ゆみこのこと。

 おれとゆみこはずっと近所同士で育った。もっとも、おれの親父は貧乏な畳職人で、ゆみこの家は裕福な和菓子屋だった。でも妙に仲がよくて、いつも一緒に学校に通っていた。
 ときどきおれは、ゆみこの持ってきた弁当を半分食べさせてもらったが、カマクラハムとか缶詰のウインナーとか、おれがいちども食べたことがないような、すてきにおいしいおかずがぎっしりと詰まっていた。
 そんなおれとゆみこの仲をからかう同級生もいたりしたが、そのたびにおれが殴りつけていたので、しまいにはだれもからかわなくなった。おれは餓鬼大将だったからだ。

 それからゆみこは私立の女学校に行き、貧乏なおれは高等小学校を出てから、海軍の予科練に志願した。そこだと学費はいらないし、あこがれていたパイロットになれるからだった。
 めでたく合格して土浦の航空隊にいったおれは、それから二年、ゆみこに会わなかった。航空隊では全寮制だったし、たまの休暇で家に帰っても、なんとなくゆみこに会うのが恥ずかしかったからだ。いちどだけ、ゆみこの親父が挨拶に来て、ゆみこは女子挺身隊にはいっているとおしえてくれた。
 二年の教育をうけて、おれは飛行兵曹になった。本来なら教育は三年半なのだが、戦争が負けそうで、とにかくパイロットの頭数がほしかったらしい。ともかく小松基地へ配属の内示をうけ、一週間の休暇をもらって、おれは家に帰った。
 せっかく飛行兵曹になったが、おれは憂鬱だった。おれは零戦に乗りたかったが、もう零戦はおろか、パイロットが乗る飛行機がまるでなくなっていた。おれたちの訓練も、ほとんど木造のグライダーでやっていた。おまけに配属先では、おれは桜花に乗せられることになりそうだった。戦艦に体当たりする特攻機、桜花のパイロットは、志願でえらばれることになっていたが、じっさいのところ、志願しないでいることはできなかった。志願して船にぶち当たって死ぬか、志願しないで卑怯者とか臆病者とかいわれ、ずっと雑用にこきつかわれるか、どっちかだった。みんなに馬鹿にされるくらいなら、死ぬ方がましだった。

 町内ではおれが飛行機乗りになって配属されることが知れわたっていて、みんながおれの家にお祝いをいいにきた。魚屋が鯛をもちこんできたり、肉屋が鶏をもちこんできたりで、おれの一生でいちばんぜいたくに暮らした。ゆみこの父親も、ぼたもちを持ってきてくれた。夜になると米屋がこっそりとどぶろくを持ち込んで、そこで酒盛りになるのだった。そうして一週間はすぐに過ぎてしまった。
 あしたの昼には出発しなければならない。そんな夜、裏口の戸をたたく音がした。おれが出てゆくと、そこにひとりの女性が立っていた。カーキ色の菜っ葉服ともんぺ姿だったが、顔はえらくきれいだった。おれは二秒半ほどぼんやり見ていて、やっとそれがゆみこであることに気がついた。
「ごめんなさいね。こんな格好で」
 ゆみこはつぶやくと、なぜだかいきなり顔を赤くした。
「工場から抜けてきたの。すぐ帰らなくちゃ。ね、あした会えない?」
 おれは馬鹿のようにぽかんと口をあけて、ゆみこを見つめていたのだが、やっとのことで答えることができた。
「う、うん、午前中なら」
「じゃあいいわ。朝の八時に。あそこの草っ原でね」
 そういうとゆみこは、小走りに闇の中へかけていった。おれはあいかわらず馬鹿のようにぽかんと口をあけて、それを見送るだけだった。

 約束していた草っ原は、おれやゆみこが子供のころ、凧あげしたり蛇をつかまえたりして、よく遊んだところだった。おれが行くと、ゆみこはもう来て待っていた。ゆみこは高女の制服をきて、みつあみをしていた。
「ありがとう」
 おれを見て、ゆみこはすこし笑った。こんなにもゆみこがきれいになったのは、いったいいつからだったのかな、と思いながら、おれは曖昧にうなずいた。
「飛行機に乗るのね」
 ほんとうにおれのような男が飛行機に乗れるのか、そのへんが心配らしく、ゆみこはおれの顔からつま先まで、じっと眺めていた。どうやら合格になったらしく、ゆみこはにっこりと笑った。
「立派になったわ」
 ゆみこはおれの腕にちょっとさわった。さわられておれは、不覚にもびくんと腕の筋肉が脈動してしまった。ゆみこはまた、くすりと笑った。

「慰問袋を送るわ」
 ゆみこがつぶやいた。
「でも、誰に届くか、わからないんだぜ」
 おれは指摘したが、ゆみこは首をふった。
「いいの。あなたに届いたと、そう思っておくの。写真と、手紙を入れるわ。ねえ、他の女のひとの写真なんか、捨ててね」
「でも、そりゃ送ってくれたひとに悪いよ」
「そうね。……じゃ、いいわ。そういえば、飛行機に乗るときって、みんな新しい褌を締めるですってね。本当?」
「そうしてる人もいるかもしれないけど、みんなじゃないよ」
 おれは、ゆみこの話のあまりの変わりぐあいに、頭が少々くらくらしてきた。なんだってこの娘は、そんなはしたない話をはじめるのか。
「あなたが飛行機に乗ってるあいだ、わたしも飛行機に乗っている気分になるの。だから。……ほら」
 そう言うとゆみこはプリーツのスカートをぱっとめくり、おれにスカートの中をみせた。真っ白なズロースが、おれの視界を支配した。ほんとうに真っ白な、まっさらのズロースだった。
 それからちょっと覚えていないのだが、気がついたらおれは、ゆみこを抱きしめていた。ゆみこの唇を吸っていた。ズロースに触ってみたかったのだが、それだけはできなかった。

 そのあと。
「これを」
 と、ゆみこは頬を紅に染めておれに小さな紙包みを渡した。おれがなにげなく、その場で開けようとすると、ゆみこはおれの腕にかじりついてそれをとめた。
「だ……だめっ! 開けちゃ!」
「え、開けないのか」
「お守りなの……弾に当たらない、おまもり」
 と、ゆみこはそれだけ言ってうつむいてますます真っ赤になった。弾に当たらなくても、おれ船に当たって死んじゃうんだけどな、と思いながらも、おれは礼を言って紙包みをポケットに入れた。ゆみこは何も言わずうつむいたままだったので、おれは髪に接吻して、ゆみこの肩を抱いた。それからおれは家に戻り、荷物を持って、駅にむかった。

 おれは小松に配属になり、予想通り桜花に乗って米戦艦に体当たりする訓練をうけた。ところが訓練の最中で日本は降伏し、おれは捨てるはずだった命と、酒保にたった一枚残っていたチョコレートをもって故郷にもどった。チョコレートをゆみこに食べさせてやるつもりだった。けれどゆみこの家はなかった。代わりに黒こげの炭がころがっていた。焼夷弾の直撃で全員死んだらしいと、おれの母親はおしえてくれた。
 おれはあの草っ原にいき、土を掘って小さな土饅頭をつくり、ゆみこの家の跡にあった焼けぼっくいをさしてそこに「ゆみこ」と書いた。そしてチョコレートとお守りをそこに埋めた。けれどそれをだれか見ていたらしく、つぎの日に行ったら、土饅頭はこわされ、チョコレートはなくなっていた。お守りの紙包みは破られ、縮れた毛が散らばっていた。おれはそれから、あの草っ原に行ったことがない。


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