三寿庵

「そういえば、おまえと同じ国の奴らを、こないだセビリアで見かけたぞ」
 ニーナが突然そんなことを言い出したので、マストにロープを縛りつけようとしていた安之進は思わず手がすべり、帆柱のひとつがニーナの頭に降ってきた。
「ひい」
「まさか、そんなところまで日本人が」
「痛いってば……いや、なんでもスペイン国王に親書を渡すというので、ダンテとかかいう国王の家来を、フランシスコ会のソテロって神父が連れて」
「それはたぶん伊達だ」
「ダッテ?」

「しかし、なんだって伊達がいまさら」
 安之進は考えこんだ。安之進はむかし上杉に密書を送ったとき、伊達領にも潜入したことがあった。どこの村でも、領主様のもとで農民が奴隷のように暮らしていた。上方よりはたっぷり五十年は遅れている印象だった。
 しかし、その生活の苦しさのせいだろうか、意外とキリシタンが多かった。関ヶ原のとき、キリシタン百姓を扇動して伊達領で一揆を起こさせようとしたのだが、それよりも前、あっという間に西軍が負けてしまったので、どうしようもなかった。
「たしかに伊達の家来にもキリシタンが多いが」
 伊達政宗はキリシタンの信仰も布教も許していたが、自分はキリシタンではなかった。天正十五年、秀吉がキリシタンを禁じ、伴天連追放令を出したとき、さっさと教会を壊してみせたことでもわかる。そのあと禁教令はなしくずしになり、また教会も建てられた。
 しかし伊達政宗はキリスト教に好意をもっているわけではなく、キリスト教徒が船に載せてもってくる鉄砲が好きなだけだと、たれもが理解していた。キリスト教国との貿易がしたいだけなのだ、と。
「その伊達が、なぜ」
 苦労してはるばるとヨーロッパまで使節を送るようなことをしたのか。貿易だけではなく、なにか別な魂胆を秘めているのか。

 数日後、ニーナの家を、四人の人間がたずねてきた。そのうち三人は、日本人だった。
 目立たないようにという配慮だろう、神父の灰色の衣に身を包み、黒い羅紗のマントを羽織っているが、東洋人がそんな恰好だからかえって目立っている。おまけに神父のように髪を剃りこぼす勇気はなかったのだろう、丁髷をほどいてざんばらにしただけだから、よけいに珍妙である。連れているポルトガル人は商人の恰好をしている。
 珍妙な日本人が三人も揃ってこの港にやってきたものだから、暇な水夫が見物に出るわ、子供が石を投げるわ、えらい騒ぎになっていた。それでも周りを見むきもせず、毅然として立っている姿には威厳があった。
 ポルトガル商人は通訳らしく、先頭になってニーナの家に入り、まずラテン語で話しかけたが、ニーナには高尚な公用語は通じないとみるや、ジェノヴァ方言にきりかえた。
「こちらに、ホリカワ・ヤスノシン様はおられるでしょうか」
「ホリカワ? ……ああ、ヤスのことか。ヤスなら船に寝泊まりしてるぞ」
 ニーナの案内で、日本人たちは安之進のもとに出向いていった。

「堀川安之進どのですな」
 通訳をまじえず、日本人のひとりが話しかける。
「そうですが……あなたは?」
 ひさしぶりに聞く日本語にむず痒いような気分を感じながら、安之進も日本語で応じた。
「失敬。わたくしは丹波八木領主、のち前田家に身を寄せておりました、内藤寿庵と申します。堀川どのにはお世話になりました」
 もっとも年かさの男が頭を下げた。
「ああ、内藤様でしたか」
 かつて安之進は、国安叔父とともに徳川打倒を策し、日本各地を遍歴したことがある。高山右近と親しいキリシタン大名の内藤寿庵(如安ともいう)には、石田三成からの密書をなんどか届けたことがある。
「あのときはご迷惑をおかけしました」
「いえ、いずれは取り潰される運命でしたから」
 内藤寿庵は苦笑した。
「わたしは村山寿庵。長崎代官・村山等庵の倅にございます」
 もっとも若い男が自己紹介した。
「実は内藤どのは、高山どのとともに、キリシタンの咎で日本から追放になりました。わたしは父の船でおふたりをマニラに送りとどけたのですが、そこでこの方と出会い、相談のすえ、内藤どのとわたしはこの方とともにここまで参りました」
 村山寿庵は、三人目の日本人のほうを振りむいた。

