司馬遼太郎著作内銃器リスト

 司馬遼太郎の幕末ものには、ゲベール銃やミニエー銃など、当時の最新鋭だった銃器の名称がよく出てきます。あるとき、とある好事家の友人と話をしていて、この銃器達が話題になりました。当時の技術革新の精華とも言うべき銃器の、司馬遼小説での扱いがそれからも気になり、作ったのがこのリストです。なお、性能については所早吉「図解古銃事典」を参照しました。

なお、目次は五十音順、項目は銃器の発明年代順に並べました。

もくじ

エンフィールド銃

ゲベール銃

シャープス銃

シャスポー銃

スナイドル銃

スペンサー銃

マルチネー銃

ミニエー銃

ヤーゲル銃


ゲベール銃

「英雄児」

 被害は、南部藩を除く他の東北諸藩で、多くは、欧米のどの陸軍でもすでに廃銃になってしまっているゲベール銃を売りつけられた。諸藩の役人には、兵器知識がない。みな満足した。第一、「洋式銃」というだけで、藩に帰っても十分言いわけが立つのである。

 が、ゲベール銃というのは、発火装置が火縄のかわりに燧石になっているだけで、弾は先込めであり、銃腔内は滑唐である。その点、種子島とかわりがなかった。

 発射操作に時間がかかり、ゲベール銃一発うつごとに他の新式銃では十発射つことができた。この比率が、鳥羽伏見における会津軍と薩長土の勝敗の決定的なわかれ目だったことを、継之助はよく知っている。

「峠」

 ちなみに、ここ二、三十年ほどのあいだ、欧米における銃器の発達は驚異と言うべきもので、きのうの銃は今日の廃品とすら言いうるほどの勢いであった。

 例えば、同じ洋銃といってもゲベール銃などというものは欧米では過去のものである。これは銃身みじかく銃口粗大で命中率が悪いうえに、先込銃であった。弾を銃口からころがす。いや、その前に炸薬を銃口から入れ、細長い鉄棒(朔丈)をさし入れて十分に銃尾を固定させ、しかるのちにまるい弾をころがしこむ。発火装置は、ヒウチイシである。引金をひくと石火を発し、その石火が炸薬に引火し、爆発し、その圧力で弾がとびだすのだが、構造的には日本の火縄銃とかわらず、装填操作がじつにてまどる。

「竜馬がゆく」三都往来

「一挺、五両です」

と、グラバーが言うと、饅頭屋は「ノーノー」と呼び、

「そんな安いものはだめだ。そいつはゲベール銃だろう」

といった。ゲベール銃とは、発火装置が火ウチ石式になっている。引き金をひくと現今のライターのようにパチッと火を発し、それで銃尾の火薬が爆発し、弾がとぶ。ただ銃口から弾をころがしこむ式で装填に時間がかかり、しかも、命中精度がひどくわるい。この式が、欧米の陸軍国の制式銃であった。

 日本の幕府の洋式装備軍も、おもにこの銃なのである。

「ゲベールが一挺五両とは、安いではありませんか」

と聞多が小声でいうと、饅頭屋は手をふり、

「あれは世界的に安くなっているのですよ。しかしゲベール銃では長州は幕府に勝てませんよ」

「花神」

 まず先頭に銃隊がでた。銃を発しつつ進む。気の毒なことに、その銃は旧式の滑唐式のゲベールか火縄銃で、粗大な音が出るばかりで、弾はせいぜい百数十メートルほどで効力を失ってしまう。

「燃えよ剣」

 幕府歩兵隊こそフランス式であるが、旗本の諸隊、会津以下の諸藩兵は、ほとんど日本式で、刀槍、火縄銃を主力兵器とし、わずかに持っている洋式銃も、オランダ式ゲベール銃という、照尺もついていない粗末な旧式銃である。

「アームストロング砲」

 佐賀藩の「文明」にくらべれば諸藩など、およびもつかなかった。箱根以東の諸藩が、鉄砲といえばなお火縄銃のことだとおもっていたころに、この藩の銃器工場ではすでに雷管式のゲベール銃を国産していた。

