「西遊草」を読む

 清河八郎という男がいた。
 新選組を作った男として知られている。
 幕末、八郎は江戸で私塾を開いていた。北辰一刀流の免許皆伝、東条一堂に学んで和漢の教養も深い。文武両道に優れたその才能を慕って集まる人が多かった。幕臣の山岡鉄舟も、そのひとりである。
 そのころ、幕府と天朝の争いは、ようやく激しくなっていた。幕府が外国と条約を結んだことを怒り、天皇主導で攘夷政府が設立されることを望む浪士が京都に集まり、長州藩が金を出してそれをけしかけていた。幕府に同情的な論客や、外国と貿易する商人などは彼らに殺されて首を晒された。世ではこれを「天誅」と呼び、怖れた。
 八郎には腹案があった。江戸でも浪士が増え、騒いでいる。いっそ彼らを幕府が抱え、将軍の親衛隊として使えばどうだ。山岡鉄舟に説き、幕府の金で浪士を集めて回った。そして京都へゆく将軍家茂の親衛隊として、京都へ先行させた。
 しかし京都で八郎は豹変する。浪士集団は天朝のために集めたものであり、幕府のためではないと宣言した。幕府側から天皇側へ寝返ったのだ。これに怒った一部浪士は離脱し、独自に会津藩を頼る。芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら、新選組の面々である。
 のち、清河八郎は裏切りに怒った幕臣に暗殺される。

 清河八郎は出羽の浪人である。生家は裕福だった。田畑五百石余を保有して酒造業を営み、山林収入、砂金採取による収入もあった。庄内藩から名字帯刀も許されていた。そこに生まれた八郎は、十八のとき江戸にのぼり、東条一堂、安積艮斎、千葉周作に学ぶ。二十五歳のとき私塾を開く。ところが一ヶ月もたたぬうちに火事で焼けてしまう。翌年、いったん故郷に帰る。

 この時代の清河を描写しているドラマが数年前にあった。三谷幸喜脚本、ダウンタウンの浜田が主演で坂本龍馬を演じた「竜馬におまかせ!」である。大阪パフォーマンスドールの中野が遊女を演じていることでも記憶されているこのドラマで、清河八郎は西村雅彦が怪演している。これがもう陰険で姑息で裏切り者で、なんとも笑えるキャラクターになっていた。純情な近藤勇をマルチもどきの商法や妖しげな性格改造講座に誘ったり、竜馬と倒幕活動していると思ったら幕府の役人に密告したり、要するにイヤな奴なのだが、あまりに姑息すぎて笑いを誘うというキャラクターだった。あまり評判にならなかったドラマだったが、我々の仲間内ではとても好評で、特に清河八郎の演技は絶賛された。いまだに西村雅彦のことを清河八郎と読んでいるくらいだ。

 その清河、故郷に帰った翌年、母親を連れて日本一周の旅行に出る。三月二十日から九月十日まで、約半年間の長旅である。表向きは母を伊勢参りに連れていくとのことだったが、清河のことだ、信用できない。おそらく風雲急を告げる各地の情勢を見聞し、あわよくばその陰謀にひとくち乗ろうという目論見ではなかったか。その証拠に、大阪からずっと西、岩国まで下っている。これは長州藩の情勢を視察し、あわせて長州藩要人と密会するのが目的ではなかったか。
 このときの見聞を纏めたのが、「西遊草」(岩波文庫)である。清河は筆まめな人だったらしく、毎日欠かさず日記を付けていた。律儀に渡し船の船賃や食い物の値段まで書きとめているので、当時の社会風俗の記録としても役に立つ。もっとも、ここに書かれたことだけが真実ではないような気もする。綿密な記録は、逆に書かれていない事実を隠すためではなかろうか。

 たとえば大阪から岩国に赴き、また大阪へ帰ってくるのに、まる一ヶ月を要している。老齢の母親を連れ、また途中見物もしたとはいうものの、時間がかかりすぎである。これはやはり、記録に書かれなかった視察や密談があったのではないだろうか。そういえばこの西国紀行、八郎はほぼ毎日、料亭で酒を呑んでいる。酒の席には母親は同行していない。ここで密談があったのではないだろうか。母親連れの旅行というのも、カムフラージュのためと勘ぐれないこともない。
 そういえば京都での滞在も長い。六月五日から十五日、七月五日から十一日の二回にわたって計十八日間滞在している。見物した話しか書いていないが、ここで何があったのだろうか。のちに陰謀友達となる田中河内之介と密談していたのかもしれない。

 料亭もそうだが、この旅行は贅沢である。大名旅行と言ってもいい。明石では刺身で酒を呑み、その代金が五百文で、「思ひしより安直」などと書いている。当時、五百文といえば大金である。二八蕎麦が一六文、それより安い馬方蕎麦が八文の時代だ。鍋と飯と酒二合ばかり頼んで百二十文から百五十文だったという。今に換算してみれば、馬方蕎麦は立ち食い蕎麦や牛丼といったところか。三百円くらいだろうか。二八蕎麦は蕎麦屋の蕎麦というところで六百円。居酒屋で鍋と酒で五千円といったところだろうか。そうすると清河の夕食は二万円弱ということになる。これで安いと喜んでいるなんて、なんて贅沢な野郎だ。
 江戸を起つときには、お世話になった家にお礼として十貫文(一万文)、女中に二貫文(二千文)ほどを贈っている。職人の日当が三百五十文、月に一両二分で一家五人を悠々養えるころの話である。サンピンという最下級の侍が文字通り年に三両の給金で生活していたころの話である。同時代、福沢諭吉は緒方塾の塾頭だったが、緒方家に居候して、塾頭への入門金が月に二分二朱(約千文)あって、これが月の小遣いになっていた。牛鍋屋で牛と酒を呑んで百五十文ほど使うのがたまの贅沢だった。これに比べると、清河のなんと贅沢なことか。

 清河は鰻が大好物だったらしい。江戸に二十四日間滞在しているが、そのうち六日間は鰻を食ったと記録している。どうやら母親と同行しているときはこってりした鰻は避けていたようなので、ひとりになると必ず鰻を貪り食っていたと言ってもよい。むろん鰻も安いものではない。鰻飯で二百文程度、白焼き、蒲焼き、肝吸いで酒を頼むと三百文から四百文したらしい。今なら一万五千円くらいか。大阪でも鰻を食って、「鰻の質が悪く、金串で焼くので不味い。そのくせ値段は江戸の二倍する」と愚痴を書いている。大阪に来たのなら、もっと他に食うものあるだろうに。
 だいたい清河は東贔屓で、京都でも、京大阪の芸者は江戸に比べると芸がないとか祇園祭は元気がないので見ていて気抜けするとか悪口ばかり書いている。京や大阪の人間はうそつきで強欲で弁舌だけで頼むに足らずとも書いている。どうも近親憎悪としか思えない。こんな人間がなぜ京の天皇を頂く気になったのか、不思議でならない。ちなみに京都でも鰻を食って、「食ふにたらぬ味なり」とまた悪口を書いている。京都で鰻を食おうと思う方がどうかしてるんだってば。ハモでも食ってなさい。
 日光では鯰を代用に食って不味いとこぼしている。そんなに鰻が食いたかったのか。お前は鰻男か。そんな清河も、さすがに瀬戸内では獲れたての魚を刺身にして料亭で連日呑んでいる。贅沢にはかわりないけれども。

 旅行のもうひとつの目的は、焼けた私塾を再建することである。江戸でそのための用地を物色している。結局、両国矢の倉に三十八両の売り家を購入し、駿河台に塾を開いた。これがのちの数々の策謀の根拠地となったのである。


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