匕(さじ)は投げられた

「ドイツ軍に占領されていた頃は楽しかった。あの頃は、死なないことだけを考えていればよかった。縛られていることは楽なんじゃ。自由ほど苦しいものはない」
 と「地下鉄のサジ」の老人は語ったが、どうやら雑文祭もそんなところがあるようだ。この雑文祭、参加文を考えるのがものすごくつらかった。だいたいうちの辞書じゃ匕がなぜか変換できないし。

 漢の前期の頃、しきりに北方の版図を匈奴が侵略していた。漢の文帝、その名を劉恒という。彼はこの事態を深く憂えていた。群臣を招いて会食していたときのこと。皇帝は、
「北方の蛮族どもは我が国を侮っておる。塞の兵士どもは俸給も安く、威容がないありさまである」
 と語った。そして飯を食っていた匕をかかげ、
「しかし、いまやわが国の兵は数かぎりなく意気高く、馬は肥え矢は鋭い。朕が百万の兵を率いてゆけば武器などいらぬ。百万の兵がこの匕を振りかざしただけで、匈奴どもは恐れおののき降伏するであろう。どうじゃ、匕の文字を折りこんで詩でも作ってみぬか」
 と豪語してあたりを見回した。
 右丞相の周勃以下、みな下を向いてなにも答えなかったが、なかで陳平だけは、紙と筆をもち文帝の前に立ち、さらさらと何か書きつけると、それを投げ出すようにして席を立って去った。その紙には、こう書いてあった。

此花死旨死花旨北化此北匙化匙
     左丞相(さじょうしょう)陳平

 いったいどういう意味なのか、文帝も群臣もみな首をひねって考え込んでいたが、末座から進みでた太中大夫の賈誼は、
「これは匕を含む匕文字をそれぞれ音読みと訓読みで読む詩でございます。すなわち、」

このはなし うましかしき たばけ ひほくひ けさじ (この話 馬鹿しき戯け 飛北費 消さじ)

「つまり、まだ匈奴を攻めるべき時は来たらず、まして彼らを侮るなどあってはならぬこと。もしも攻めたなら、その費えはおそろしいものとなり、漢の国を破るものとなりましょう。決して軍費を消費してはならぬ、と帝に諫言しているのであります。陛下、なにとぞお考え直しのほどを」
 と語った。
 文帝もふたりの賢人の諫言をうけて意見をあらため、のちの武帝まで国力を涵養することにつとめたという。

 のちに賈誼はある人から、
「しかし、なんだって丞相は、日本の、しかも後代の読みなど使っていたんだ?」と訊ねられたが、
「わが国の悠久の歴史にとっては、数千里や数百年の違いなど些事。二個だ。割るようにして、漢字を二個づつ使うことが、あの場合大切なのだ。つまり陽と陰。中央と辺境。 二つづつあるから安定するのだ。匈奴がなくなったら、漢もまた滅びるのだ」
 と語った。
 賈誼はこの事件で文帝に認められ、皇子の師傅となって「劉恒はお利口」「周勃の週末」「桃太郎・海の陳平」などを書いた。しかし皇子が落馬して死んだため、監督不行届の責任を感じ、部屋に閉じこもったまま絶食して餓死したという。ちなみにこの故事から、昭和四十年代、部屋に閉じこもりがちな子供を「賈誼っ子」と呼ぶようになった。


第匕回雑文祭
・タイトルは「匕(さじ)は投げられた」とする。
・「些事にこだわる」「すくいようがない」を文中に含む。
・「匙」「化」「北」「比」「旨」「花」「死」のいずれかの漢字を使用した格言をでっち上げ、「さじ」という音を含む名前の人が言ったことにする。
・文中に含む語句については、漢字をひらいてはいけないが、ひらがなを漢字に直すのはよい。


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