様子でした。
 和美がそちらに向かっていくと、少女はぱっと花が咲いたような笑顔になって、
「もしかして、あなたが田崎さんですか?」と訊ねました。
「ええ、そう……」
 返事を半分も言わないうちに、ギンガム服の両の腕が、しっかりと和美に抱きつきました。
「ああよかった。来ていただいて、本当によかった。あたしが想像していたような優しそうな人で、本当によかったわ」
「それはどうも……」
「で、お迎えは馬車でいらしたの? それとも車?」
「いえ、歩いていくのよ」
「なあんだ」少女はしょんぼりとしてしまいました。「あたしね、きれいな馬車でお迎えが来るのを想像していたの。でも」
 と、また元気を取りもどし、
「馬車じゃなくて歩いていく方が、みちみちおばさんとお話しできるからよかったと思うわ」
(いまどき馬車なんて、観光地以外で使ってる人、いるわけないじゃないの)
 と和美は言いたくなりましたが、言葉を呑みこんで、
「歩いて15分くらいですからね。すぐ着くわ」
「そうだ。あたし、自己紹介がまだでしたね」
 少女はぺこりとお辞儀をして、
「あたし、カンゼオン・璃瑠華といいます。リとルは瑠璃を逆にしたので、カは華道のカよ」
(よくもそんな、へんてこな名前をつけるくらい、両親は日本になじんでいたものね)
 と言いたいのを、じっと我慢して、和美は少女と歩き出しました。

「あれがこれからの、あなたのお家よ」
 和美が指さす先をじっと見ていたリルカは、手を打ってはしゃぎました。
「まあ、かわいいお家! あたしずっと、あんな可愛いお家に住んでみたかったの。可愛くてちっちゃなお家!」
(ちっちゃいだけは余計よ)
 と思った和美は、もちろん口には出さず、少女を家に迎え入れました。
「ここがあなたのお部屋よ」
 案内された部屋を見ると、リルカは荷物のわきに腰を落とし、両手で顔をおおってしまいました。
「まあ、いったいどうしたの?」
 和美の問いに少女は、「だって……狭くて薄暗くて……筵がしいてあって……あたしが悪いことをしたとき、お母さんに閉じこめられた倉庫みたい……」と、ときどきしゃくりあげながら答えました。
(なんてことを! ここはただの四畳半で、昨日まで夫の居間だったのに。それにあれは筵じゃなくて畳よ)
 と言ってやりたくなるのを、ぐっと我慢した和美は、
「ちょっと狭いけど、机やベッドを入れれば、もっときれいになるわ」
 と慰めるのでした。
 リルカもすぐに機嫌を直し、
「そうね。あたしの荷物もちょっとしかないから、ちっちゃい部屋ならちょうどよく収まって、よかったと思うわ。それに、あの窓から夕陽が見えるからよかった。マニラ湾に沈むような、きれいな夕陽が」
「マニラには行ったことがあるの?」
 和美の問いにリルカは頭を振って、
「ううん。ぜんぶお父さんから聞いたの。マニラ湾って素晴らしいところだって。いっぱいお船が入ってくるのよ。それに、マニラ湾に沈むのは夕陽だけじゃないって、お父さんいつも言っていたわ。ちょっと潜ると、身ぐるみ剥がれた人や、小指のない人や、ナイフが腹に突き刺さったままの人が、足にコンクリートの重しをつけて、ゆらゆら、ゆらゆらって、それはそれは奇麗なんだって」
(いったいあなたのお父さんは、どういう暮らしをしてきたの?)
 飛び出そうとする言葉を、和美は必死にこらえるのでした。

「そろそろお昼の時間ですよ。いらっしゃい」
 部屋で荷物をかたづけていたリルカを、和美は食卓に呼びました。
 リルカはにこにこしながら食卓に向かったのですが、並んでいる料理を見ると、困ったような顔をして、どれも食べようとしないのです。
「どうしたの? なにか嫌いなものがあるの?」
 和美の問いにリルカは、「いいえ。でも、見たことのない食べ物ばかりなので……」と口ごもるのでした。
「でも、日本にずっと住んでいたんでしょ? ご飯、お味噌汁、海苔、コロッケ、みんな、見たことがないの?」
 和美の言葉にリルカはうなずきました。
「今まで、どんなものを食べていたの?」
「ええと、お金があるときは、お寿司だとか焼肉だとか……お金がなくなると、かっぱえびせんをお父さん、お母さん、あたしで分けあいっこして……」
(あなたの両親の金銭感覚の方が見たことないわ)と思った和美でしたが、もちろん口には出さず、ひとつひとつ、少女に食べ方を教えてあげるのでした。

 夕食もつつがなく済み、もう夜になってしまいました。和美は少女に声をかけました。
「リルカちゃん、もう遅いから寝なさい。部屋に布団をしいておいたわ」
「大丈夫です。あたし、おじさんに会いたいの」
「残業があるから、帰るのが遅くなるかもしれないわ」
「いいんです。待てば待つだけ、会えてよかったって気持ちになれるし、あたしのお父さんも帰るのがよく遅かったから。こないだなんか、夜明けごろ、傷だらけの血まみれで帰ってきたもんだから、お父さんが生きて帰れてよかったって、神様に感謝したの」
(あんたのお父さんって、どういう仕事だったの)
 と問いただしたくなる言葉を我慢して、和美は無言で夫を待つのでした。

 夜の9時過ぎ、和美の夫がようやく帰ってきました。
「ただいま。ほう、これが今日きた女の子か。可愛いじゃないか」
 少女はコートを着たままの康雄に抱きつき、とっても嬉しそうに、
「これでおばさんとおじさんが揃ったわ。本当によかった。ねえ、おじさんとおばさんのこと、パパとママって呼んでいい?」
「でも、本当のパパとママはフィリピンにいるんだし……」
「いいの。フィリピンにいるのはお父さんとお母さん。パパとママは、今までだっていっぱいいたの。お父さんはよく、キャバクラのママやクラブのチーママや女王様を連れてきてくれたし、お父さんがしばらく帰ってこないときは、お母さんのところにパパがよく来てたの。みんなお金をくれるし、とってもいいパパよ」
(そんなパパやママと一緒にされるのは嫌だ)
 夫婦揃って同じことを思ったのですが、どちらも口には出さず、無理に笑顔を作ってみせるのでした。

 翌日の昼ごろ。
 リルカが携帯電話を握りしめ、踊りながら台所に入ってきて、いきなり和美に抱きつきました。
「よかった、本当によかったわ! あのね、お父さんとお母さんが、もうすぐ帰ってくるの!」
「え、でもお父さんとお母さんは、フィリピンにいるんじゃないの?」
 和美の問いに少女は、携帯電話を抱きしめるようにしながら、
「でも、もう日本に戻ってきてるんですって!」
「だって、強制送還処分じゃ、そうそう再入国はできないはず……」
「そうなの。飛行機で日本に来るのはとっても難しいんですって。だから、中国の人に頼んで、船に乗せてもらって、横須賀のあたりでこっそり上陸して、電車に乗って、もう上野駅に着くんですって!」
「今度は蛇頭かよ!」
 と、和美はとうとう、口に出してツッコんでしまいました。


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