あなたと/酒場で/フォークロア

 札幌は寒いくせに開放的な街。
 女の子はみんなミニスカートからタイツの脚をむきだして闊歩するし、ススキノの歓楽街では内地と比べものにならないサービス合戦をくりひろげている。
 あたしがこの札幌に流れてきてから、そろそろ一年になる。ススキノのキャバクラに勤めだしたころは、毎日が嫌でイヤで、店のトイレで泣いていたものだった。だって、あんまりえげつないんだもの。内地でキャバクラというと、お客さんの隣に座って、たわいもない話をしたり、お酒をつくってあげたりすればいいだけなんだけど、北海道は違う。
 あたしたちはずっと、ブラとミニスカートの姿でお客さんの相手をしなければいけない。おまけに、マネージャーが、「ではこれより、おっぱいタイム、開始ー!」と叫ぶと、あたしたちはブラを取り、お客さんの膝の上に向かい合って座り、流行歌のリズムに合わせておっぱいをぶるんぶるん振ったりお客さんの顔に押しつけたりしなければならない。マネージャーはそのうえ、「ノーパン・ゴングショー」というのを導入しようとしていたんだけど、それはあたしたちの反対でさすがにあきらめたみたい。

 その日もあたしはいつもどおり夕方に店へ。店から支給されたケータイを使って、常連さんに電話をかける。会社が終わるちょっと前にかけるのが、いちばん効果的なんだ。
「……はい、桐川です。……あ、マイちゃん?」
 いつもどおり、嬉しいようなちょっと困ったような声。きっと職場で同僚に冷やかされながら、すこし赤くなっているんだろうな。
 桐川さんはまだ若い。若いといっても三十にそろそろ手が届こうという歳だけど。なんだか、もっと若いような雰囲気がある。背が高くて、けっこう二枚目なのに、純情で恥ずかしがり屋さん。ちょっとからかうと、ぽっと頬っぺたが赤くなる。おっぱいを見せると真っ赤になる。同僚からは「童貞じゃないの?」とからかわれているけど、でも童貞じゃないことだけは、あたしは知ってる。
「……うん、大丈夫。仕事は七時には終わるから、それから行くよ」
 そう言ったあとで、ちょっとためらったように。
「でさ。……店が終わったあと、……メシでも食わない?」
 きっと、桐川さん、電話口の向こうで真っ赤になっているんだろうな。そんなことを考えながら、あたしは
「……うん。いいよ」
 と答えていた。

 夜中の一時、店を抜け出したあたしは、桐川さんと深夜レストランで向かい合っていた。
 さっきまでのおっぱいがまだちらちらしているのだろう。桐川さんはあたしの身体をまともに見ることもできず、視線をそらしぎみにしている。
 黙っているとあたしの裸が目に浮かんでしまうのか、桐川さんは一生懸命話しかけてくる。
「最近、面白い話を聞いたことがあるんだ。バーの女の話だけど」
「どんな話?」
「そういえばバーと言えば、横浜に動物園バーができたの知ってる? 動物を見ながら酒を飲めるんだって」
「それ、本当にあるの?」
「横浜は横浜でも横浜ベイスターズだけどね。横浜のズーバー選手」
「……」
「それで同僚の外人選手が心配して、『ドスター? ズーバー』なんちゃって、ははは」
「…………」
「あ、そうそう、バーの女の話だったね。青森の三沢なんだけど、場末のバーがあったんだ。三沢で水商売の店を張る、これがほんとの三沢水張る、なんちゃって。はははは」
「……ぁぅ……」
 桐川さん、いい人なんだけど、すっごくジョークがへたくそなんだ。まあ、いい人のギャグは寒い、お笑い芸人で一流なのはみんなひとでなしだ、って説もあるから、それはそれでいいけど。

「そうそう、その場末のバーに、新しい女の子が入ったんだって。それが、なんでこんな場末に来るのかわからないくらい、顔もスタイルも頭もいい女なんだってさ。銀座の高級クラブでも勤まるくらい。……で、みんな不思議におもってたんだけど」
「それで?」
「男がいたんだ、その女の子。それもすんごく嫉妬深くて凶暴で、女の子についた客を殴ったり脅したり、それでも言うこと聞かないと殺しちゃうんだってさ。女の子はそれがイヤで逃げ出すんだけど、男はしばらくすると嗅ぎつけて追っかけて来るんで、それで全国逃げ回ってるんだ」
「……」
「その男が凄いんだ。”日本刀の男”って呼ばれてるんだ。もう頭は完全にいかれてて、女の子を追っかける執念と客に対する殺意しかないんだ。むかし、空手の有段者と闘って、右目を潰され、右手と右足をへし折られたんだって。でも右手に義手の代わりに日本刀を仕込んで、それで空手家を斬り殺したんだって」
「……」
「男はいつも、右足の義足を、こつーん、こつーんと鳴らしながら追ってくるんだ。その女の子、それで今度は北海道まで逃げて、最近、札幌に来てるって話だぜ」
「……」
「ははは、バカバカしい話だよな。そんなに人を殺してちゃすぐつかまるよな。女の子だって警察に行きゃ済む話だし。よくある噂話だよ。都市伝説ってやつか」
 桐川さんはあたしを怖がらせまいとして笑ったが、あたしは笑わなかった。

