経験は死線を越えて

 歴史上の人物について調べていると、命冥加な奴、というか、不思議にも死なずにすむ奴というのがいる。生きててよかったね、という祝福を通り越して、なんでおまえはこんだけあぶないところにいて死なねーんだよっ、と怒鳴りつけたくなるような奴。北畠治房という男は、きっとそのひとりだ。

 北畠という姓は明治になって名乗ったもので、本名は平岡鳩平。大和の法隆寺に住む寺侍の次男だ。南朝に味方したり伊勢の守護大名をやったりした北畠一族とはなんの血のつながりもない。もっとも本人は、どうやら北畠の末裔だと固く信じていたらしい。なにしろ頑固で狂信的な性格なのだ。伴林光平に国学を学び、さらに過激な攘夷思想を信じこむ。けがらわしい外国人を一歩たりとも神州に入れてはならぬ、開国などして日本を汚そうとする幕府は即刻倒すべし、という思想を。
 若いころは「煙管屋鳩平」と呼ばれていたことから、どうやら煙管や煙草をあきなっていたらしい。かなり裕福だったらしい。村の若い者五十名ほどを集めて養ったり、十津川の過激浪人たちの資金援助をしていた。
 この、頑固で過激な性格、と、商売上手交渉上手、という相反するふたつの性格が鳩平生涯の特徴である。これによって、風雲の中、死ぬこともなく、裏切り者とも変節漢とも呼ばれることなく生きのびた。客観的にみると変節や裏切りとしか思えない行動があるんだが、誰もそれを非難しなかったってのは、見た目の頑固さで得をしているとしか思えない。

 やがて大和に天誅組の変が起こる。鳩平はもちろん、師の伴林光平や親友の青木精一郎(のちの三枝蓊)、乾十郎らとともに参加。天誅組では勘定方をつとめた。やはり金勘定に明るいところが認められたらしい。
 五条代官所を制圧して意気あがったのもつかのま。頼みの長州藩が薩摩と会津のクーデターにより失脚したため、孤軍となって周囲諸藩の軍勢に惨敗。総督の中山忠光は逃亡。主魁の吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂以下ほとんどのメンバーが戦死。伴林光平や乾十郎は敗走中に捕らえられて斬首される。かろうじて、鳩平と青木精一郎は難をのがれ、大阪や京都に潜伏する。

 しかし不屈の鳩平は、かねてから旧知の水戸藩士・大場一心斎や橋本若狭らと策をめぐらし、水戸天狗党の乱に参加する。私の知る限り、天誅組と天狗党の両方に参加したことのある人物は、この男ただひとり。なにしろどちらのいくさも、死亡率五十パーセントを軽く超える、ひとつだけの参加で十分死ねるイベントなのだ。それをふたつも参加する奴なんて、そうそういない。あなたはガダルカナルとインパールの両方に参加した兵隊さんを知っているか。
 もっとも天狗党の乱では、早々に戦線から離脱したらしい。おそらく天狗党の目標が「横浜へ出て攘夷をおこなう」から「水戸藩の佐幕方因循俗吏を倒す」に変換したとき、他の多くの他藩出身参加者とともに離脱したのだろう。だからこちらでは、苦難の山中行軍も恐怖のニシン藏幽閉も経験していない。もし経験したら、さすがの鳩平だってひとたまりもなかったとは思うが。

 水戸藩頼むに足りずと思った鳩平は、こんどはふたたび同盟を組んだ薩摩・長州へ行き、また兵をかきあつめて忠勇隊なる組織をこしらえる。金で集めたのではないか、という気がする。やがて明治維新。戊辰戦争では東征大総督有栖川宮の護衛を勤める。歴戦の勇士だった割には、前線に出ていない。あまり軍事能力は評価されなかったのだろう。このころ、大河内潜と名乗って神奈川で武器の買いつけをやっていたこともあるらしい。やはり金勘定の面が評価されているのだ。