 それらの後進藩が、

「鉄砲は洋式銃でなければならない」

 と気づきはじめたころには、この藩では雷管式洋銃をぜんぶ他藩にたたき売って、世界で最も新鋭な、後装式の単発銃を買い入れていた。

 ・・・思いきりぼろくそである。司馬遼小説では、ゲベール銃は他の新式銃の引き立て役でしかない。「洋式銃界の木村健吾」と言われているのもうなずける。

 ゲベールとはオランダ語で「小銃」の意味。それが日本では固有名詞になってしまった。1670年、フランスで採用されて以来、18世紀の間ヨーロッパ各国で用いられていた。日本には1832年、高島秋帆が輸入したのが始め。幕末には佐賀、薩摩、国友村(戦国以来の鉄砲鍛冶の本場)などで国産されるようになっていた。

構造は書かれているとおり。発火方法ははじめ燧石式だったが、のち雷管式に改良された。産地がまちまちなので口径、寸法はさまざまである。

 火縄→燧石→雷管と発火方法は進化したと一般に考えられている。しかし、火縄式発火が燧石式になったのを単純に改良とはいえない。確かに燧石は火縄に比べ雨風に強いが、燧石に引き金を強く打ちつける必要があり、そのために照準が狂いやすい。平和な江戸日本では銃といえば戦争用でなく狩猟用であり、雨の日は狩猟を休めばよい。そのために燧石は採用されなかったのである。

ヤーゲル銃

「燃えよ剣」

「こんなことは、和文の中のカナ文字だから見当はつきますよ。しかしこれは旧式のヤーゲル銃の操法ですな」

「そうです」

「あいつは会津も持っていてさんざんやられたから、新式銃のはありませんか」

「いや、銃の操法はちがいますが、隊の仕組みはかわりません。だからその本でも多少のお役に立つでしょう」

 ゲベール銃の銃腔に7条の施条をほどこした狙撃用の銃。ゲベールとほぼ同時代、ゲベールは一斉射撃用、ヤーゲルは狙撃用と使い分けられた。ヤーゲルとはオランダ語で猟師の意味。ゲベールと同じく、はじめは燧石式だったがのちに雷管式に改良された。

ミニエー銃

「英雄児」

「それに、私はこのアメリカ銃を好まない。なぜなら短かすぎる。彼の国ではおそらく騎兵に持たせたものであろう。銃は白兵格闘の場合には槍の役目をし、しかも槍術は古来わが国が世界一だと思っている。長い銃がいい。ミニエー銃にしよう」

 薩長が使っている英国製の銃で、英国ではすでに制式銃からはずされているため値は安い。

「喧嘩草雲」

「足利戸田家は、たかだか一万石だが」

 と古屋は信ぜず、自ら斤候に出かけ、その目でたしかめてさらに驚いた。上士全員が洋式銃隊員で、その銃は元込め、椎の実型の弾の出るミニエー銃であった。

「峠」

「こんど手にいれた洋式銃(編者注:ミニエー銃)というのは、弾が丸かねえ。椎の実のようにさきがとがっている。こいつはよく飛ぶし、命中度も他の銃の比ではない。銃の構造もちがう。元込で、操作もうそのように簡単だ。引き金をひくと激針が飛びだし、雷管を撃つ。その爆発で弾がとびだす仕掛だ。その操作の早さは、ゲベール銃を一発うつあいだに十発うてる。ということはわが長岡藩は七万四千石の小藩であるが、この銃を全員にもたせることによって七十四万石の大藩に匹敵する」

「峠」

 ところが、意外であった。一挺が三十両という高直なものであるのに、上士のことごとくが払い下げを希望したという。

「竜馬がゆく」三都往来

 饅頭屋は、すでに欧米ではミニエー銃というのが現れていることを知っている。これは従来の小銃史を革命せしめるもので、元込式であった。しかも弾にはじかに火薬筒がついており、引きがねをひくと激針が動き、雷管を撃ち、その爆発によって弾がとぶ。命中精度はひどくよく、それに操作が簡単で、ゲベール一発うつあいだに、ミニエー銃なら十発はうてる。つまりこれを装備すれば、長州兵一人が幕兵十人に匹敵する、というものであった。

