圧力に負けるな

 ひと昔前のSF漫画では、よく宇宙船の乗組員が事故で船体に穴を開け、そこから吸い出されてしまう、などというシーンがよくあった。たしか、手塚治虫の「ロスト・ワールド」では、自分の撃ったピストルの穴から悪役のランプが吸い出されていたと思う。ピストルの小さな穴から吸い出されたランプが、なぜか生前のままの姿で宇宙空間を漂う図は、子供心にも不思議だった。なぜ骨とか折れなかったんだろう。
 もうひとつよくあったのは、生身で宇宙空間から投げ出された人間が、眼球を飛び出させたり口から胃袋を吐き出したりするシーンである。たぶん深海魚の水揚げから類推したものだと思うが、さて、これらのシーンは、本当に起こりうるのだろうか。

 ダイビングをやる人は、まず最初の講習で水圧について習う。十メートル潜るごとに、水圧は一気圧ずつ増えてゆく。水圧の単位が気圧だというのも変だが、ここでは海面での水圧を便宜的に一気圧としている。つまり海面は一気圧、深度十メートルで二気圧、二十メートルで三気圧、三十メートルで四気圧……という具合だ。
 気圧に比例して、気体の体積は押し縮められて小さくなる。二気圧では一気圧の半分、三気圧なら三分の一、四気圧なら四分の一となる。これもダイビングをやる人なら、テニスボールを海底に持っていき、深度三十メートルではボールがぺちゃんこにひしゃげるのを見せてもらった経験があるのではないか。
 もっともこれは気体の話で、固体や液体はそうはいかない。テニスボールはひしゃげても、潜っている人間はひしゃげないのが何よりの証拠である。どんどん潜っていくごとに背中のタンクから空気を供給し、肺や頭の中の気圧とまわりの水圧をほぼ同じにしてさえいれば、人間はもっと深く潜れる。ダイバーの潜水記録はいまのところ百五十五メートルだから、ざっと十七気圧までは確実に耐えられるわけだ。
 そうすると、動物がひしゃげる限界はどのくらいなのだろうか。ムツ、キンメダイ、タチウオなどの魚は、深度二百メートルから七百メートルくらいの海底に棲むが、水揚げされても目玉が飛び出たり胃袋を吐いたりはしない。ところが、深度七百メートルから千メートルのところに棲むチョウチンアンコウやフウセンウナギとなると、見事に飛び出したり吐いたりしてくれる。動物種により差があるとは思うが、おおまかにいって、七百メートルがひしゃげの限界ということにしておこう。七百メートルというと、ざっと七十一気圧。つまり身体のどこかに気体があったとしたら、それが海上で七十一倍にふくれあがるのだ。

 さて、それでは海底からいっきに空中に飛び上がることにしよう。理科年表によると、地上で1013ヘクトパスカルだった気圧が、二百メートルまで上昇すると990ヘクトパスカルに減少する。
 ヘクトパスカルの数字はややこしいので、海中にならって、地上の1013ヘクトパスカルを一気圧としよう。そうすると、地上二百メートルでは0.977気圧、四百メートルでは0.954気圧となる。いっきに飛んで富士山とだいたい同じ四千メートルでは0.608気圧、ジャンボジェットが飛ぶ高度一万メートルでは0.261気圧となる。つまりジャンボジェットの高度では、空気は地上の約四倍にふくれあがることになる。
 成層圏の高度五万メートルとなると、気圧はわずか0.0007876気圧、つまり空気は地上のざっと千二百倍以上に膨張する。このままどんどん気圧は減少していき、最後は宇宙空間のほぼ真空、気圧ゼロへと突入する。地上の空気はここでは、ほぼ無限大へとふくれあがる。

 そのくらい膨れあがればじゅうぶん目玉だって飛び出すだろうし、胃袋どころか五臓六腑吐き出せるように思えるのだが、ああ残念なことに、目玉や胃袋を吐き出させる力は、気圧の倍率ではなく、気圧の差にあるのだ。
 ジャンボジェットの中で、ポテトチップなどの袋がぱんぱんになっているのを見た方もおられるかと思うが、四倍に膨れた空気の力をもってしても、われわれが指先で開けることのできる袋を破く力もない。それは空気の圧力が、(1気圧−0.261気圧=)0.739気圧に比例する力しか持たないからだ。
 同じ四倍の膨張でも、水面下三十メートルの海底工場で作成したポテトチップスを地上に持ってきた方が、はるかに力が強い。(4気圧−1気圧=)3気圧に比例する力が働くからだ。これなら、袋を破ることだって可能かもしれない。
 つまりどこまで上空を飛んでも、しょせんは最大で(1気圧−0気圧=)1気圧に比例する力しか受けることはない。海底七百メートルの深海魚が海上で受ける、七十気圧に比例するパワーとは文字通り桁違いに小さい。真空の宇宙空間に行ったって、海底十メートルを泳ぐ小魚が海上に水揚げされたくらいの圧力しか感じないのだ。これでは穴から吸い出されたり、胃袋を吐いてみたりといった芸当は、とうてい無理だ。

 どうしても吸い出されてみたい、吐いてみたい、という方のためには、気圧差を補充してやるしかない。宇宙船内に空気を過剰に充満させ、船内気圧を数十気圧にまで高めてやる。もしくは数百倍に圧縮した空気のタンクを背負わせて、宇宙空間でそのタンクを無理矢理吸わせる。そうすればうまくゆけば、ピストルの穴から宇宙空間に吸い出されたり、宇宙空間で目玉を飛び出してみたり胃袋を吐いたり、という夢が実現できるかもしれない。

 え。
 こないだの大富豪、宇宙にちょこっと行って二十五億円、目の飛び出るような額だって。
 そんなオチでどうする。

 後記。これについて、「液体の気化の問題を忘れている」というメールをいただきました。しもうた。
 高山では水がいくら沸騰しても百度にならず、米が煮えないように、気圧が下がるごとに液体の沸点は低くなります。したがって人間が気圧ゼロの宇宙空間に放り出されると、血液などはアッという間に沸騰して水蒸気となります。液体が気体になると、その体積は数百倍となります。そのため瞬時に肉体は大爆発するであろうとのこと。ううむ、目玉が飛び出るとかいう牧歌的な話ではないな。

 さらに後記。後記について、またもや、「たしかに沸点は下がるが、液体の分子結合を切り離すに必要な気化エネルギーの関係で、血液の全部は気化しない。一部は気化、一部は逆に凍結する」というメールをいただきました。参考文献もご紹介いただきました。うむむむむ、今度はエネルギーの問題か。でもどうなんだろう、一部の気化だけで破裂はしないもんなんだろうか。一部気化、一部凍結ってイメージとしてどんなんだろう。物理化学の基礎教養に乏しい私としてはなんとも。こうなったら大西科学に助け船を頼むしかないか。


戻る          次へ