 それからワインバーに行って、桐川さんはモーゼル、あたしはソーテルヌを頼んだ。
 桐川さんはようやくあたしのおっぱいの幻影からのがれたらしく、上機嫌になっていろいろ話しかけてきたけど、あたしはほとんど聞いていなかった。

 イヤな予感だけは当たる、ってのがあたしの自慢だけど、このときもそうだった。
 バーから出たところで、あたしたちはあの男に出くわした。
「よう、サユリ。久しぶりだな」
 前よりも痩せたその男は、黄色い乱杭歯をむきだしにして笑った。
「また来たのね」
 あたしは思わず叫びだしてしまった。
「……誰だい、この人」
 おずおず、といった感じで桐川さんがあたしの眼をうかがう。
「俺かい? 俺はこの女の夫だよ」
 男はにやにやと笑った。
「夫なんかじゃないでしょ」
「まあ籍は入ってないとしてもだ」
 男はますますにやにやとして、桐川さんに宣告した。
「あんたよりもずーっと前から、この女の愛人だった男さ」

「ええ、そうよ」
 あたしはまた叫んだ。
「ずーっと前に恋人だったわ。でも、それもずーっと前に終わってるはずだわ」
「終わったなんて、一方的にひどい話じゃないか」
「それなのにいつまでもどこまでもあたしを追っかけてきて。あたしだけならともかく、店長や友達やお客さんにまでお金をせびるから、あたしはいっつも逃げ出すんじゃないの」
「俺は貧乏なんだ。そのくらい当然だろ」
 あたしと男とのやりとりを聞いていた桐川さん、少し青っぽい顔色になって、
「マイちゃん……なんか、さっきの話と……」
「ええそうよ、あれ、あたしの噂話よ」
 あたしはやけくそになって認めた。
「ちょっと尾ひれがついてるけどね」

「話はわかった」
 桐川さん、男の前にすすみ出た。
「どうだろう、男と男で話し合わないか。ひょっとしたら、いい条件を出せるかもしれない」
 男は桐川さんを値踏みするように頭から靴まで眺めたあと、
「あんたが……? まあいい、けどなサユリ、逃げても無駄だぜ」
「逃げないさ」
 と桐川さん、あたしを押し出して、
「マイちゃん、そこのバーで待っていてくれ。三十分たったら戻る。もし戻ってこないときには、ひとりで帰っちゃってくれ」
「兄ちゃん、呑ませてくれるんだろうな。あんたのおごりだぜ」
 ふたりでどこかに行ってしまうのを、あたし、ただ見ていた。

 それからあたし、そこから動けず、じっとそこで立ちすくんでいた。
 気がつくと桐川さんがあたしの肩を抱いていた。
 むしゃぶりついたあたしの肩につもった粉雪を、桐川さんはぽんぽんと叩いて払い落としてくれた。さらさらの雪は、すなおに落ちていった。
「バカだな、こんなに冷えちゃったじゃないか」
 と、桐川さんは言ってくれた。
「こんなに冷えたら夜の女になっちゃうぞ。コール・ガールってね」
 桐川さんのつまらないジョークも、なんだかあたたかく感じられた。
 桐川さんはあたしの肩を抱いたままラーメン横町へ連れていってくれた。そこで、ひとつのラーメンを分けあって食べた。熱いスープが全身に沁みた。
「おいおい、泣くなよ」

 ラーメン屋を出てしばらく無言だった桐川さん、ぽつりと呟いた。
「さっきの話だけどさ」
「え?」
「”日本刀の男”、続きがあるんだ」
「……」
「百人目の男を殺そうとしたとき、それまで殺した男の血で腐っていた日本刀が、ぽきりと折れたそうだ。折れた刀が左足にぐさり。とうとう男は、女を追うことのできない身体になってしまいました。それで女の子は、やっと幸せになりましたとさ」
「…………」
「明日、休めよ」
 ふいに桐川さんが言った。
「ぼくも休む。これから朝まで飲もう。それとも、ぼくの家に来るかい?」

 ひょっとしたらあたし、この人とふたり、このままこの街に消えていくのかもしれない。そして、この街の伝説になるのかもしれない。そんなことを感じながら、桐川さんの胸に顔をうずめ、
「ええ」
 と、答えていた。


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