まだ地上的な廃虚

 自動車での旅行先で立ち寄ったレストランで、「そのこと」に気が付くまでしばらくかかった。
 車を降りて、もう一度このドライブイン・レストランの建物をしげしげと眺めて、はじめて天窓のガラスが全て割られていることに気が付いたのだ。
 つまり、ここはもう、営業していない。しかもつぶれてしまってからかなり経っているようだ。

「こんなところで車止めて、いったいどういうつもりよ」
 とげとげしい妻の声が私の背中に突き刺さる。
「あたしは食事がしたいって言ったのよ。それなのになんでこんなガラクタに」
 ひとりで車を走らせたかったのに、ぼんやりと山が見たかったのに、勝手についてきたのはおまえの方だろう。それも、やれ日差しがきついだのやれクーラーがききすぎて寒いだのやれ車が狭すぎるだのさんざん文句ばかり垂れて。
 と、口には出して言えないので心の中で妻に毒づきながら、私はふらふらと建物に向かって歩き出した。なんでもいい、逃げたかっただけだ。ひとときでも、妻から逃げたかっただけだ。

 入り口の前に立っていると思っていたのに、いつの間にか中に入ってしまったらしい。
 ひとすじの涼風が私の頬をなでる。
 なぜか冷房がきいていることを不思議に感じる余裕もなかった。
「あ、遅れたな。めっ」
 入り口に近い座席にいたのが、留美だったからだ。

 店の中は静かだが、間違いなく営業している。
 恋人らしい男女と、子供連れの夫婦が数組ずつ。友人同士らしい男たち。そしてみょうに場違いな、白衣を着た老紳士。奥の座席にいる老夫婦はこのレストランのオーナーだろうか。テーブルの上に花束を飾り、微笑みあっている。トイレに近い奥の座席では、「怪しげ」という言葉が身体から滲み出ているような数人の男たちが、いくつものCDやDVDを広げてにやにやと談笑している。
 けっこう繁盛しているようだが、なぜかみな静かである。
 男のグループが騒いだり、おたくのグループが奇声をあげたり、子供がどたばたと走り回っても不思議はないと思うのだが、なぜかみんなおとなしくハンバーグやカツ丼を食べている。
 その客たちの間を、あからさまに疲れた顔の若いウエイターが縫うように小走りで給仕している。客が多いからだろうか。

「べつに、立ってなさい、なんて怒らないわよ」
 くす、と笑って、留美は向かいの椅子を指さした。
 私はあやつり人形のように、言われるままに腰をおろした。
「わたしも来たばっかりだから、まだ何も頼んでいないの」
 留美は私にメニューを渡した。
「わたしは森のきのこのリゾットとアイスハーブティ。あなたは?」
「……黒ビールと和風おろしカツ」
 むかし、留美と一緒に食事にでかけたとき、よく注文していた料理の名を、私は反射的に答えていた。

 べつに化かされているとは思えなかった。黒ビールはたしかに黒ビールだった。トンカツはたしかにトンカツだった。狐の小便や馬の糞ではなかった。すくなくとも私の味覚では。
 中ジョッキを傾けながら、私は留美のことを思いだしていた。
 五年前のこと。まだ私も留美も大学生だった。
 サークルが同じだったことから、よく遊びに行っていた。
 はじめはサークルの全員で。そのうち、ふたりで。
 そのころの留美は、いま向かい合っているときのように、無口なくせによく笑う娘だった。

 そのうちサークルに今の妻が入ってきた。
 彼女はなぜか私に目をつけ、留美から私を奪おうとした。
 そのときの私は知らなかったが、蔭で留美に嫌味を言ったり、留美のありもしない噂を言い散らしたりしていたらしい。
 そのころから留美は笑わなくなった。
 そしてあるとき、留美はなにかを妻に言われたらしい。
 それから留美はサークルに顔を出さなくなった。

 私は妻の策動を、情熱と勘違いし、ずるずると押されるいっぽうだった。
 そしてある夜、誘いについ乗ってしまったことから、なし崩しに結婚までいってしまった。
 留美のことは三年ほど前に噂で聞いたきりだ。
 大学を卒業後、ボランティア団体に入り、南の国で井戸を掘っていると。

「なに考え込んでいるの?」
 留美は私の顔をのぞき込み、くすりと笑った。
「ん、いや、なんでも」
 私は照れ隠しにジョッキの残りをひと息にあおった。
 留美の笑顔は、むかしの朗らかだったころのほほえみだった。

「じゃあ、またね」
 食事を終え、しばらくたわいもない話をして、私たちは席を立った。
 ウエイターは、なぜかほっとしたような顔で食器を片付けていた。
 最後のあいさつを交わした留美の笑顔は屈託がなかった。
 あの女さえいなければ、この笑顔が続いたのに。
 あの女さえいなければ。

「いつまでこんなところに突っ立ってるのよ。馬鹿じゃないの」
 扉を出た記憶はなかった。
 妻のとげとげしい声でふと気がつくと、私はレストランの外に立っていた。
 レストランはやはりすべての天窓が破れ、壁もあちこちが崩れ、看板はひしゃげ、まったく営業している気配はなかった。
「早く行きましょうよ。あたし、お腹がすいてるんだから」
 妻のがなり声が追い打ちをかけた。
 この女さえいなければ。

「ちょっと。こんな山奥に入ってどうするつもりなのよ。レストランでしょ」
「ん、あ、いや、この峠を越えたところに店があるんだ」
 妻の不満の声をいいかげんな言い訳でごまかしながら、私は車を人のいない山奥へと走らせた。
 そうさ。私はレストランで拾ったナイフを、ハンドルの陰に隠れて、こっそりと握った。ナイフは、廃虚でほったらかされていたとは思えないほど鋭く研がれ、どこか優しげな光芒を放っていた。
 そうさ、やりなおせる。今からでも。
 あのほほえみを、ずっと続けさせるために。
 死者を蘇らせることはできないが、生者を殺すことならできるのだから。


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