災厄のハレー彗星

 アイザック・アシモフの科学エッセイ「未知のX」(ハヤカワ文庫)は、1984年、ハレー彗星の出現の2年前に書かれている。そこで当然のごとくハレー彗星について言及し、ついでに彗星が災厄をもたらすという迷信に便乗して、ハレー彗星の出現時期ごとに起こった災厄を列挙している。むろん、「ハレー彗星がなかったときも同じように災厄は起こっていた」との注釈をつけてだが。
 残念なことにアシモフの記述はローマやキリスト教など、欧米の歴史に偏している。ということで日本編を作ってみた。

 218年。日本がようやく中国の文献にあらわれた時代である。邪馬台国では卑弥呼のもと、着々と周囲の小部族国家を征服していた。このころ中国では後漢がほろび、代わって興った魏と、邪馬台国は親善を深める政策をとる。隣の大国をバックに、日本の征服をたくらんでいたのだ。小部族国家にとってはまさに災厄であった。

 295年。このころは文献が残っていない。というのも中国では魏はとうに滅び、それにかわる晋も内乱が起こっていたからだ。邪馬台国の卑弥呼は死に、代わって女王となった壱与もどうなっていたかわからない。おそらくはろくなことが起こらなかったであろう。きっと災厄があったに違いない。

 374年。この5年前には、日本軍が百済と連合して朝鮮半島に出兵、任那を領有し日本府を設立している。これは逆の話で、むしろ任那の人間が日本を征服して大和朝廷をつくりあげたのだという人もある。いずれにせよ、日本と朝鮮半島の不幸な関係のはじまりである。これを災厄と言わずしてなんと言おう。

 451年。このころはいわゆる「倭の五王」の時代である。済(允恭天皇?)が王であった。おそらくは朝鮮半島起源のかれら天孫族の大和朝廷は、畿内の豪族、葛城や巨勢など地生えの勢力をつぎつぎと潰していった。豪族にとってはまさに災厄の時代である。

 530年。このころ大和朝廷は分裂していた。武烈天皇を最後に天孫族の嫡流は絶え、越前の豪族が継体天皇を名乗って近江に朝廷をつくる。しかしこの朝廷を認めた豪族は大伴など少数で、平群ははっきりと敵対、蘇我や物部は日和見だった。九州では磐井の乱が勃発。やがてこの翌年、継体反対派は欽明天皇を擁立。欽明の子供、安閑天皇や宣化天皇との二朝対立が続く。磐井もへたをすると天皇を名乗りかねない情勢だった。戦乱の絶えない、災厄の時代であった。

 607年。このころ天皇家は蘇我氏の勢力に押され、存亡の危機にあった。推古天皇の摂政、聖徳太子は、蘇我馬子と表向きは協調していたが、いつ決裂するかわからない緊張した関係だった。この年、太子は小野妹子を中国の隋へ派遣する。親百済政策をとる蘇我馬子に対抗して、朝鮮の頭越しに中国と親しくしようとしたのだ。いくさこそなかったが。災厄の予感をはらんだ時代であった。

 684年。大和朝廷をまっぷたつに割った壬申の乱から12年、ようやく戦の傷跡も癒えたころであったが、天武天皇の老衰とともに、新たな災厄の予感がおこりつつあった。後継者争いである。天武天皇の后(のちの持統天皇)は実子の草壁皇子を天皇にしようとするが、大勢は病弱な草壁皇子よりも強健で頭のいい大津皇子を好んだ。この翌年、天武天皇は病に倒れる。四年後の天武の死、それにつづく大津皇子の殺害という、血塗られた災厄を彗星は予言していたのだろうか。

 760年。藤原仲麻呂の全盛期である。この2年前に即位した淳仁天皇から恵美押勝という名前をいただいた仲麻呂は、独裁政治をおこなっていた。3年前に橘奈良麻呂は無実の叛乱罪で捕らえられ、これが有罪者443人という一大疑獄へと発展した。あたかもスターリン時代のレニングラード事件のような粛清の嵐が吹き荒れていた。地方では地震、天然痘、飢饉がはびこり、まさに災厄の時代であった。

 837年。律令政治が崩れかかってきた時代である。9年前を最後に班田収受は行われず、田地のほとんどは貴族か寺の所有となっていた。蔵人や検非違使など、律令にない役職が羽振りをきかせるようにもなっていた。天皇親政は有名無実となり、藤原氏が政権を握るようになっていた。この5年後には承和の変が起こり、藤原氏以外の貴族と、藤原氏の妃以外から生まれた皇子は、政界から追放される。そしてこの2年前、空海が死去。これほどの災厄はあるまい。

