中国ハイウェイバス507号

 線香のけむりがもうもうと立ちこめる中で、祝詞とも経文ともつかぬあやしげな呪文が唱えられている。
 白衣に身を包んで、単調な抑揚で呪文を呟いているのは可須美。ぼくの許嫁だ。その若さに似合わず、死者をあの世からこの世へ呼び寄せる、優秀なイタコとして認められている。
 ただのイタコではない。
 可須美の前でかしこまっている、小柄で貧相、禿頭と白髪が半々の中途半端な頭をもつ中老の男。人は見かけによらないが、警視庁で殺人事件を扱う鈍那警部という人物なのだそうだ。
「難事件がありました。こうなったら、今は亡き大先輩、雲丹面警部にご指導いただかないと」
 さきほど可須美の前で平伏して言ったのがこの台詞。
 そう、可須美は古今東西の名探偵を呼ぶ、イタコ探偵なのだ。

 やがて呪文のリズムは早くなり、それが頂点に達するころ、死せる探偵が神降りる。
「……やあ鈍那くん、久しぶりだね。きみも偉くなったな。もう警部かい」
「そ、その声は、たしかに雲丹面さん!」
 貧相な顔の警部は思わず可須美のもとににじり寄った。可須美はそれを鷹揚に押さえつけるような仕草をすると、
「落ち着けよ鈍那くん。きみとまたお菓子の食べ歩きをしたいな。そうだ、いい到来物の饅頭があるんだ。甥の嫁がお供えしてくれたものだがね」
「ご、ご冗談を……」
「ははは。まあ大事な要件からはいるか。ぼくを呼ぶということは、事件だね」

「そうです。実は岡山県の津山で殺人事件がありまして」
 中老の貧相な警部は、ゆっくりと話し出した。
「殺されたのは杉本彦右衛門。津山では相当手広くやっている土建屋です。津山市内にある屋敷で、死体が見つかりました。凶器は日本刀。袈裟切りにされていました。見事な腕前です」
「ふうん、まあ岡山は凶悪殺人のメッカだからな」
「容疑者は長男の彦一。剣道の有段者です。死体の第一発見者でもあります。彼は大阪で中古車販売業をやっていましたが、最近は経営の悪化で倒産の危機にあります。先月は父親に借金を申し込んで、断られています。彼の申し立てによれば、もういちど借金を頼みに来たところ、この惨事を目撃したと」
「なるほど、遺産相続で経営を立て直そうとしても不思議はないわけか。ほかに兄弟は?」
「次男の彦三がいます。こちらは津山で父親の事業を手伝っています。彼にはとくに、親父を殺す動機がないようです」
「じゃあ、彦一がいちばん怪しいじゃないか」
「われわれもそう思って捜査を進めたのですが、これにアリバイがありまして」

「実は彦一は、父親が殺された時刻には、まだ大阪にいたのです」
 貧相で中老の打ちひしがれた警部は、ポケットからくしゃくしゃの紙片をとりだした。
「彦右衛門の死亡推定時刻は午前十七時三十分プラスマイナス三十分。彦一は十八時大阪発の中国縦貫ハイウェイバス507号に乗って、二十時四十五分に津山に着いたと主張しています。切符も持っていました。バスの運転手も同乗者も、彼が乗っていたことを目撃しています」
「ふうむ」
「ハイウェイバスは大阪駅を発車し、新大阪、千里ニュータウンを出たあとは乗り込み不可です。もちろん乗り込んだ人間などいません。つまり途中での乗り換えなどは不可能なのです」

「ふ、ふふ、ふふふふ」
 首でも吊りそうな風情の中老の貧相な警部とは対照的に、可須美、いや雲丹面はにこやかな笑みを浮かべている。
「ねえ鈍那くん、ぼくは時刻表を大事にしたけれど、もっと大事なのは実地に検分すること、そう言ったことはなかったかね」
「はい。……でも、しかし」
「この時刻表には書いていないが、重要な事実がある。それは、ハイウェイバスが上り下りどちらも、加西のサービスエリアで十分弱の休憩を取るということだよ」
「え」
「つまり、加西で上りと下りの乗客が入れ替わる可能性があるのさ。その同時刻、津山発大阪行きのハイウェイバスに誰かが乗っていないかね」
「は、はい。……次男の彦三が。大阪の同業者との打ち合わせに」
「どうして、そういう大事なことをもっと先に言わないのかね」
 中老の貧相な警部が恐縮いっぽうなのに対し、可須美、いや雲丹面はいよいよ楽しそうだ。

「私の考えるに、津山で父親を殺した彦一は、津山駅からハイウェイバスに乗る。十八時ちょうど発の大阪行き508号だ。やはり十八時ちょうど、大阪から次男の彦三が津山行き507号に乗り込む。むろん最初から共謀していたのだろう。このバスはどちらも、十九時二十分ごろに加西サービスエリアで休憩する。しかし渋滞や遅れの可能性を考えに入れ、時間調整の手段もこうじていただろう。停車中、なにか事件はなかったかね」
「は、はい……。実は大阪発の507号で、サービスエリアのトイレの鍵が故障したため出られなくなって、それで五分ほど遅れた客がいます。実はそれが彦一で、それでみんな顔をおぼえていたわけで」
「もっと早く教えてほしいね。そうやって時間を調整したわけだな。トイレに籠もっていたのは彦三さ。そこへ彦一が来て交代したわけだ。そして兄弟はバスを乗り換え、切符も交換する。大阪から加西まで乗っていた彦三は、できるだけ目立たないようにしていた。だから乗客も運転手も、最初から彦一が乗っていたと思いこんでしまったわけだ」

「わかってみれば簡単なことだ。ともかく捜査の基本は実地、それと時刻表だよ」
 悠然とふんぞり返る可須美、いや雲丹面にむかって、小柄で貧相で中老の警部は、おずおずと最後の質問を発した。
「はあ……。し、しかし、このばあい、次男の彦三の動機は?」
「へ?」
「なぜ共犯になる危険をおかしてまで、そのような細工に協力を……?」
「ううみゅ。そ、それは……」
「共犯なら次男が殺せば簡単なものを、なぜこんな手のこんだアリバイを?」
「う……うあぁぁぁ……」
「ねえ雲丹面さん?」
「ここは寒い……とても寒い……なにも、なにも聞こえない……」
「雲丹面さん、雲丹面さん!」
「み……みんな仲良くやってくれぃ……ああああ……」


戻る          次へ