はいぱーがーる(序章)

「あおいは……本当に、あおいなのですか?」
 ホテルのロビーの薄暗い照明の下、一団の男女が固まっている。
 中心はインド人らしい浅黒い肌の痩せた男。年齢は三十前後か。そのまわりを取り巻いているのは日本人三人。夫婦らしき四十前後の男女と、それよりもやや若い、小太りの男。
 女性の発言に、痩せたインド人はうなずく。
「たぶん……たぶん、そうだと思います。インド警察は送られてきた写真、身長、体重……これはちょっと難しかったのですが、同一人物と判定しました。これから、それを、確かめていただきたいのです」
「それなら……私が行きます」
 女性が立ち上がり、すぐにでも出て行こうとハンドバッグを抱えた。
 インド人は首を振る。
「お母さんには、申し訳ないが遠慮してもらいたいです。行く場所、ちょっと危険ですね。外国人、危険。女性、特に危険。ええと……いかがわしい、そう、いかがわしい場所なのです」
「それなら私と」と、年配の方の男が言った。「和之、お前とで行こう」
「そうですね、兄さん」と小太りの男が答えた。

「まだずいぶん歩くのですか」
 小太りの和之が呻くように言った。カルカッタは夜でも蒸し暑い。全身水をかぶったように汗みどろだった。
 すこし先を歩いていたインド人は、現地のガイドらしい色の黒い男と、ヒンディー語らしき言葉でしばらく話し合ってから、振り向いて小太りの男に答えた。
「この二ブロック先の小屋だそうです。五百メートルほど先」
 和之は一瞬うんざりした表情を浮かべたが、気を取り直すと腰にぶら下げたミネラルウォーターを呷り、最後の力をふりしぼるようにして先行集団に追いついた。

「失礼ですが……」
「私ですか?」あえぎながらの和之の言葉に、インド人は振り向いた。
「日本語、お上手ですね。ええと、ミスター……チャンドラ……」
「チャンドラセカールです。チャムとお呼びください」とインド人は微笑した。
「ありがとう。学校で習いました。日本にも留学しました。それからデリーに戻って、日本人の会社、入りました」
「それから政府へ?」
「ええ……日本の会社、日本人しか出世できない。現地人の待遇と日本人の待遇、はっきり違いますね。それで多くのインド人、辞めました」
「でも、それからお役人になれるなんて、立派ですね」
「選挙の手伝いしましたね」と痩せた男は真面目に頷く。
「インド、政治家のコネクション、とても強い。千票集めたら、誰でも役人になれる。その人が当選して、与党ならね」
 先を行く兄の和正は、このような会話も耳に入らぬ様子で、厳しい表情を崩そうとせず歩いてゆく。

 この四人が歩くカルカッタの街角は、炎天下の熱気と喧騒と悪臭を凝縮して蒸らしたような、ねっとりとした空気に包まれている。小太りの男ならずとも参ってしまいそうな環境だ。
 この環境に慣れた褐色の肌の住民は、熱気の中をただようようにゆっくりと動く。急激に動くと、かきまわされた熱気の渦にまきこまれて倒れてしまうからだ。
 そこまでの修業はできていない日本人の兄弟は、汗を流しながら歩く。兄の和正は流れる汗を拭おうともせずに。弟の和之は水を補給してはすぐに汗と化し、タオルでそれを拭いながら。

 小太りの男の1リットルサイズのペットボトルが空になったころ、現地ガイドがある小屋を指差した。
 その小屋の入り口に座り込み、薄汚れた黄色い衣服に身を包んだ老人が、関心なさげに立っている数人の男に向かい、なにごとか喋っている。そのとなりには、小汚い藁半紙に、手書きのヒンディー文字で、なにごとか書いてある。
「あれは何を言っているのですか?」
「見せ物小屋の口上ですよ。ええと、……『親は代々シュードラの牛殺し、殺生の罪、子に報い……』と言っていますね。あの紙にはこう書いてます。『おとな十ルピー、子供と兵隊さんは半額、孕み女は二倍だよ』。とにかく入ってみましょう。事を荒立てたくないので、今回はただの見物人として。いいですか。何を見たとしても、けっして騒がないでください」
 インド人は日本人二人に念を押した。

 インド人はいくばくかの小銭を老人に渡した。老人は黙って入り口の戸を開き、四人をなかに入れた。まず、案内人が入った。
 続いて兄の和正は飛び込むように入る。弟の和之は入るのをちょっとためらい、インド人のほうを振り向いた。
「くれぐれも義姉を驚かすようなことはしないでください」と和之はインド人に懇願した。「これまでの心労で、ただでさえ心臓が参っているのです」
「わかっています」インド人はうなずいた。「だからこそ、ここにも奥さんでなく、貴方に来てもらったのです」

 小屋の中は暗く、すえたような臭いが籠っていた。四人の他には観客はいなかった。狭い小屋の奥に蝋燭が据えられ、その頼りない炎に照らされて、それは見えた。
 それは大きな鳥籠だった。
 オウムを入れるような大きな鳥籠に、鳥でなく、人間が入れられていた。
 まだあどけない顔だちの少女だった。
 それが、全裸だった。
 胸はまだ発育しきっていない。わずかにふくらみかけた程度である。陰毛はまだ生えていないのか、それとも剃られたのか。
 肌はやや黄色みがかった白だ。白かった、と言うべきか。少女は長いこと身体を洗っていない様子で、髪の毛は油じみて固まり、肌には垢の固まりがそちこちにこびりついていた。しかし、インドの女性の肌ではない。あきらかに民族の違う、東洋人の肌だ。
 少女は観客にも反応せず、なにも考えていないうつろな目つきで、呆然と目を開いているのみだった。
 なにも考えていないほうが幸いだったかもしれない。
 少女には四肢がなかった。
 そして鳥籠に押し込められていたのだ。

「ガンジャ、いや、ヘロインか……麻薬を打たれている様子ですね」
 インド人がささやいた。「どうでしょう、お探しの……」
 和之は少女を正視できず、前に立っている兄だけを見ていた。兄はひたすらに目の前を見据えている。身じろぎもせずに。
 やがて、ふり絞るような呻き声が和之に聞こえてきた。
「…………あおい!」


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