「ミニエー銃はあるか」

と、饅頭屋はグラバーにきいた。

「ある。上海からとりよせる」

「いくらだ」

「十八両」

と、グラバーはいった。

 なるほど、ゲベール銃よりもひどく高い。が、その値だけのことはあるだろう。饅頭屋は「十八両は高い。まけろ」と交渉しはじめたが、聞多と俊輔はとめ、

「武士の買いものに、値切るのはおかしい。それが正当な価格なら、それでいい」

といった。

 数は四千三百挺、ということに決まった。七万七千四百両である。

饅頭屋はさらに、聞多と俊輔に、

「どうせ安いんだ。ゲベール銃も三千挺ばかり買っておきなさいよ」

とすすめた。

「ゲベールは役に立たぬ、と足下はいま申されたばかりではないか」

「いや、使いようによる。軍を進めるとき、前隊に持たせ、ぐわぐわーん、と一斉射撃で敵をおどしてから、中隊のミニエーが躍進し狙撃する。要するに使いかたです」

と、饅頭屋は、高島秋帆に洋式砲術を学んだだけにそんなことにもあかるかった。

「燃えよ剣」

 土方は、これら新徴の連中に洋式軍服を着せ、即成の洋式調練をほどこした。

 訓練といっても、ミニエー銃(元込銃)の操法だけだが、近藤は、

「歳、いつのまに身につけた」

と、おどろいた。

「燃えよ剣」

 門わきには彦根兵がむらがり、旧式のゲベール銃を射撃してくる。

 こちらはミニエー銃で撃ち返しつつ、迫った。

「燃えよ剣」

「まあ、足りるでしょう」

と、歳三はいった。鳥羽伏見では薩長のミニエー銃に負けたが、今度はこちらがミニエー銃をもち、相手は火縄銃と五十歩百歩のゲベール銃しかもっていない。

「花神」

 蔵六の返答は簡単であった。

「施条銃を一万挺そろえれば勝てます」

 桂は、蔵六を信じた。

「それだけで勝てますか」

と、よろこんだが、ただし施条銃一万挺などというものは、じつは上海や香港にもない。しかしながら施条銃一万挺さえあればその旋回銃弾によって歴史を旋回することができるだろう。

 施条銃、装条銃といってもいい。

 要するに、ライフル銃のことである。銃身内部に螺旋状のみぞが切られていることは、すでにのべた。桂はその手紙の中で、

「長キミネー」

という言い方でライフル銃のことをいっている。この時期の長州藩は、この小銃をまるで宝石をみるように渇仰した。

 このころ長崎にいたオランダ人も、日本人の技術者から、

−みぞを彫る法は如何。

と質問されても、返答しなかったといわれている。

 このころ、ヨーロッパのいわゆる列強にあっては、陸軍の制式銃をやっと施条銃にきりかえたころで、一部なお旧式のゲベール銃を使っているところもあった。ゲベール銃は命中率が低いため、これを鳥の群れでも追っぱらうような使い方で使った。つまり、密集隊形の敵と遭遇した場合、ゲベール銃を発射してその隊形をかき乱すことに使おうとしていた。

 が、要するにゲベール銃は旧式で、制式からほぼ外され、大量に廃銃になりつつあるため、これを技術の未開国に売りつける必要があった。長崎や横浜の貿易商も、仕入れ値が安いため最もぶのいい商品として日本人に売りつけようとしており、これがために施条銃の存在を日本人に知られたくなかったにちがいない。

「花神」

 このときこの両人が買いつけに成功した武器というのは、

 ミニエー銃 四千三百挺

 ゲベール銃 三千挺

 計九万二千四百両

「燃えよ剣」

 人数は二百人あまり。

 異様である。洋服に白帯を巻き、大小をさし、すべて新式のミニエー銃口径十五ミリをかつぎ、指揮官まで銃をもっている。

「燃えよ剣」

「こっちも鉄砲、鉄砲」

と、権助老人は会津の銃隊を督励するが、なにぶん火縄銃が多い。

 操作におそろしく時間がかかるうえに、有効射程がせいぜい一丁ほどのものだ。

 薩長兵は、ミニエー銃で装備している。当時、薩摩藩では、国許と京都藩邸に工作機械が据えられており、ほとんどの銃は、藩の製造によるものである。それらの銃は、長州軍にも無償で渡されていた。性能も外国製にほとんど劣らない。

