城壁

「二年も前に死んだきさきを、いまだに恋うておるのか」
 権兵衛と名乗る旅の者の問いに、キラは頷いた。
 キラはアスカンタの城で、パヴァン王のメイドを勤めている。
 ときおりは、夜伽もする。
 おそらくは、生娘ではない。
 権兵衛は、そう見た。
「そのうつけの王に、目を覚まさせてやれというのか」
 キラはふたたび頷いた。
 権兵衛の目が、みだらに光った。
「頼みを聞くときは、そのつど報酬をもらうことにしておる」
 権兵衛はいきなり、キラを抱きすくめた。その腕が、やがてキラのほそい骨が撓むほどの力を加えてきた。
 唇が、キラの唇を濡らしている。
「あ、無体な」
「なにが無体なものか。王はかようには愛さなんだか」
 キラは、かぶりをふった。そのかぶりが途中でとまり、
(あっ)
 と叫びが洩れそうになった。体をつらぬくような衝撃が、身のうちを走った。パヴァン国王とはすべてに作法がちがっていた。
「そなたの望みをかなえるため、わしはかならず戻ってくる。それまでそなたは、母の館にでも戻っておれ」
「はい」
 とキラはうつろに答えている。権兵衛は、すでに熟達しきった男わざをもってキラを、何度か死の寸前にやるほどに愛撫している。
 その夜、屋根の上のアスカンタの天には、真円に近いおおきな月が、まがまがしい赤い光を放っていた。それをみたひとびとは、世に乱がくるのではないかとうわさした。

 国境ちかくにある小高い丘、その丘をのぞむ廃虚――その廃虚を満月が照らし、廃虚の城壁に窓の影がかかるとき――何かがおこる、そう人々は云いつたえてきた。
 それが真か偽か、だれも知らない。あるいは権兵衛は、それをたしかめに行ったのかもしれなかった。あるいは窓の影をひらき、そこに在るものを見たのかもしれなかった。

 数日後、城塞のなかにその姿をあらわした権兵衛は、ひとりの見知らぬ男をともなっていた。
 男はひどく背が高く、青い裾長の服を足でさばくようにして、すべるように歩く。竪琴をその脇にかかえている。
 顔は蒼白い。鼻梁はそれ自身彫刻のように張り出、何よりも異様であったのは、その眼であった。十米はなれていてさえ、その奇妙な輝きと、吸い込まれるような妖しさは、見る相手に、軽いくるめきを覚えさせた。
 玉座に眠る王を見おろしていた男は、その竪琴に指をすべらせた。
 しばらく暗闇の中に竪琴の音だけがひびいていたが、やがて人身大の燐光がほのむらだった。燐光は次第に人の形をととのえてゆき、やがてそれは、青いドレスを着た女人の姿になって、紙のように白い顔に髪を垂らしてゆらゆらと立った。
 目を覚ました王は、声をあげて立ちあがった。――男が現出したこの亡魂は、二年前に死んだ王の妃であったのだ。
 亡魂はひとことふたこと王につぶやきかけ、手をさしのべた。――かと思う刹那、亡魂は消えた。燐光も消えた。――それとほとんど同時であった。パヴァン王の肉体は、骨を断ち割るぶきみな音とともに大広間の床にころがっていたのである。斬ったのは権兵衛である。このまぼろしを現出してみせたイシュマウリと称する男は、バラモンの破戒僧であるともいい、ペルシャの幻術師であるともいう。それ以外に伝わっていない。

 亡魂といえば、キラのことである。
 パヴァン王殺害、アスカンタ滅亡という報が国境に入ったのはその日のうちである。
 彼女は、両親の住む実家でその報をきき、その夜のうちに儚くなった。自刃した。
 落城とともにわずかに生きながらえ、黒衣に身をつつんで逃散した城のメイドたちも、その後多くは捕らえられて権兵衛の慰みものとなったが、そのことにこまごまと触れてゆくのはこの物語の主題ではないようであり、また触れるについては、多少の悲傷に堪えることをせねばならない。そのことに心を移しつつ、ひとまず筆を擱くほうがいまはよさそうに思える。


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