 明治の代になって、第三の危機が訪れる。
 明治政府は尊皇攘夷の方針を捨て、外国との交流、いわゆる洋化政策を行うことにしたのだ。
 尊皇攘夷をあくまで固く信じていた、鳩平ら国学者系の志士にとっては大きなショックであった。現にこのとき、鳩平の同志だった三枝蓊は英国公使パークスに斬りつけて斬首され、岩倉具視の参謀だった玉松操は憤慨して職を捨てている。
 しかし鳩平は、死をもって志に殉じることも、職を捨て操を立てることもしなかった。

 ただし、なにしろ頑固で口うるさい性格だ。過激な尊皇攘夷論を吐いてまわり、ただ論を吐いてまわるだけならまだいいが、長崎で外国人の家に火をつけてまわったりもしたらしい。なぜ罪に問われなかったのかふしぎでならないが、明治政府もこれにはてこずったらしい。とりあえず司法省に放りこみ、中議生や権小判事などの職をあたえて懐柔につとめる。
 そのころの司法省は、梁山泊だった。
 陸海軍、内務省、大蔵省などの重要な役所は薩長の藩閥でがっちり固めている。土佐や佐賀などの二流どころの藩閥、さらにそれ以下の小藩や無所属は、司法や文部などの二流どころの役所に放りこまれた。
 なかでも司法省は、司法卿の江藤新平や山中一郎などの佐賀人、福岡孝弟や島本仲道や大江卓などの土佐人を中心に、肥後の井上毅、薩摩の樺山資綱などなど、全国から「頭のいいうるさがた」を集めてきた感があった。
 平岡鳩平、改め、北畠治房は、この司法省の風土にぴったりの人材だった。

 やがて小野組事件が起こる。
 当時の京都の支配者は、参事の槙村正直だった。長州藩出身で木戸孝允の親友。その権力をいいことに、中央政府の指示など聞こうとはしない。京都はよほどむずかしい地方だと思い、司法卿の江藤新平が京都の裁判所長に任命したのが、北畠治房だった。
 当時小野組は、商売の中心が東京に移っていたため、本社も東京に移転しようとし、転籍願書を出した。ところがこれを槙村参事は握りつぶす。京都の産業が衰えることを心配してのことだが、むろん知事にも参事にもそんな権限などない。
 小野組は怒ってこれを裁判所に訴えた。北畠治房は長州閥の圧力も京都府のイヤガラセもものともせず、原告の小野組の勝訴とし、京都府知事・参事を懲役刑に処す。大名より偉いと思われた知事や参事が牢屋に入れられるという事態に国民は驚いた。これも江藤新平の「法の前の平等」と知らしめる実物教育だった。
 しかしこれは政権闘争のからむ泥仕合と化し、やがて征韓論に破れた江藤新平は辞職。のち山中一郎らとともに佐賀の乱をおこして斬首される。太政大臣岩倉具視の命令で槙村らは釈放。これに怒った福岡・樺山・島本らは辞職。しかし北畠治房だけは死ぬことも辞職もせず、京都、東京、神奈川の裁判所長を歴任する。

 その後は江藤と同じ佐賀の大隈重信や、薩摩の五代友厚と親しかったらしい。相変わらずカネがからんでいそうなところが面白い。明治十四年の大隈重信失脚のときには、江藤新平のときほどうまくいかず、連座辞職している。しかし明治二十年にはふたたび司法省に返り咲き、あとは大隈の早稲田大学設立に参加したり男爵になったり貴族院議員になったりしながら、やがて法隆寺に隠居。ヒゲの見事な名物爺さん、法隆寺の頑固爺として、北畠親房の墓を探し回ったり法隆寺再建論争に参加して喜田貞吉を怒鳴りまくったりしながら長々と生き、大正十年に八十九歳で死去。ちなみに奥さんはすげー美人だったらしい。

 司馬遼太郎は同志だった乾十郎や三枝蓊、吉村寅太郎や玉松操や江藤新平のことは主人公として小説に書いているのに、この北畠治房は主人公になったことがない。やっぱこういう、のめのめと生きちゃうタイプって、書きにくかったんだろうなあ。


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