「燃えよ剣」

 しかし、一軍、惨として声がない。みな、伏見口で、おそるべき銃火をあびた。薩長軍の元込銃は、会津藩のサキゴメ銃が一発うつごとに十発うつことができた。会津の火縄銃などは一発弾ごめしているうちに、むこうは二十発をあびせてきた。

 1846年、フランスの歩兵大尉ミニエーが新式の銃弾を考案した。椎の実型の鉛弾にくぼみを作り、その後ろに栓をはめる。銃を発射するとき、発射の圧力で栓が鉛弾のくぼみに食い込み、弾のすそを広げる。このため、弾が銃腔の溝にくいこみ、よく旋回するので命中精度がよくなる。また圧力が隙間から逃げることなく、射程距離も伸びた。この弾を使用する銃がミニエー銃である。

 全長1410ミリというからたしかに長い。普通の銃は1200ミリから1300ミリ、騎兵用銃は1000ミリ前後である。確かに銃剣としてはいいが、河合継之助のいうように威力を発揮したか。長州兵の間では銃剣というのは非常な不評で、大村益次郎もこれで苦労したことが「花神」にもある。大村の下で奇兵隊隊長をしていた三浦悟楼などは、その回顧録で、

「銃剣はあの藪の中へ棄てておけ。あとのものは一報次第直ぐ抜けてこい。それまでは決して動くな」

 と告げてそのまま出陣した。当時、銃剣は兵隊どもの非常に厄介視したものであった。

「両刀があるのに、こんな切れもせぬものを付けて何になるものか。厄介で厄介で仕様がない」

などとすこぶる苦情を唱えたものである。我が輩が今その銃剣を棄てさせたものであるから、兵隊どもは皆大満足である。この些々たることがなかなか士気の振興を助けるものであった。

と、威張っている。

 司馬遼太郎はミニエーをよく元込銃と書いているが、これは誤りで、先込である。ミニエーをのちに元込に改造し、スナイドル銃やアルビニー銃を制作しているので誤解したものと思われる。

 饅頭屋は18両、継之助は30両で購入しているが、継之助がふっかけられたのか、それとも国際港の長崎だから安かったのか?


エンフィールド銃

「英雄児」

 さらに継之助は、エンフィールド銃をとりあげた。同じ英国製である。ミニエー銃を元込にしたもので、新式だけに値が高い。それにわずかな量しか、横浜、上海、香港にきていなかった。

「肥前の妖怪」

 さらに、銃である。銃は、欧州の戦乱によって、彼地では日進月歩しつつある。それまで佐賀藩では燧石発火装置による円弾銃(ゲベール銃)を制式銃としていたが、閑叟は英国ではすでに砲腔内に施条のある銃でしかも弾は椎ノ実型という新銃(エンフィールド銃)が発明され、その命中精度と射程、威力は旧式銃を鉄クズにさせつつあることを知り、その数挺を苦心のすえ手に入れ、その製造方を藩当局に命じた。

 幕末も煮えつまった鳥羽伏見の戦いのときでさえ、天下の諸侯のほとんどは種子島銃を用い、洋式銃といえばおもに佐賀藩がとっくに廃銃にしたゲベール銃であり、施条銃腔で椎ノ実弾を用いる銃を完全にそろえていたのは佐賀藩だけであった。

「ミニエー銃を元込に」というのも誤りで、ミニエーを改造したものだが、これも先込である。改造点は火門蓋を鎖で結んで保護していることと、弾丸が栓で広がるのではなく、発射圧で広がるようになっていること。1853年にイギリスで制式銃とされた。これものちにスナイドル銃、アルビニー銃など元込銃に改造された。

スナイドル銃

「歳月」佐賀城争奪

 いま(編者注:佐賀の乱時)佐賀氏族が使っている鉄砲は長崎でにわかに買い集めたものが大部分であり、小銃のほとんどが命中率の悪い旧式のゲベール銃か重心の長大なミニエー銃であり、スナイドル銃程度でさえわずかしかない。

