戦国大名長生き競争

 戦国時代の歴史は、よく寿命とからめて「れば・たら」が語られる。
 たとえば、
「五十三で死んだ武田信玄、四十九で死んだ上杉謙信のせめてどちらかが、あと十年生きていれば、織田信長は天下を取れなかっただろう」
 であるとか、
「五十二で死んだ豊臣秀長が、あと十年生きていたら、豊臣政権はああもあっけなく崩壊しなかっただろう」
 であるとか。
 また歴史物の記事を読みたがる人間は、会社の管理職、社長さんなどに多い。彼らはだいたいにおいて凡人だから、長寿の凡人が短命な天才に勝つ物語が好きだ。だから、信長や秀吉などの天才の死をみとって天下を取った徳川家康が好きだ。

 というわけで社長さん愛読の歴史物のなかには、よく、「戦国武将の健康法」などというものが出てくる。
 長命な戦国武将といえば、徳川家康の七十五歳、毛利元就の七十五歳、北条早雲の八十八歳などがある。
 家康はそのなかでも特に健康に気をつけていたらしい。美食がきらいで麦飯と味噌を常食としていた。味噌が好きなあたり、いかにも愛知県人らしい。そして深酒はしない。
 「適度な運動が健康の秘訣」という、当時としては革新的な考えを持っており、暇になると鷹狩りに出かけていた。
 女は好きだが農家の生娘を妾にするのみで、他の大名のように色街で商売女と寝たりはしない。当時流行していた梅毒の感染をおそれていたのだ。またそれら妻妾にも溺れず、よく鷹狩りに行っては、「狩りに行くと女と寝ないのでそれだけ健康が保てる」などと言っていた。
 また医学にも関心が深く、曲直瀬道三などの名医に薬の処方を聞くだけではなく、南蛮の宣教師やウィリアム・アダムズなど外国人にも海外の医学について質問したり、薬を取り寄せたりして、耳学問ながらそこらの医師よりは優れていたらしい。子供や家来が病気になると、みずから処方した薬を届けてやったりしていた。原因不明の中毒で死の床についていたときも、息子の秀忠が「どうか医師に見せてください」と頼むのを「お前は俺を殺すつもりか」と拒否して自分の薬を飲むだけだったという。もっともそれが災いして死んでしまったが。
 家康ほどではないが、元就や早雲も独自の健康法がよく語られている。
 毛利元就は酒を飲まなかった。父が三十三、祖父が三十九、兄が二十四といずれも大酒のため早死にしたのを見て、禁酒を誓ったという。また雪合戦が好きで、老齢になって足腰が立たなくなってからも、縁側に座って雪を丸め、孫や曾孫と投げ合っていたという。
 北条早雲は若い頃どうしていたのか不明だが、伊豆に住みついてからは山野をよく歩き回り、百姓の暮らしぶりを観察していた。民治のみならずそれが健康法にもなっていたのだ。また禅僧らしく粗食だったともいう。
 これら長命の戦国大名の健康法と、短命大名の不健康法を読み比べるのが、社長さんたちの楽しみである。
 たとえば秀吉は頑健だったが女遊びが過ぎて晩年急速に衰え、六十三で死んだ。加藤清正はやはり女遊びのため梅毒になり五十で死んだ。上杉謙信は肉食と女性を断ったのは立派だったが大酒飲みで、そのため卒中のため四十九で死んだ。武田信玄は残念ながら結核にかかり、五十三で死んだ。織田信長は四十九で戦死したわけだが、もし本能寺で殺されなくてもあのヒステリックな性格だ、四十二で死んだ父の信秀のように、頭の血管が切れて早死にしたにちがいない。
 こうした不養生者の天才たちの屍を踏み越えて長生きし天下を取った凡人、徳川家康が、社長さんたちは大好きなのだ。

 とまあ、ここまではプレジデントだとかPHP文庫だとかの社長さんご愛読の本にいくらでも書いてある話だが、あまり書かれることのない話がある。
 実は家康よりも長生きした戦国武将が何人かいる。
 今川氏真 享年七十七
 島津義久 享年七十八
 武田信虎 享年八十
 宇喜多秀家 享年八十三
 松平忠輝 享年九十二
 さて、彼らに共通する点は何でしょうか。

 実はこの連中、いずれも争いに敗れてリタイアした人物なのだ。
 今川氏真は織田信長に殺された今川義元の息子。駿河の領国を保てず、武田信玄と徳川家康に挟撃されて降伏。その後北条氏の厄介になったり京で蹴鞠を教えたりしながらもほそぼそと生き抜き、死んだのは1614年。武田信玄や徳川家康よりもあとまで生きた。
 島津義久は薩摩の島津家の当主だったが、豊臣秀吉の九州征伐軍に破れ降伏。隠居して息子に家督を譲り、その後は坊主として暮らした。死んだのは1611年、秀吉の死の13年後である。
 武田信虎は信玄の父。家中のうちわもめの末、息子の信玄に追放されてから、今川家の厄介になったり、京都で暮らしたりしながらも、息子の信玄よりあとまで生きた。
 宇喜多秀家は関ヶ原の合戦で石田三成に味方して敗れ、一時は島津家にかくまわれたがやがて捕まり、八丈島に流される。しかし八丈島でなんと五十余年を生き抜き、徳川家康どころかその息子の秀忠、孫の家光よりもあとまで生きた。
 松平忠輝は家康の六男。越後高田に六十万石をもらうが、自分勝手な振る舞いや暴虐の沙汰が過ぎるため、領地は没収、忠輝は伊勢、さらに諏訪に配流となった。しかし禁固生活にもめげず、父の家康、兄の秀忠、甥の家光、甥孫の家綱が死ぬのをゆうゆうと横目で見ながら、なんと九十二まで長命した。

 こういう話が書かれない理由もわかるでしょ。長寿の秘訣は仕事をしないこと、なんて書いても、社長さんにはうけないもんねえ。


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