キャンパス・オブ・ドリームス

 社会人が試験の夢を見るというのは、現実逃避のひとつなのだそうだ。
 試験というのは苦しいようではあるが、いざとなれば白紙で出して、次回やりなおせばいい。ところが社会に出るとそうはいかない。報告書を白紙で出したら上司に怒鳴られるくらいでは済まないし、一度のミスがやり直しのきかないこともある。社会に比べると、学生時代の苦労なんか屁のようなものだ、という慰めであるという(現在学生である読者諸兄には申し訳ない話ではあるが)。
 またもうひとつ、学生時代にも試験で苦労したが乗り切ることができた。だからいま直面している困難も乗り切ることができる、という励ましであるという(いま学生で試験に直面していたり、乗り切ることができず中退した読者諸兄にはまたも申し訳ないが)。

 私も試験というか、単位の夢をよく見た。おそらく単位数で苦労した大学時代の経験が夢に反映しているのだと思うが。
 しかし夢の中で苦労する単位が、実際に苦労したフランス語や幾何・解析ではなく、なんと体育の単位である(体育に単位なんてあったっけ?)。ともかく、夢の中で、とうに社会人となっていた私にとつぜん通知が来るのだ。体育の単位が不足しているため、修得しなければ卒業を取り消す、と。やむなく十数年ぶりに学校に通う私。これから週一回、体育実技でバドミントンをやらねばならない(なぜバドミントンなのか不可解)。会社帰りに一杯の誘いを断り、キャンパスに駆けつける私。
 ところがロッカールームではたと困惑する。体操着に着替えなければならない。着替えはある。ロッカーの中に。それも大学卒業以来十数年、洗濯もせず虫干しもせず、ずっとロッカーに入れっぱなしの体操着が(なぜそんなもん学校当局が破棄しなかったのか不明)。
 ロッカーの中がどうなっているのか、考えたくもない。開けたくもない。でも開けないと体育の単位を落とし、ひいては大卒の資格も剥奪される。ううむ。開けるべきか開けざるべきか(新しいの買ってくればいいと思うのだが)。ロッカールームで悩み苦しむうち目が覚める、というのがパターンだった。

 最近は症状が悪化したのか悩みが深くなったのか、大学の夢は見なくなった。かわりに時々見るのが、なんと小学校の夢である。
 夢の中で、とつぜん通知が来るのだ。小学校の単位が不足しているため、修得しなければ卒業を取り消す、と(小学校に単位はぜったいないと思う)。小学校卒業が取り消されるということは、つまり中学、高校、大学の卒業資格も剥奪されるということだ(そんなことはないと思う)。やむなく私は、小学校に再入学するのだ。
 桜の花咲くころ、六歳の子供たちに混じって入学式に参加する。父兄の大半よりも年上である、この私がだ。
 同級生はみんな可愛い顔の子供たちだ(おっさんはお前だけじゃ)。机と椅子が窮屈だが、なんとか席におさまる。担任は二十四歳の可愛い女の先生だ。もちろん年下である(あたりまえだ)。私を見てこころもち頬を染めたと思ったのは錯覚であろうか(ヘンなのがいると思って困惑したに違いない)。
 給食の量が少ないのが悩みではあるが、学校生活は順調に進む。漢字もよく覚え(もとから知っとるわい)、算数の九九もよくでき(できなかったらどうかしている)、体育もずばぬけて成績が良く(なんぼくたびれたオッサンでも、六歳には勝てるわな)、音楽をのぞけばいずれも優秀な成績。放課後でも、怪獣や怪人の豊富な知識で同級生を信服させ(情けないよ)、上級生にいじめられた同級生を救出して(六年生の十二歳にだって、そら勝てるわな)クラスメイトの信頼を集める(たぶん用務員さんだと思われていたのではないか)。担任の先生にもクラスの運営についてなにくれと相談を受ける、小学校一年三組の黒幕か軍師のような存在となったのであった(とことん情けないよ)。
 そして六年は夢のように過ぎ(夢だもの)、桜の花散るころ、卒業式を迎える。私の卒業を泣いて見送る担任の女の先生(六年間担任いっしょやったんかい)。そして校長から、私はこのまま中学に進まなければならぬ、と耳打ちされたところで目が覚める。

 なんか分析する気にもなれないような阿呆らしい夢だが、じっさい見るのだから仕方がない。症例の深化なのか、それとも精神的退化なのか。とりあえず毎回夢から覚めるたび、女の先生をものにしておけばよかった、と悔やむ私なのであった。


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