系図を読む

 などといっても、別に私の前に古色ゆかしき巻物があるわけではない。あったって、私に古文書なんか読めるわけない。中学校副読本の日本史年表があるだけだ。これでもなかなか楽しむことができる。本が1冊書けるくらいの疑問が湧いてくる。

 系図といえば源平籐橘の4姓である。このうち源平は武士、藤原は貴族として長く続いたが、橘氏はあっという間に潰れてしまった。系図表でも他3氏が1ページづつを与えられているのに比べ、橘氏は蘇我、大伴、清原、菅原等とまとめて「その他大勢」扱いを受けている。まあしかたない。諸兄、逸勢以外めぼしい人材がいないから・・・とおもったら、凄いのがいた。楠正成である。
 しかしこの系図、正成の祖父盛仲から前が(6代)と省略されている。非常に怪しい。そもそも正成は歴史家にも正体不明の家柄ではなかったか。
 正成の同僚、名和長年も似たようなものだ。隠岐あたりの漁師だとか商人だとか言われている正体不明の人物であるが、父行高から(8代)で村上源氏の季房とつながっている。
 だいたい途中で省略されている場合、無理矢理創作してくっつけた疑いが強い。もっともそうでない場合もある。西園寺家の場合、総理大臣になった公望の父、師季の前が(20代)となっている。これは疑わしいのではなく、20代にわたって特筆すべき人物がいなかった、要するに20代の間なあんにもしていなかった、ということだ。しかし上には上がいるもので、明治初年の大政大臣、三条実美などは祖父の前が(22代)となっている。22代のご先祖様が、なあーんにもしてなかったのである。もっとも、実美自身がなああんもしてなかったと言われて仕方のない人物であるが。

 源氏はなかなか栄えている。もっとも「源氏」という名前は、もとが天皇であるという意味しかない。もともとは天皇の子孫が臣籍に降下すると清原とか平とか在原とか名前をもらったのだが、そのうち面倒臭くなって全部源で片づけるようになったのだ。だから、清和源氏とか嵯峨源氏とか、もとの天皇の名前をつけて区別するようになっている。
 もっとも哀れな人もいる。源高明は学問にも芸術にも造詣が深く、左大臣にまで昇った人である。あまりに優秀なので当時全盛だった藤原氏に警戒され、安和の変というでっちあげの陰謀事件で失脚させられてしまった。彼は父が醍醐天皇であるから、醍醐源氏と呼ぶべきなのだが、なにせ失脚したもので子孫が絶えてしまった。そのためただの源高明である。せめてタカアキ源氏とでも呼んであげようではないか。
 もちろん源氏の中では清和源氏がもっとも有名であるが、その祖はまったく見栄えがしない。たとえば嵯峨源氏などは信、融が左大臣になっている。宇多源氏も雅信、重信の兄弟が揃って左大臣になっている。村上源氏に至っては、左大臣俊房を筆頭に、内大臣雅美、大納言師忠など、藤原氏を超える公卿の数を誇っている。
 それに比べ、清和源氏の祖というべき満仲は摂津守が最高である。それも安和の変で源高明を密告してもらった位である。藤原道長の用心棒のようなことをしていたらしい。同じ源氏とはいえ、さきの諸源氏と比べると、佐藤栄作とハマコーくらいの格の差がある。こんなのが後に栄えるのだから、面白いものである。
 さきに出た村上源氏は院政期に公卿を輩出したが、後の世にもなかなか栄えている。南北朝時代の南朝の重鎮である、名和長年、北畠親房、千種忠顕、逆に北朝の大物、赤松則村などを出している。戦国時代に秀吉に攻め滅ぼされた播磨の別所長治も村上源氏だ。
 そこでちょっと気になることがある。織田信長が次男の信雄に北畠氏を、三男の信孝に、やはり北畠一族の神戸氏を継がせているのだ。なぜ村上源氏にこだわるか。征夷大将軍になりたいなら清和源氏でなくてはなれない。信長は何を狙っていたのか。謎である。
 もしご存知の方がいましたら教えて下さい。

 徳川家であるが、ここはご存知のように家康の息子秀忠が将軍となり、その弟義直、頼宣、頼房にそれぞれ紀伊、尾張、水戸の御三家をつくらせ、秀忠の血筋が絶えた場合は、この御三家から養子をとり、将軍とするようにした。そのため系図がややこしい。
 たとえば8代将軍の吉宗は、紀伊家でも当主ではなかったのだが兄の死で当主となり、やがて家継将軍も死んだので将軍になったという、ラッキーな人物である。もっと複雑なのは最後の将軍、慶喜の付近。先代の14代家茂は13代家定に子がなかったので尾張家から来て将軍になった。その家茂も若くして死んだため、水戸家から一橋経由で慶喜が来て15代将軍になった。家茂と慶喜は親子のようになっているが、実はほとんど他人である。

 最後に天皇家だ。ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク・・・と続くがこの辺はふっとばして行こう。景行天皇の次に日本武尊などという名前があって楽しいがこれもまあよい。ずうっと後、昭和天皇の付近である。いや、昭和天皇自体は後花園天皇以来の摘流で問題はない。もっとも、後花園天皇は、北朝の摘流でないようだが。
 天皇の血筋で、まだ臣籍に降下していないものの家を宮様という。伏見の宮とか秋篠の宮とかいうあれだ。天皇の親戚として、むやみに商売をやったり武士になったり、政治に介入したりということは認められない。体よく棚上げされる。
 明治以降、戦前までは宮様はよく軍人になった。小松宮彰仁、伏見宮貞愛、久邇宮邦彦、梨本宮守正等が陸軍元帥、伏見宮博恭が海軍元帥になっている。中には、軍に入らずに遊び暮らしていたら、敗戦直後の総理大臣の椅子が転がり込んできた東久邇宮稔彦などという人もいる。
 ところが、以上あげた宮様は、天皇とは思いっきり血筋が離れているのだ。どのくらい離れているかというと、昭和天皇から数えて18代、伏見宮貞成親王まで遡らねばならぬ。この人の息子の兄が第102代の後花園天皇であり天皇家摘流となった。弟の貞常親王から先ほどの宮様の系図につながる。
 後花園天皇といえば、応仁の乱や飢饉をよそに毎日飲み暮らしていた足利義政に詩を送ってたしなめたことで有名である。そんな昔の天皇である。共通祖先がその父なのである。
 兄弟はその遺伝子の2分の1が共通である。1代遡ると、そのまた2分の1、すなわち4分の1の遺伝子が共通である。つまり、従兄弟同士はその遺伝子の4分の1が共通ということだ。これで昭和天皇と上記宮様たちの遺伝子の共通度を計算すると、2の18乗分の1、つまり25万8144分の1が共通であるに過ぎない。もし私の計算が正しければ。
 こういう関係はふつう他人という。18代遡る気になれば、たとえば戦国時代の武田信玄、佐竹義宣、細川幽斉、里見義実、金智院崇伝、足利義昭がいっしょになってしまうのだ。これって「人類皆兄弟」の思想ではないか。天皇制とはそぐわない気がする。
 不思議なのは、これほどかけ離れた家筋を、臣籍降下もせず、ずっと宮家で続けてきたことである。何かわけがあったのだろうか。ご存知の方は教えて下さい。


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