「私は伊達家家中、福原領主、後藤寿庵です。じつは私も堀川殿には、むかしお会いしたことがございます」
「?」
「あのとき私は、肥前の五島におりました」
「ああ、あのときの岩渕さま」
 五島も豊臣恩顧の大名だったので、安之進と国安は三成の密命をうけ、さまざまに工作した。そのとき、キリシタン武士の岩渕ジュアンという男と会ったことがある。
「あの島を出てから五島、のち後藤とあらためました」
 関ヶ原ののち京で布教をおこなっていたとき、同じキリシタンの支倉常長と知り合い、その縁で伊達家につかえることになったという。

「実はその支倉、このたび伊達陸奥守(政宗)どのの使節として、イスパニア国王、ローマ法王への親書をたずさえております」
「法王にもですか」
 政宗の狙いはいったい何なのだろう。
「おもてむきはキリシタンの親善、交易の振興ですが、これにはじつは容易ならぬ裏があり、そのことでお願いしたき儀があり、私もひそかに同行してこちらに参上しました」
「お願い?」
「帰途につくわれわれの船を、あなたがた海賊に襲っていただきたい」
「ちょっと待ってくれ」
 いきなり突拍子もないことを願われて面食らった安之進だったが、その裏事情というのを聞いて、ますます驚いた。

「これはニーナの海賊船だから、ニーナにも聞いてもらおう」
 ということで通訳をまじえ、ジェノヴァ方言で会話をすすめることになった。ポルトガル商人は後藤寿庵の話を聞き、やがて話しはじめた。
「マサムネからスペイン国王、ローマ法王に渡す親書には、表向きのものと、堅く筐底に秘めてだれも見たことのない裏の親書と、ふたつあります。その裏の親書は、マサムネがトクガワを倒すクーデターの計画書なのです」
「クーデターだって?!」
「さよう、まさに謀反」
 後藤寿庵はうなずいた。

 いま、徳川家は旧主豊臣家を潰そうとしている。豊臣家も対抗して、牢人を大量に召し抱え、豊臣恩顧の加藤、福島、毛利などの大名を勧誘している。江戸と大阪は手切れ間近、いつ戦が起きてもおかしくない情勢である。
 おそらく豊臣家は徳川家に滅ぼされようが、大阪での戦のため、江戸は手薄になっているだろう。その機に乗じて、伊達政宗は兵をおこす。東北の兵をこぞって江戸を攻め、スペインからの援軍とはさみうちで関東を制圧し、余勢をかって大阪の徳川軍をいっきに蹴散らし、天下を統一する。
 戦後は徳川家康の第六子、上総介忠輝を征夷大将軍として立てるが、伊達政宗は管領として実権をすべて握る。その下で大久保長安が執権として政務をとる。また、奥州に司教区をつくり、ソテロが司教となって日本のキリシタンを総轄する。
 裏の親書にはこの計画とともに、スペイン国王への援軍と武器援助の要請、法王へ東北司教区創設願いが書かれているというのだ。成功した暁には、いま大久保長安が掘っている、佐渡のおびただしい黄金をお礼として献上するという言葉とともに。

