日本海軍を検証する
「江田島(海軍兵学校のあった場所)の教育は、日本を愚かしくも滅亡に導くような、単純な好戦的なものではなかった。サイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という言葉を、私はよく聞かされた。 大言壮語せずに、国を守るときには、充分に任務を果たすという意味である」(豊田穣:江田島教育より)
「復員してきて私が強い違和感を覚えたのは、新聞雑誌の論調と自分の海軍体験とがひどくちがうことであった。海軍は、私の経験に即するかぎり、今を時めく学者評論家が言い立てているほど狂信の支配する非合理な社会ではなかった」(阿川弘之:井上成美より)
日本海軍は、果たして豊田穣や阿川弘之の言うように、優秀な組織だったのだろうか。
日本の陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルにして作られたことは、よく知られている。
陸軍のモデルとなった、ドイツは徹底した軍国主義であった。
「国が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国を持っている」と言われたほどの国だった。
参謀本部の権限はきわめて強く、軍務遂行上必要とあらば、政府の命令によらず独断専行することも認められていた。
また、日本陸軍が師匠と仰いだ、ビスマルク=モルトケの戦法は権謀術数に満ちたものだった。
勝利のためなら、どのような行為も許される。外交で敵を騙しておいて、突如として宣戦布告。その瞬間、国境線で準備していた軍勢がなだれこみ、電撃的な勝利をおさめる。ナポレオン三世のフランスに勝利した、普仏戦争はその典型だった。
日本陸軍もこの性格を濃厚に受け継いだ。
政府からの独立性、権謀術数好み。これに右翼独善主義が加わって、複雑怪奇なる伏魔殿、昭和の日本陸軍が完成した。
それに対し、海軍は当時の最強海軍国、イギリスを範にとって建設された。
イギリス人の理想であるジェントルマンシップが最も重んじられ、海軍兵学校の教育は英国紳士を養成することを主眼としていた。
軍服の着こなしも野暮ったくてはいけないとやかましく言われ、外国の停泊地で恥をかかないよう、ダンスや洋食のマナーまでが教えられた。
しかし、英国紳士はあくまでもイギリスの風土に存在するもので、日本に無理矢理存在させようとすることは、偽善にほかならない。
海軍将校のスマートな格好は少年の憧れであったが、同時に水兵、下士官の反感のもとでもあった。日本の風土から完全に遊離しきっていたのである。
日本海軍はこの英国流偽善に、官僚主義が加わった存在である。
日本海軍の官僚主義についてはいくつかの実例がある。
太平洋戦争開戦直前のこと。当時の連合艦隊司令長官である山本五十六は、これからの作戦遂行のためには、自分が陣頭で突撃する形で行うべきだと考えた。
その後方で、冷静沈着で気心も知れた先輩の米内光政が控えているのがいい。ということで、米内光政連合艦隊司令長官、山本五十六第一艦隊司令長官という草案を作り、航空本部長の井上成美に見せた。
井上は草案を一見して、
と反対した。剃刀井上と呼ばれた井上にして、これである。
日露戦争直前に現役提督のほとんどにろくでなしの烙印を押し、予備役に放り込んでしまった山本権兵衛と比べて、なんという弱気であろうか。
また、その山本が戦死した後の連合艦隊司令長官の人選も、官僚主義の典型である。
当時、小沢治三郎がもっとも適任であることは、衆目の一致するところであった。
しかし、小沢はまだ若い。当時の艦隊司令長官の多くが、小沢の先輩であった。
海軍の恒例として、後輩が先輩の指揮をすることは許されない。もし小沢を抜擢するとしたら、先輩の艦隊司令長官も交替させねばならない。戦闘中に、そのような大幅な人事異動は許されない。
そのため連合艦隊司令長官は先輩の古賀、そして豊田が就任した。そして戦争は負け続けた。
ようやく小沢が連合艦隊司令長官に就任したのは、もはや敗戦直前で空母も戦闘機もなく、どうにもならない状況になった後であった。
井上成美が海軍次官を辞めたのも、官僚的事務手続きの産物であった。
終戦直前、米内光政海軍大臣を助け、井上次官は日本を終戦へ向かわせようと努力を続けてきた。
ところがそのとき、井上は中将から大将への昇進することになった。規定では海軍大臣は中将か大将、次官は少将か中将がなるものとなっていた。
井上はやむなく、「負け戦大将だけはやはり出来」という駄句を残して次官を辞任した。
これは終戦工作への反感が大きくなり、井上の暗殺が危ぶまれたため、米内がわざと仕組んだという説もあるが、よくわからない。とにかく井上が、形式的な規則によって、次官を辞めさせられたことは確かである。
