下からこんにちわ

 野球ではよく「縦を制する者は天下を制する」と言われる。たしかに、フォーク、落ちるスライダー、ムービングファーストボール、などなど、縦の変化球全盛の世の中である。空振りを取れる落ちる球が、一流投手の条件とすら言われている。
 野球とは少し違う話だが、女性の胸部においても、これは正しい。インフォシークで検索してみた結果、「横乳」でヒットしたのが1362件なのに対し、「上乳」が1415件、「下乳」が1605件と、合計2967件で、縦が横にくらべ倍以上の人気を誇っている。まさに、「縦を制する者はエッチを制する」である。

 まさかご存知ない方がおられるとも思えないが、ここで若干の用語説明をしておこう。
 若い男性にとっては、乳でさえあればよい。若く美しいおなごが乳を放り出して見せてくれれば、それだけで満足である。いやいや乳どころか、肌を露出しただけで有頂天になる。水着でワクワク、下着でドキドキ、という、ある意味羨ましい年代である。少年マガジンのグラビアに興奮し、フライデーを裏庭で回し読みする、そんな時代は、ああ、もう永遠に帰ってこない。
 しかし二十歳を過ぎて落ちついてくると、それだけでは満足しなくなる。この情報化時代に溢れるグラビア、写真集で、すっかり不感症になってしまうのである。
 そこで誕生するのがチラリズムである。ほれほれ、とあからさまに見せる乳よりは、思いがけないところで、つい見えてしまった、見せてしまった、という乳をよろこぶようになるのである。つい見せてしまった女性の恥じらいの表情、などに欲情するのである。少年マガジンのグラビアが万葉的浪漫とすれば、チラリズムは新古今的浪漫である。美は退廃にあり。

 そこで登場するのが横乳、または縦乳である。
 横乳とは脇のあたりからこぼれ見えてしまう乳、または乳のラインをいう。具体的には、タンクトップ、チャイナ服などのノースリーブの衣服を着けた女性を、横から見たときの情景。乳のラインは、鎖骨中央からはじまって円形のラインを作り、脇の下で終端となるが、この終端付近が脇の下といっしょに視界に入るのである。女性の体格によっては、乳のボリュームが衣服を前方に押し上げるため、このラインが中盤あたりから見えてくることもあり、たまに乳輪までも露見することがあって侮れない。へたくそで申し訳ないが、絵で示すとこうなる
 縦乳には上乳と下乳がある。上乳はもっともポピュラーなもので、ブラジャーや水着、胸元の大きく開いた衣服をつけた女性の、いわゆる「胸の谷間」のことだ。チラリズムの入門篇とでもいおうか。もっともポピュラーなだけあって、偽装技術も早くから発達している。「寄せて上げるブラ」などの武器に騙されぬ眼力が必要とされる。上乳の場合、乳輪が見えることは滅多にない。乳輪が見えるほど開けてしまったら、それは衣服ではない。
 上乳は程度の差こそあれ、たいていの女性に発生するものであるが、下乳は稀である。条件としては、女性の乳がある程度大きいこと。最低、乳のラインが下端で線として存在することが必要である。つぎに腹部の露出した衣服で、できればサイズが小さく、生地が柔軟性に欠けること。胸を完全に覆い隠す衣服では発生しないし、伸縮する生地では、その柔軟性で下乳を包み込んでしまう。ルーズで、しかもサイズの小さく、ごわごわした衣服が必要である。たとえばジーンズのシャツを、胸の下のところで引きちぎってしまったような衣服が最適である。すると、衣服の下部から、ちらりと胸の下線がこぼれる。おめでとう、これが下乳です。またもへたくそで申し訳ないが、絵で描くとこうなる
 下乳において、乳輪が見える、ということは、乳房がかなり下方に垂れている、要するに萎びている、ということを示すので、喜ばしい、というよりも、むしろ悲しむべきことだ。

 さて縦と横はどちらが素晴らしいか、これには多くの論議が費やされてきた。上乳はこの場合、あまりに初歩的なので除外される。横乳と下乳、どちらが美しいか、どちらが愉しいか、という議論だ。
 横乳派はいう。「脇を締める」とか「脇が甘い」という言葉にもあるように、脇は人間の弱点である。その脇から乳房がこぼれる、という情景は、女性のもっとも無防備なかたちであり、だからこそもっとも美しい。横乳をつんつんと中指でつつくことこそ、男の浪漫、漢の美学。
 下乳派は反論する。めったにないことだからこそ、珍重したい。下乳は数多くの条件をクリアしてはじめて出現する。その難易度は、横乳とはくらべものにならない。まさにエロス界の裏技、乳房界のハレー彗星である。これを崇めずして、漢といえようか。こぼれる下乳を手のひらに包み込んでそっと押し上げてやる、優しく悩ましい愛の姿が、そこにはある。
 私はいう。どちらの意見ももっともだ。横乳には横乳の夢があり、下乳には下乳の感動がある。夢と感動をあなたに。
 ただ言えることは、下乳はおそるべきパワーを持つ、ということ。

 むかし、「十五少女漂流記」という映画があった。
 ミュージシャンの喜多郎が、はじめて監督した作品だったと思う。奥山佳恵をはじめとする女子高生たちが夏休みに訪れた南の島で難破し、サバイバル生活を送るという話だったと思う。こういう話にはつきものの仲間割れや喧嘩、リーダーの資質を問われる場面も、もちろんあったと思う。ひとりが恋人の子供を出産してしまう、などというシーンもあったような気がする。
 すべて「思う」とか「気がする」で曖昧きわまりないのだが、それもこれも下乳の威力のしからしむところである。
 なにしろ漂流生活だから、服などはぼろぼろになってしまう。おまけに南の島だから暑い。ひとりの少女はジーンズの裾をちぎって半ズボンに仕立て、ちぎった裾を胸に巻いてブラジャー代わりにしていた。これが見事に、下乳を露わにしていたのである。
 もうスクリーンが涙で曇るほどの感動であった。感動のあまり、他の場面などあらかた忘れてしまった。もはや「十五少女漂流記」=「下乳映画」としてインプットされてしまい、些細なストーリーや演技などは入る余地などない。
 下乳というのは、そのくらいのパワーを発揮するのである。願わくばこのパワーを、有効利用されんことを。


戻る          次へ