「翔ぶが如く」東京獅子

さらには私学校では、各自が、洋式銃一挺と弾薬若干を自分で買って所持することを奨励していた。武士は武器を自分でととのえるというのが封建制以来の慣例である。ただこの頃洋式銃は一挺三十円くらいだったらしく、貧乏な士族では買えなかった。

「翔ぶが如く」地鳴

 その点も、林有造は手配していた。彼は上海と横浜に商館をもつ「ローザ」というポルトガル人からスナイドル銃三千挺を購入する話をすでにつけていた。一挺につき十五円、金額四万五千円で、この購入資金は、立志社所有の白髪山がたまたま政府に十五万円で買い上げられることになっていたので、それを当てることにした。

「翔ぶが如く」二・二二の戦闘

 スナイドル銃が銃器としてすぐれているのは発射操作がすばやくやれることと、着剣したまま射撃できることだった。つまり最後の一発を射ってから突撃と白兵戦に移行できるのである。

「翔ぶが如く」田原坂

 薩軍が持っている多くの銃は、弾を込めると、次いで薬包を押しこめ、しかるのちに構えて発射するというもので、この点、スナイドル銃の銃弾は薬莢に弾頭がついているため装填と撃発はきわめて容易であった。

「翔ぶが如く」田原坂

 もっとも薩軍が持っているコンフィール銃は、硝薬を濡らすと使いものにならなくなる。(中略)この点、政府軍のスナイドル銃は薬莢がついているために天候に左右されることはない。

「花神」

 蔵六は、兵力不足を火力でおぎなおうとしていた。そのため横浜の外国商館をしらべさせたところ、英国商館が多量のスナイドル銃をもっていることを知った。スナイドル銃ならねがってもない。今日本にきているいかなる後装銃よりも性能がよく、命中精度もよい。

 ついでながら、明治十三年、当時の世界でもっと性能がよいとされた村田経芳発明のいわゆる村田銃が制式銃になるまでは、明治四年以来、明治陸軍はこのスナイドル銃を制式銃としたが、その最初の決定はこのときであった。

 1864年イギリスで、先込のエンフィールド銃を安価に元込に改造する方式として採用され、制作された。銃身の基底部を改造し、蝶番のついた扉を開くようなかたちであけ、そこから弾をこめる。改造されたものが輸入されたものが多いが、日本で改造されたものもあり、中には和銃を改造したスナイドル式の銃もある。

 同じ西南戦争の時期に、横浜では十五円、鹿児島では三十円というのは、地域格差?それとも需要と供給か?(ちなみに弾薬は一発二銭がのち十三銭まであがったとのこと)この当時の物価として、鰻飯一杯十銭、役所勤めの月給が七、八円、知事クラスだと二百五十円。1997年時点で200万円から300万円といった感じか?

 薩軍が持っていたというコンフィール銃は辞典にはないが、文意を考えると前装施条のエンフィールド銃のことであろうか?(エンフィールド銃を後装の薬莢装填式にに改造したのがスナイドル銃)

スペンサー銃

「竜馬がゆく」

 七連発のライフル銃である。

ちなみに、竜馬のこのころまでの十数年という歴史的時間は、世界的な規模での小銃の発達期であった。たとえば日本における洋式銃の代表的なものは、ゲベール銃といわれるものである。

 火縄銃とあまりかわらない。発火装置が火縄の代わりに発条を用いた燧石になっているだけのことで、弾は銃口からころがし入れる点も火縄銃と同然である。このゲベール銃を幕府や先進諸藩が買い、それをもって「洋式兵備だ」とした。長州藩もこの点同様で、ゲベール銃が主力火器であった。

 ほどなく欧米で元込銃が開発され、それがおそるべき新式兵器として日本にも入ってきた。弾を銃尾で装填する。このため一発を射つ速度がゲベール銃の十倍の速さになり、この銃を装備すれば兵力は一躍十倍の力になりうる。しかもこの元込銃は、銃腔に施条がきざまれており、椎の実型の弾が旋回しつつ飛ぶため、射程も伸び、命中精度ですぐれ、それやこれやで「元込式施条銃」の出現は過去の銃を廃品にしてしまった。

 しかし、この新式銃も、幕府、薩摩藩、長州藩、佐賀藩、土佐藩くらいがごく小数量を手に入れている程度で、東日本の諸藩などはなお火縄銃を主力火器とし、わずかにゲベール銃をもっているにすぎなかった。