「それは、あなたたちキリシタンにとっては、いい計画なんじゃないですか」
 安之進は反問した。
「成功するとは思えません」
 後藤寿庵にささやかれた商人は通訳した。
「失敗したら、クリスチャンへの弾圧はますます厳しくなるでしょう」
 村山寿庵になにか言われ、また商人は通訳した。
「おそらくジュアン内藤のような追放どころか、磔刑か火あぶりか」
 内藤寿庵に沈痛な表情で語られ、商人はまたまた通訳した。
「私たちは考えました。この計画を阻止し、なおかつ、日本で苦しんでいるクリスチャンを救うことはできないものかと。そこで思いついたのです。援軍や武器を載せたスペイン船を奪い、その船にクリスチャンを乗せて外国に逃がそうと。もしもあなたがたがスペイン船を奪ったら、お礼に金千枚なんかどうでしょう」
「おい、金千枚ってどのくらいなんだ」
 ニーナは小声で安之進にささやく。
「そうだな、ダカット金貨にして、ざっと四万枚ってとこか」
「よ、よ、よ、よ、四万枚?!」
 ニーナは椅子からひっくり返った。
「われわれは大久保長安のような大金持ちではありませんが、日本クリスチャンを糾合すれば、そのくらい出すことはできます。神父の命、二十人分ですからな」
 商人は自分が金を出すようなおごそかな表情で言った。

 別室にさがり、ニーナと安之進は相談した。
「……さて、どうする」
 安之進は腕組みをした。
「どうするもこうするもないだろ。なんせ金貨四万枚だぞ四万枚」
 ニーナはわめいた。
「そんなに血が昇ってどうする」安之進は苦笑した。
「相手はスペイン軍だぞ。まともにいって勝てる相手じゃない。失敗すると面倒くさいことになる」
「だって四万枚」
「わかったって」安之進は笑いだした。
「やるにしたって、よほどの計略が必要だ。人数も足りない。ほかの海賊どもにも声をかける必要があるな」
「えっ、四万枚をひとりじめしないのか」
「無理だよそれは。だれか、信用できそうな奴はいないか」
「そうだな……ゴール・ダモッタって奴がいる。金で動くやつだが、いちど契約したら律儀なやつだ。めっぽう丈夫で、毎日海に出ているくらいだ」

 その数ヶ月後のことである。
 支倉常長はスペイン国王に謁見し、伊達政宗の親書を手渡した。
 支倉使節はそのまま半年以上スペインにとどまったが、ひそかにセビリアを出航した二隻の船がある。船はローマで数日停泊したのち、地中海を抜けて猛スピードで東洋に向かった。一隻の船には支倉の密使として三人の寿庵が乗りこみ、もう一隻の船にはひそかにスペイン兵三百名と、鉄砲千丁、それに大砲と火薬が積んであった。

 二隻の船が明日にもマニラに着くという夜。
 船内でなにやら騒ぎが起こっている。
 兵士たちはずっと機嫌がよくなかった。
 おもに食い物が原因である。
 その夜も数人の兵士が、船のコックをつるしあげていた。
「コックは誰だよ!」
「あたし、いや、おれなんだけど」
「なんなんだよ、この船の食い物は!」
「武士が兵糧のうまいまずいをいっちゃいけないなあ」
「誰が武士だよ! パンはかちかちだし、チーズは蛆がわいてるし、それになんだよこの肉は!」
「あ、それ、イルカ」
 まだ髭もない、妙に小柄なコックは、倍くらいの兵士に胸ぐらをつかまれながらも、にやにや笑っている。
「イルカなんか食わすなよ!」
「いや、おとといは海老、きのうはイワシ、きょうはイルカ。食物連鎖ですから」
「わかんねーよ意味が! てめーはたんぽぽ娘かよ!」
「お前、ツッコミが爆笑の田中みたいだぞ」
「いーんだよそんなことは!」
 そこへ突如として、大砲の爆撃音がとどろく。
「敵襲だ!」
「海賊船だ!」
「見張りは何をしてたんだ!」
 あわてふためいて船内を右往左往する兵士。その兵士たちに、妙に筋肉の発達した水夫たちが襲いかかる。
「裏切りだ!」
「スパイだ!」
 何がなんだかわからないまま、ほとんどの兵士は銃を撃つことも剣を抜くこともできず、逃げまどうのみ。
 そして海賊船が接舷し、海賊どもがわらわらと乗りこんでくる。
 やがて小型ボートが降ろされると、多くの兵士は抵抗もせず、われさきにボートに乗りこみ、もう一隻の船に向けて逃げだす。なぜか海賊船は、ボートを攻撃しようとはしなかった。
 世界に冠たるスペイン軍兵士は、あらかじめコックに化けて潜入していたニーナの料理で胃もたれを起こしていたうえ、水夫に化けて潜入していたゴール・ダモッタの配下たちにより混乱させられ、残りの海賊をひきいて攻撃してきた安之進の船にあっさりと船を乗っ取られてしまったのである。
 逃げだした兵士たちを収容した船は、海賊船にむけ砲撃した。しかし、それは空砲だった。二十一回の爆音がとどろいたが、砲弾はひとつも飛ばなかった。
 二十一回の空砲――それは礼砲だった。