 912年。醍醐天皇のもと延喜の善政を謳われた時代であったが、その裏には災厄の予感がみちみちていた。藤原氏専制はますます強まり、10年前の菅原道真の左遷とともに対抗勢力は消滅した。この5年前に唐は滅び、8年後には渤海との交流が絶え、日本は孤立していた。地方では飢饉、群盗、海賊、叛乱が横行し、のちに平将門・藤原純友の乱が起こるのを待ちわびていた。

 989年。地方はますます荒れていた。国司は赴任せず部下の受領にまかせきりで、その受領は年貢をふんだくることしか頭になかった。この前年、尾張の百姓は藤原元命の酷政を訴えている。さらにこともあろうに、貴族の藤原保輔が強盗団の親玉として京を荒らしまくり、ついに捕らえられたのも同じ年である。武士が勃興しはじめたのもこのころであり、この翌年には源頼光が摂政藤原兼家に馬三十疋という莫大な財産を献金している。これらを見過ごし、のんべんだらりと栄華をむさぼっていた天罰であろうか、この6年後に疫病が流行し、関白藤原道隆、次の関白藤原道兼をはじめとする上級貴族の過半数が死ぬ。しかしこの天罰も、さらに無能な藤原道長の栄達のきっかけとなってしまった。災厄である。

 1066年。道長のあとを嗣いだ頼通もすでに七十代後半、この2年後には引退し、そして藤原の血を引かない皇子が後三条天皇として即位する。藤原氏もようやく退勢に入りつつあった。地方ではいよいよ武士が幅をきかせ、みちのくでは前九年と後三年の乱のちょうど合間。安倍氏や清原氏を叩きつつ、源氏が漁夫の利を得て関東・東北を制覇しつつあった。この14年前から末法の時代とされ、2年前には僧文豪が謎の焼身自殺をとげている。災厄を予感したのであろうか。

 1145年。東国では源氏、西国では平氏という武士の二大派閥が跋扈していた。源氏は関東を固め、野盗や山賊を手下にしていった。平氏はみずから海賊行為を重ねつつ、瀬戸内の海賊を制圧していった。平氏は朝廷にももぐりこみ、平忠盛は武士としてはじめて内昇殿を許されていた。その息子清盛はこの年安芸守となる。京では藤原氏が分裂しつつあった。藤原忠実は長男の忠通より次男の頼長を愛し、兄弟の後継争いが始まっていた。すべてが、10年後の保元・平治の乱という災厄を準備していた。

 1222年。この前年、承久の乱という大災厄が起こった。朝廷が鎌倉幕府に戦をしかけ、破れたのである。これにより鎌倉幕府は日本全国を掌握することに成功。鎌倉幕府は外に対してだけでなく、内部でも陰湿な内ゲバが進行していた。北条氏はあたかもスターリンのごとく、対抗勢力を次々と殺していった。この3年前には将軍、源実朝を殺して将軍家を壊滅させ、和田、畠山、比企、三浦といった有力御家人も粛清していった。

 1301年。元寇により疲弊した鎌倉幕府は、滅亡への道をたどっていた。御家人は恩賞のない戦いで窮乏していた。この4年前に徳政令が出されたが効果はなく、馬借や質屋などの商人だけが豊かだった。翌年、鎌倉を大火事が襲い、死者五百人。すべてが災厄だった。

 1378年。南北朝の抗争も北朝優勢のうちに集結しつつあり、室町幕府の将軍、足利義満はその権力を伸ばしつつあった。この年義満は、新たに室町につくった御所に移る。この御所から、無力化した朝廷に対して策謀をめぐらせていた。めざすは天皇家乗っ取り。息子を天皇とし、自分は上皇となること。これは5年後の後小松天皇即位に結実した。天皇家にとっては、まさに災厄だった。

 1456年。室町幕府の衰勢は、まず地方に現れた。関東の抑えとして任命したはずの関東公方、足利成氏が、幕府と将軍に対し反抗していた。将軍義政はこの前年、上杉、今川に命じて成氏を討たせたが、成氏は古河に逃げて古河公方と呼ばれ、この翌年、義政が新たに任命した堀越公方と対立した。しかしこのふたりの公方にも武士は従わず、それぞれ勝手に勢力争いや内輪もめに明け暮れていた。農民は疲弊し、一揆が相次いでいた。幕府の出した徳政令はまったく効果がなかった。11年後の応仁の乱まで、あとわずかだった。災厄がはじまりつつあった。

 1531年。この前年、斉藤道三が主人である美濃守護、土岐盛頼を追放する。その弟頼芸をお飾りの守護職につけ、みずからは守護代として実質的な美濃の国主となったことをもって、戦国時代の始まりとなす人もいる。この3年後には浅井亮政が北近江守護の京極氏を追放している。そのいっぽう一向宗は火の燃え広がるように信者を増やしつつあり、この年には一向一揆が越前守護の朝倉氏の軍勢を破っている。この前年には上杉謙信と大友宗麟が生まれており、2年後には織田信長が誕生する。災厄のさきがけであった。