 ところが竜馬がもってきたこのライフル銃は、それほど貴重な「元込式施条銃」をさえ廃品にしてしまうほどの新式のものであった。従来の小銃はすべて単発であったのが、これは七連発なのである。

「このライフル銃を千人に装備すれば、三万の敵にあたることができる」

 このライフル銃を持つかぎり土佐藩は日本最強の藩である、と竜馬はいった。

 竜馬は銃をとりあげた。

 銃身に、一八六〇年、ニューヨーク州、と刻まれている。

「弾は、こうしてつめる」

 竜馬は槓桿を操作してかちりと遊底をひらいた。さらに右手をのばして弾薬箱をひきよせ、ふたをひらいた。なかに百二十発の弾が入っている。

「弾はこれでござる」

 さきの尖った椎の実型の弾をつまんだ。みんな声をのんだ。弾といえば兎の糞のようなまるいものだが、竜馬の指と指の間にはさまれている物体はひどく先入主とちがっていた。

「まるから尖頭形になった、というだけで世界の歴史というものは変わるものだ」

 竜馬は遊底へ七発押し込み、がちゃがちゃと槓桿を操作して装填をおわった。そのまま銃を構え、窓の向こうの海に照準し、

「これで七発連続に撃てる」

といったが、しかしひきがねはひかなかった。みな、言葉をうしなった。

 銃身の末の槓桿がひきがねと一体になっており、撃鉄を起こしてからひきがねごと槓桿を押し下げ、弾をこめる。

 小説にある通り、1860年アメリカで発明され、南北戦争で活躍した。日本では慶応年間、佐賀藩が購入した。1挺37ドル80セントというが、何両に当たるのだろうか?

シャープス銃

「英雄児」

 スネルはすぐ店員に命じて、各種の銃をならべさせた。さすが、継之助に対してゲベール銃を見せるという愚はしなかった。まず、薩長や幕府歩兵が持っているミニエー銃を見せ、「射程が長い」といった。

「わかっている」

と、継之助はいった。ついで、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃、シャスポー銃、スペンサー銃などを見せた。

 スネルは、米国製のシャープス銃をしきりとすすめた。銃身が短く、取扱いが軽快で、しかも精度のよい元込銃である、と。

 スペンサー銃に外観が似たアメリカの銃。単発式と思われる。歩兵銃は1195ミリだからそれほど短くはない。おそらく小説の銃は騎兵用の990ミリのものだったのだろう。

シャスポー銃

「アームストロング砲」

 仏軍は約五万、独軍は約八万、ほとんど倍近い人数の敵を仏軍は破っているのである。閑叟はその勝利の秘密が、仏軍のみが持っているシャスポー銃という連発銃によったのであると知ると、すぐ長崎駐在の藩吏にそれを購入するように命じた。

 ボルト・アクション式と言われる、槓桿の取っ手を回転させて鍵をはずし、後ろに押し下げて銃尾をひらく方式の銃である。この方式は開閉が確実で構造が簡単なため故障が少なく、1840年、この方式の始めのドライゼ銃が発明されて以来、日本の村田銃など主流方式となり第二次大戦まで使用された。

 1864年、フランスでドライゼ銃を改良してシャスポー銃を制作し、制式銃とした。日本には慶応二年、ナポレオン三世から幕府に2000挺が贈られたのがはじめ。弾丸、火薬、雷管を一体化した薬莢を使用した点でも革新的な銃である。

 

マルチネー銃

「翔ぶが如く」露の坂

 桐野利秋は、すでにふれたように、単衣の着流し姿である。歩きながら裾のからげを大きくし、さらに両肩のたくしあげをいっそう高くして、従僕の中村幸吉から7連発のマルチネー銃をうけとった。

1874年式ヘンリー・マルチニー銃は、レバーを押し下げることにより撃心をもつ底碪が下降して薬室が開く、いわゆる底碪式銃である。撃鉄や諸機関を内蔵しているので悪天候や水、砂に強いが、、ちょっと見たのでは発射の準備ができているのかどうかわからない、そそっかしい者には不向きの銃である。日本海軍で採用されたが、反動が大きいのが欠点とされた。

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