「陸軍将校は下につく、海軍将校は上につく」と言われる。
陸軍の将校は2・26事件に見るように、下士官、兵に同情的であった。人気取りもあるが、兵と苦楽を共にするという姿勢を見せるのを好んだ。
これが下克上の機運を生み、上からの統制がとれなくなるという弊害をも呼んだ。
余談だが東条英機もまた、下につきたがる陸軍の典型のような存在であった。かれは総理大臣になっても、なにかというと街の中に入り、そこらのおかみさんに話しかけるのが好きだった。人気取りもあると思うが。
清沢洌が「総理の仕事とは、ゴミ箱を覗くことか」と皮肉ったくらいである。
海軍将校は逆に、兵隊から遊離していた。5・15事件でも下士官、兵との協同はなかった。
むしろ海軍の下士官、兵は将校以上に反感を持っていた。白い清潔な軍服をスマートに着こなし、ナイフとフォークでフランス料理のコースを賞味している将校は、油まみれの持ち場で慌ただしく握り飯にかぶりつく水兵からは、気障な役立たずにしか見えなかった。
坂井三郎のような、叩き上げの零戦乗りの目から見ても、将校は癪にさわる存在だった。
かれは一兵卒から下士官を経て、叩き上げで中尉までなった士官なのだが、やはり海軍兵学校出のキャリア組の士官は嫌いだったらしい。下積みの悲哀も現場の苦労も知らない若造が、少佐とか中佐とかの肩書きを付けて着任し、ベテランの自分に命令する。操縦は下手のくせに、格好ばかりつける。食堂も別で、自分だけいいものを喰っている。成績を上げて昇進し、中央に帰ることしか考えていない。ごく例外を除いて、そんなものだったらしい。
山本五十六も世間から遊離していた。彼は、久しぶりに東京に帰って上陸したとき、「世間で食糧が不足していることに一驚しました」と言っている。
知らないはずだ。彼は大和に乗っているかぎり、毎日洗濯する軍服、フランス料理のコース、オーケストラの演奏、夜は英国製のスコッチウイスキーとハバナの葉巻、という生活が保障されていたのだから。当時、予備役となって東京で一般市民の生活を送っている米内光政がどんどん痩せていったのに対し、山本はどんどん太っていった。
「無知な陸軍弱い海軍」という言葉が当時よく言われた。
陸軍の無法や横車に対して、海軍はあくまで合法的な抵抗しかしなかった。
陸軍は日独伊三国軍事同盟、日中戦争への深入り、対米開戦など、自己の要求を通すためには、何でもやった。
軍事力を背景に議員や財界人、ジャーナリストを脅迫した。
右翼に金を与え、海軍大臣や次官へ殴り込みをかけた。
憲兵を使って反対派を尾行し、個人的なスキャンダルをつかんで社会的に失脚させようとした。
憲兵を実際に使って反対派を逮捕さえした。
それに対し、海軍は無力だった。
政治に関わるのは大臣と次官の二人だけ。それも抵抗は閣議や議会での言論に限る、というのだから、はじめから勝てる道理はなかった。
「馬の耳に念仏」というが、「人を見て法を説」かなかった海軍の折り目正しすぎる態度は、歯がゆいものがある。
ある点では、海軍は陸軍の横車の尻馬に乗りさえした。
海軍の長老である岡田啓介が、
と言っている。これは満州事変後の論功行賞を指している。
陸軍が満州事変で大暴れした荒木、本庄を男爵にする案が持ち上がったとき、海軍は満州事変に反対していたのだから、授爵に反対するのが筋なのだが、それもせず、ちゃっかりそれに大角も一口乗せて、一緒に男爵にしてしまった。
似たような例では東条内閣の時のことがある。
戦争も激化したころ、「統帥部の意見を統一する」と称して、これまで総理大臣兼陸軍大臣だった東条が、陸軍参謀総長をも兼任した。
これはさすがに評判が悪く、「今清盛」「東条幕府」などと言われて、反東条運動が高まったのであるが、そのかげでちゃっかりと、島田海軍大臣も軍令部総長を兼任してしまったのである。
結局のところ、海軍も大いなる官僚組織、無責任組織であったことに変わりはない。
ただ、横に日本陸軍という、究極の引き立て役がいたせいで、よく見えただけのことである。
参考文献:江田島教育(豊田穣:集英社文庫)
山本五十六(阿川弘之:新潮文庫)
米内光政(同上)
井上成美(同上)
大空のサムライ(坂井三郎:光人社NF文庫)
零戦の真実(坂井三郎:講談社+α文庫)
井上成美(実松譲:光人社NF文庫)
四人の連合艦隊司令長官(吉田俊雄:文春文庫)
海軍航空隊始末記(源田実:文春文庫)
日本海軍の戦略発想(千早正隆:中公文庫)
連合艦隊興亡記(同上)
日本海軍失敗の研究(鳥巣健之助:文春文庫)
岡田啓介回顧録(中公文庫)
断腸亭日乗(永井荷風:岩波文庫)
暗黒日記(清沢洌:岩波文庫)
海軍と日本(池田清:中公新書)
太平洋海戦史(高木惣吉:岩波新書)