先祖ばなし

 ここ2、3年で、母方の祖父母が相次いで死んだ。
 元気だった祖父が心臓発作で急死すると、後を追うように次の年祖母が死んだ。
 その祖父が残していった資料がある。

 祖父の先祖に、稲垣隆秀、号は子華という男がいた。
 地元の岡山県津山では、やや有名な人物だったらしい。
 なにで有名かというと、親孝行である。

 たとえば、こんな話がある。
 隆秀が浅之丞といった少年時代のこと。
 外に出かけようとすると、父が、
 「昨日の雨でぬかるんでいるから、下駄を履いた方がいいだろう」といった。
 母は、「もうやんだのだし、草履でいいでしょう」といった。
 そこで隆秀は、片足に下駄、片足に草履を履いて出たという。

 またあるとき、父が浅之丞に、
 「この橋はあぶないから渡ってはいけない」といった。
 それを守って死ぬまでその橋を渡らなかったという。

 何というか、いかにも昔の修身教科書好みの話である。
 今の世の中で通用する話ではない。
 今なら、「橋が危ない」と言われたら、発奮して安全な橋を作るようなポジティブな態度が求められるところだ。

 ともあれ、隆秀、決して親孝行だけの男ではなかった。
 学識は相当のものだったらしい。
 祖父もそのあたりを調べ、本にでもまとめようと考えていたのかもしれないが、果たせず死んだ。
 私にはそれを継ぐ力はない。
 ただ、祖父の残した資料のほんのさわりを、ここにのせるだけだ。

 隆秀、号して子華。幼名浅之丞、享保7年(1722)、美作の国田殿に生まれる。
 先祖は美作の大名、森氏に仕えていたが、森氏に子がなくて家が絶えたとき、帰農したらしい。
 11歳の時、学問に志して上京する。
 おそらくは家名をあげようという燃えるような思いであろう。

 翌年、大阪の懐徳堂に入門する。
 懐徳堂とはなにか。
 大阪の、町人によって運営された、漢学塾である。
 「入塾に身分を問わず、貧乏なら教科書も買わず、話を聞くだけでもいい」
 という、自由な塾風である。
 それでいて江戸の昌平校と並び称されるくらい高名であった。
 朱子学が中心ではあるが、それ以外の儒学をも教え、仏教や蘭学さえ行われていたらしい。
 合理主義の立場から儒・仏・神を比較した「翁の文」を書いた富永仲基、朱子学のほか天文学、算学、蘭学をもとりいれて迷信を排撃し、合理主義を語った「夢の代」の山片蟠桃という、現代にも通用する思想家がここから出ていることを思うと、むしろ懐徳堂の根本は、朱子学でなく、「大阪流合理精神」「商人式合理精神」ではなかったかと思わせる。
 昌平校のように侍階級に限らなかったところ、商人中心で悪く言えば商人の「道楽」であったところ、これが自由な学風を生んだものと思われる。
 立身出世をしようと思うと、官学の朱子学を学ばねばならぬが、どうせ道楽である。なんでもあり。

 そんな懐徳堂で、隆秀は、ひたすら真面目に儒学を学んだようである。
 学問は進み、またその生真面目なところはみなを感心させた。
 時期的には7歳年長の富永仲基と会う機会もあったはずだ。
 小説家ならこのあたりで劇的な出会いをさせたいところである。
 しかし、富永思想に影響された様子もない。隆秀は、あくまで朱子学の人であった。
 立身出世の人でもあった。

 美作の百姓のせがれである隆秀は、貧乏であった。
 おそらく空腹で黄色い顔をしながら本を読んでいたことだろう。
 懐徳堂学長の中井愁庵がそれを哀れみ、公家の用人の勤め口を見つけてくれた。
 しかし勤まらず、すぐ戻ってきたという。
 真面目だけがとりえの、世間知らずの田舎少年には、つらい職場だったろう。

 このころ武士の養子になる話があったらしい。
 もちろん、百姓から武士になるのは、名誉な話である。
 ところが隆秀はこれを断った。
 「大藩の家老の家を継ぐのならいい。それでなければ嫌だ」といって。
 親戚のものは狂人かとあきれた。
 おそらく隆秀は、稲垣家という家名に、こだわりがあったのだろう。
 稲垣家を捨てて立身しても、意味のないことだったのだ。
 大藩云々は、少年客気の言であろう。

 寛保元年(1741)、20歳になった隆秀は、儒学をもって安志藩に仕えた。
 1万石という大名ぎりぎりの小藩ゆえ、たいした俸禄ではないが、それでも稲垣家のままで侍になれた。
 生家にも近く、母を亡くした父に孝養も尽くせる。
 師匠の中井愁庵はその辺も考えて、子華を安志藩に推薦したのだろう。

 ところが、その安志藩を辞めてしまう。
 実家に帰って父の世話をしたい、という理由である。
 父を安志に呼び寄せようとしたが、生まれ育った土地を離れることを拒んだ。
 それで、自分が父のところに戻ろうと決意したのである。
 藩でも驚き、盛んに慰留したが、隆秀の決意は固い。
 やむなく、孝養が済んだら戻ってくると約束して、許したという。
 
 武士を辞めて実家に戻った隆秀は、百姓をやりながら、塾を開き、子弟を教えた。
 もちろん父親の世話もしていた。
 このころ妻を娶り、夫婦で父親の世話をしていた。
 貧乏暮らしだったらしい。
 たったひとりで井戸を掘ったという話も残っている。

 そんな生活を10年。
 宝暦13年(1764)、幕府から「右の者孝行奇特」ということで、銀20枚を下し褒賞した。
 これで世間に知られるようになった。

 そののち父も死に、隆秀は安志藩に戻ったらしい。
 一時期懐徳堂に戻っていたこともある。
 このとき、山片蟠桃に会っていたこともあり得る。
 隆秀は46歳、蟠桃は22歳。
 隆秀は教師としては温厚で親切であり、懐徳堂でも安志藩でも私塾でも、門人に慕われていた。
 蟠桃に漢学の指導をしていたかもしれない。
 私塾は安志藩で続けていたらしい。
 その門人に、幕末・明治期に洋学者として活躍した箕作阮甫、麟祥親子の先祖で、阮甫の祖父に当たる丈庵がいた。
 どうも隆秀という男、人生を有名人に彩られながら、自分は地味で終わる宿命らしい。

 隆秀が死んだのは寛政8年(1796)。
 門人、親戚が集まって追慕碑を建立した。
 幸福な生涯だったと、言えるのではないだろうか。
 小説にはなりにくい幸福さである。



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