刀剣の故郷を訪ねて

 6月に妹が岡山で結婚式を挙げた。
所は新見、岡山から特急で1時間強の山村である。横溝正史「八つ墓村」の舞台である。あの小説の通り、村には博労と鍾乳洞が豊富である。

 新見まで行く途中、岡山から赤穂線に乗って長船に寄り道した。
 長船といえば、備前長船で有名な刀剣の産地である。備前長船博物館という立派な博物館もある。

 駅を降りて博物館を目指したのだが、恒例により道に迷ってしまった。

 駅前でタクシーを拾おうとしたが生憎見あたらない。
 駅周辺には「備前長船博物館」と矢印が書いただけの頼りない標識が1枚あるだけだ。
 ままよ、間違いはあるまい。近くまでいけばまた看板などもあるだろう、と思って歩き出した。
 (道に迷う要因1:過度な楽天的態度)
 (道に迷う要因2:あいまいな情報)

 看板などなかった。歩けど歩けどそれらしい建物などなかった。
 ついに建物もなくなり、周囲は田んぼ一色に塗りつぶされた。
 やむなく草取りをしているおばさんに道を尋ねた。
 さいわい、おばさんは愛想良く道を教えてくれた。
 こっちの道をまっすぐ行って小学校の先の十字路を左に曲がって、それからどうこう歩くと何かが見えるからどっちかの方向に行け、というような内容だった。
 後ろの方は覚えられなかった。
 まあ、これだけ聞けば十分だろう、後は何とかなるだろう、と思い、おばさんに礼を言って歩き出した。
 (道に迷う要因3:情報蒐集の不足)

 しばらく歩いたが、工業団地のような所に迷い込んでしまった。これは違う、と思い、左に曲がってみた。実はこの道をまっすぐ、もっと先に歩くと博物館だったのだが。
 (道に迷う要因4:自分勝手な判断)

 左には曲がってみたが高速道路に入り込みそうになったので慌てて引き返した。自分でも覚えていないほどうろうろと徘徊するうち、ようやく「博物館」という標識が目に入った。時計をみると、もう3時近く。ほぼ2時間ほど道に迷っていた計算になる。

 博物館には平安から現代までに至る、20振りほどの備前刀が展示されていた。ほかに鍔や拵えなど。また併設の民俗資料館には刀工の使う道具などが展示されている。
 入館料300円。入り口でパンフレットをもらう。
 またここでは「まんが備前長船」なるものを100円で購入する。大笑いできるのではないかとひそかに期待して。なにせこういう漫画は、学芸員が自分の趣味で描くことが多い。セーブする人がいないので趣味が暴走することが多々ある。私は昔、吉野ヶ里のパンフレットで、ひどく少女漫画の弥生人を見たことがある。しかしここのは期待はずれだった。絵も内容もまっとうな学習漫画であった。

 平日のこととて客は私のほか1組だけ。それも早々に帰ってしまったので私一人になる。
 ということで禁止されている内部の写真をこっそり撮す。この刀は無銘ながら古備前の正恒と伝えられる平安時代の作である。
 博物館に隣接して、今泉俊充という最近死んだ刀工の仕事場を再現した民俗資料館がある。写真中央で偉そうにしているのが電気ハンマーである。芝居などでよくある、親方と弟子がとんかんとんかん、と刀を打つシーン、今はないのですね。弟子の相槌は中央の電気ハンマーで代用されている。

 博物館の敷地内では、たたら製鉄の釜を造っている最中であった。日曜日などは、ここで古式に則った鉄を造り、それで刀を打ってみせるそうだ。

 備前長船は、平安から室町にかけて栄えた。
 鎌倉の頃、承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、乱を起こすだけあって武張ったことが好きだった。上皇はみずから各地の刀工を御所に集め、月単位に当番を決めて刀を打たせた。福岡一文字派の則宗などもこれに選ばれ、菊の紋を刀の銘に切ることを許されたのが、有名な菊一文字の起こりである。(しかし実際に菊を銘に入れたことはないらしい)この則宗を含め、備前長船の刀工が12人中10人を占めたという。(まんが備前長船より)

 そんな長船が衰えたのは戦国の頃。大洪水によりこの地方一帯が海と化したという。さしもの長船の賑わいもここで壊滅的打撃を受けた。以降、刀の名所は美濃の関などに移る。それまで20近くもあった刀鍛冶の流派も、これ以降は吉岡流1家だけが細々と現代まで続くのみだ。
 博物館に張ってあった年表を見ると、中生代に栄えたが白亜期末の大激変で壊滅し、その後は哺乳類の陰でひっそりと生きる、爬虫類の系統樹を見ているようだ。
 いま長船では、鉄ももう採れないという。前述のたたら製鉄も、砂鉄を兵庫県の山地から採ってきて使うとのこと。

 博物館の近くには、刀剣の森がある。足利尊氏が新田義貞に負け九州へ逃げる途中、ここで勝利の祈願を行った。のちに天下を取ったときに松の木を送りこの社を寄進して報いたという。その松の子孫が森をなしている。長船が盛んな頃は、この松を燃やして鉄を造っていたのだろうか。

 長船の近くには、また豊臣秀吉の謀臣として有名な黒田官兵衛の黒田家が、祖父重隆の代まで住んでいた福岡がある。
 もともと福岡という地名はこちらが本家である。
 黒田家は播磨に移って小寺氏に仕え、のち官兵衛が秀吉の参謀役となって息子の長政が九州筑前に50万石の大封を与えられた。
 このとき故郷を懐かしんで福岡の地名を新しい領地のみやこにつけたのが福岡県の始まりである。
 本家ではあるが、むこうは福岡県、こちらは今では福岡町、すっかり身分に差をつけられてしまった。
 一応福岡城跡という小山があるが、城が建っているのでもなく石垣が残っているのでもない。
 ただなんとなく、この辺だろう、という見当でアバウトに指定したもののようだ。
 福岡の城跡に近い妙興寺には、黒田官兵衛の祖父、曾祖父に当たる重隆、高政の墓がある。
もっともこれは戦国当時の墓ではない。明治になって如水、長政に位階が贈られたのを記念して建てたものだそうだ。
 同じ寺に宇喜多興家の墓もある。
豊臣秀吉の5大老のひとり、関ヶ原で西軍の先鋒大将になり、敗れて八丈島に流された秀家の祖父に当たる。
秀家の父、直家は陰謀と謀略で付近の豪族をうち従え、1代にして播磨一国を手にした豪傑だが、その父興家までは所領もなく諸処を放浪していた。そのうえ、興家は薄馬鹿であったという。この地方の豪族が憐れんで引き取って養ってくれたが、どうにも役に立たないので、牛飼いをさせていたという。
 妙興寺の近辺は昔「福岡百軒」と言われ、賑わいをみせていた福岡の街道筋が残っている。宿場町のセットのような通りである。そのなかに「福岡一文字発祥の地」の碑が建っている。


戻る