ユダとイエスの物語

 新約聖書はユダとイエスの物語である。

 同様大学の誰何教授は、要素分析法を用いてこの結論にたどりついた。
 要素分析法とは、物語を要素単位に分解してそれぞれを解析する手法で、神話伝説や童話の分析によく用いられる手法である。
 たとえば、「イエスは彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになった」という文章は、(イエスは)(盲人の目に)(さわった)。(盲人は)(言えるようになった)。という要素に分割できる。
 さらに、「イエスは中風の人に起きて、寝床をたたんで、家に帰りなさいと命じられた。すると寝たきりだった中風の人は、起きあがり、寝床をたたんで、出ていった」という文章は(イエスは)(中風の人に)(立てと命じた)。(中風の人は)(立った)。という要素に分割できる。そして、このふたつの文章は、(イエスは)(障碍者に)(行為した)。(障碍者は)(癒された)。という、「癒し」の機能として分類されることになる。
 誰何教授の分析によると、新約聖書の福音書には、十九の機能しかない。「欠乏」「充足」「障碍」「癒し」「教示」「反論」「罪」「罰」「祈り」「赦し」「疑惑」「信仰」「恐怖」「安心」「欲望」「裏切り」「誕生」「死」「復活」である。

 誰何教授はさらに進んで、それぞれの要素が物語にどう影響しているかを解析しようとした。福音書を要素単位に分割し、そのうち二十の要素のパラメータを変動させることによって、物語がどう変わっていくかをシミュレーションしてみたのである。
 そのために、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書をコンピュータに入力した。言語による文化的バイアスを排除するため、それぞれ、日本語、ラテン語、ギリシア語、中国語、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、エスペラント語、スペイン語、ポルトガル語、アラビア語、コプト語、楔形文字、甲骨文字、キープ、長嶋語などの言語によるバージョンを入力した。また歴史的バイアスも排除するため、現代版の聖書だけでなく、アウグスティヌスの聖書、ユリアヌスの書き込みがある聖書、死海文書の聖書、敦煌の聖書、カール大帝の屍とともに発見された聖書、コロンブスの聖書、エラスムス訳の聖書、ルターの聖書、カルヴィンの聖書、ナポレオンの聖書、トルストイの聖書、ナチスドイツの聖書、ポルポト聖書、織田信長の求めに応じてルイス・フロイスが書き下ろした聖書、天草四郎所持の聖書、近藤勇を狙撃した阿部十郎が持っていた聖書、仮名垣魯文・作、河鍋暁斎・画の「新薬精藷」、東北の隠れキリシタンの末裔と推定されるうすばかが持っていた聖書、文鮮明の聖書、オウム真理教の聖書、幸福の科学の聖書、人民寺院の聖書、チャールズマンソンの聖書、ロボット聖書、アンドロイド聖書など、さまざまな歴史的バージョンも入力した。
 これらすべての福音書の物語を要素分解し、二十のパラメータを変動させた結果、124352のストーリーが発生した。そのうち内容が重複しているものを除き、32225の物語が得られた。

 「まず驚いたのは、イエスとユダの役割が完全に交換可能なことである」と誰何教授は語る。
 たとえば物語13229は、いまの「マタイの福音書」と完全に対称的である。ユダは数々の奇跡を起こしながら人々に教えさとすが、使徒イエスは銀貨三十枚でユダをカヤパに売る。ユダは磔刑にされて死ぬが三日後に復活し、イエスは首をくくって死ぬ。
 そして物語4691と物語28443は、通称「花咲爺の福音書」と呼ばれている。物語4691では、ユダは死んだラザロを焼いた灰を撒き、枯れ木に花を咲かせてピラト総督のおほめにあずかり、銀貨三十枚の褒美をもらう。ユダをうらやんだイエスはマグダラのマリアの灰を撒いたが失敗し、磔にされて死ぬ。物語28443は、イエスが正直爺さん、ユダが悪い爺さんになっているだけで、その他の内容はまったく同じである。同様に、「イエスは山に芝刈りに、ユダは川に洗濯に」と語る物語7122には物語30291が、「銀貨三十枚に目がくらみ、操を捨てた売女め」とユダがイエスを蹴倒す物語10045には物語22496がそれぞれ対称する。
 「すべての物語に、イエスとユダの役割を交換しただけの対称的バージョンが存在する。つまり、もともとの福音書でも、イエスとユダは交換可能だったということだ。おそらく初期キリスト教では、ユダが救世主でイエスが裏切り者だった宗派もあるのではないだろうか。きっとその宗派は、ミトラ教やマニ教やグノーシス派やカタリ派のように、闇に葬られたのだろう」と誰何教授は語る。

 「さらに驚いたことは、イエスとユダ以外の登場人物が、物語にまったく関与していないということだ」と誰何教授は語る。
 イエスが捕らえられてから磔刑に処されるまでに、使徒ペテロが三度イエスを否定するというところがある。誰何教授はこの部分をパラメータ化し、肯定させたり十回否定させたり百回否定させたりと変化させてみた。さらに人物もペテロではなくヤコブ、アンドレ、ヨハネ、さらにはマグダラのマリアやカヤパやバラバにさえ変えてみた。しかし、「事実上、物語にはまったく影響しなかった。ただひとつ、ユダが否定する場合にのみ、物語は大幅に変化した」。
 イエスとユダ以外の登場人物がまったく物語にとって無価値であることを、物語3411が別な角度から証明している。これは「猿蟹の福音書」と呼ばれ、柿を盗んだイエスにユダが復讐する物語である。本来ならユダの復讐に臼、蜂、栗が味方するはずなのだが、キャラクターが足りずに牛の糞しか登場しない。ユダにひたすら牛の糞を投げつけられたイエスは臭い臭いと泣きながら逃げていく結末になっている。
 「イエスとユダ以外の登場人物は、いちど要素に分解されてしまうと、もはやジッパヒトカラゲの牛の糞でしかない、ということだ」と誰何教授は語る。

 「つまり」と誰何教授は結論を語る。
「イエスとユダを統合するものが神だ。三位一体というよりも、イエスとユダの二位一体が新約聖書の構造をなしている。そして、イエスとユダは神の前では同じものだ。この隠された神学を確認し、イエス=ユダを認めることによってのみ、キリスト教は救われるのではないだろうか」
 バチカンはこの提言に対し、公式にはなにも答えていない。


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