 その直後、大阪夏の陣は終わり、豊臣家は滅亡。徳川家は唯一無二の日本の支配者となった。徳川忠輝が伊達とともに内応するという噂が飛んだこともあったが、どちらも家康の命で陣中にとどめられており、けっきょくは何も起こらなかった。忠輝はその翌年、さほどの理由もなく改易。大久保長安は夏の陣の前年すでに死んでいた。死後、曖昧な理由で罪人とされ、一族すべて死罪となる。その後の政宗はひたすら、徳川幕府の鼻息をうかがうことにつとめる。
 支倉常長の使節団は夏の陣の四年後、ようやく帰国。すでにキリシタン禁教が固まっていたこともあり、なにも得ることのない使節だった。
 それにともない、三人の寿庵の運命も転変する。
 内藤寿庵は南蛮船でふたたびマニラに戻り、高山右近の死をみとる。そののち妹の作った日本人修道女会で養われ、一六二六年に死去。
 村山寿庵は大阪に入城し、夏の陣で落城とともに死去。と歴史書にはあるが、実際には、入城していた数多くのキリシタンとともに逃れ、摂津沖から南蛮船に乗って南方へ去っていったという。
 後藤寿庵はその後も伊達政宗の家臣として福原を治めていたが、一六二三年、政宗が領内の切支丹禁教令を布告すると、それに従うことができず、福原を去る。のち南部領に入り、宮古の港で、どこからかやってきた南蛮船に乗って、数多くのキリシタンとともに、いずこかへ去ったと伝えられる。
 三人の寿庵は、マニラでふたたび相まみえたのかもしれない。

 肥前には、かくれキリシタンの間でひそかに歌われていたという童謡、「さんじゅあんさまのうた」が残されている。島原の乱のころに作られたとも、もっと前から歌われていたともいわれ、製作年代は定かではない。

前もなあ 後ろもなあ 潮のみちみちたらあ
前もなあ 後ろもなあ 潮であかずるやなあ
いまこの春はな 散り朽ちる花だぞやなあ
また来る春はな 蕾ひらくる花だぞやなあ
ああ参ろやな 参ろやなあ
ぱらいその国にぞ参ろうやなあ
ああ参ろやな 参ろやなあ
さんじゅあんさまと参ろうやなあ

 この歌に登場する「さんじゅあんさま」は通説によると聖ヨハネとされているが、ヨハネは戦国・江戸期には「さんじゅわんさま」と表記されるのが常であり、あきらかに別人のことである。一六二四年に殉教した聖ジョアン坂本という説もあるが、それも「さんじょあんさま」と呼ぶべきだろう。おそらく「さんじゅあんさま」は、後藤寿庵・村山寿庵・内藤寿庵の三寿庵のことであろう。
 また、かくれキリシタンの島として有名な肥前生月島では、いまも特異な正月料理が並ぶが、そこで用いられる餅は聖餅のように薄く丸く切られ、それに「さんじゅあんさまの水」と称する潮水をかける習慣になっている。これは「さんじゅあんさま」が海と密接なつながりを持つ、なによりの証拠であろう。
 日本にとり残され、宗教弾圧に苦しむ、かくれキリシタンたちは、いつか三寿庵さまがふたたび現れ、かれらを船に乗せ、はるか潮のかなた、きりしたんの国へ導いてくれることを夢み、その願いを童謡に託してひそかに歌い継いでいったのである。

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