 1607年。関ヶ原の合戦から7年。徳川家康は征夷大将軍の地位を2年前に息子の秀忠にゆずり、形式的な主人の豊臣秀頼に政権を返すつもりがないことが、だれの目にも明らかになったころである。この年、息子の義直を尾張に封じ、2年後には頼房を水戸に封じ、徳川家の支配はますます固まりつつあった。8年後の大阪夏の陣という大災厄は、もはや確定していた。

 1682年。五代将軍徳川綱吉の就任から2年。前年、綱吉は越後騒動の再判決をくだし、逆転して松平光長の領国を剥奪、小栗美作を切腹させる。いわゆる「樅の木は残った」の最終章である。綱吉はこのころから独裁、独善を進め、5年後には天下の悪法、万民に災厄をもたらした生類憐れみの令を発する。この年、江戸に大火。米価が上がり飢える人が多かった。

 1759年。この前年、宝暦事件が起こる。公家の子弟に神道や国学を講義し、朝廷親政をよびかけた竹内式部とその息子を京から追放、竹内派の公家を処罰した。農民に立脚した幕府の武家政治は商業の発展とともに揺らぎ、新しい政治をみな欲していた。この8年後、田沼意次が政権を握り、商業を大胆に取り入れた政策を進めるが、なまじっか中途半端に導入した商業は幕府内で自家中毒を起こし、賄賂などの腐敗が横行するだけの結果となった。このころ東北の医者安藤昌益は、このような災厄ともいうべき時勢を強く批判し、商人や武士など、自ら生産しない寄生階級のいない農民だけの社会を夢みていた。

 1835年。この前年、水野忠邦が老中となり、幕政引き締めをおこなうが、政策の多くがヒステリックな節約や禁制にとどまり、まったく効果はなかった。この翌年、天保の大飢饉が起き、津軽藩だけで餓死者四万五千人という大災厄となった。翌年には大塩平八郎の乱。アメリカ船は浦賀へ来航。徳川幕府が倒れるのは、もはや時間の問題であった。

 1910年。大逆事件が起こり、幸徳秋水ら12人が死刑。これをきっかけに左翼運動や労働運動への弾圧がはじまり、翌年には特別高等警察、いわゆる特高が設置された。ここから日本は右翼と軍部の国となり、災厄へとまっしぐらに突き進んだのである。また韓国併合の年でもある。日本と朝鮮の不幸な関係は、ついに災厄のピークを迎えたのである。また、江ノ島でボートが転覆し、奇しくも大逆事件の死刑と同じ人数、12人の逗子開成中学生徒が死んだ年でもある。「怨みは深し稲村ヶ崎」というやつだ。このとき、日本は「ハレー彗星の尾に含まれる毒ガスで地球は滅亡する」というデマにおののいていた。若き日の内田百間(正字はもんがまえに月)はその噂におののく善男善女の醜態と、ひょっとしたらという不安を肴に、仲間と町に繰り出してビールをかっくらっていた。これで酒をおぼえた百間はのんだくれのろくでなしとなり、ついには給料のすべてを使い果たして借金までするようになり、あたりいちめんの知人に迷惑をかけたおすようになるのである。知人にとっては厄災そのものであった。

 1986年。前年の阪神日本一は、まさにハレー彗星のごとき束の間のきらめきでしかなかった。この年から17年間、阪神はBクラス15回最下位10回という、まさに大災厄の期間をむかえるのである。さらにこの年、新自由クラブは崩壊して自民党に吸収され、社会党は土井たか子を委員長として崩壊のきっかけを作っていた。前年のNTT株フィーバーを最後に、バブル景気は崩壊しつつあった。ちなみにこの年、ソ連ではチェルノブイリの原子力発電所が大事故を起こしている。フィリピンでは選挙不正をきっかけとして内乱が起き、マルコス大統領が亡命している。メキシコでは前年の大地震の復興もままならない状況だった。イランとイラクの戦争は続いていた。北尾が横綱になった。

 そうしてふとこの災厄の日本史をふりかえってみると、この中で司馬遼太郎が書いた歴史の時代は、1531年と1607年のふたつしかないのだなあ、と妙な感慨がある。幕末はあまりにも短すぎてハレー彗星の災厄から見放されてしまった。歴史小説の流れと本当の歴史の流れにはえらく差があるのだなあ、それとも司馬遼太郎という作家は実はえらく幅の狭い作家だったのかなあ、ということでまとめておこう。それも災厄か。


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