夏野菜いろいろ

 両親の住む岡山の山間部からクール宅急便が届いたので、なにごとかと開けてみたら、野菜がぎっしり詰まっていた。ナス、キュウリ、トマト、タマネギ、ジャガイモ、ニラ、しそ、ミョウガ、ズッキーニ、ゴーヤ、スカンポ。ぜんぶ両親の畑でとれたものだそうだ。いや、スカンポは野原で摘んだのだけど。

 なにごとか、とはおおげさな、ふつう田舎からクール宅急便が来れば中身はたいがい食い物だろう、と普通なら思うかもしれない。しかしけっしてどうしてそうではない。
 数年前、やはりクール宅急便で届いた段ボール箱は、なぜかわじわじわじわじわじわじわじというような音をたてていた。不思議に思いながらも箱を開けてみると、なかにはカブトムシがびっしり。網にカブトムシ(成虫)を二百匹ほど放り込み、そいつを新聞紙でくるんで箱詰めしていたのだ。カブトムシたちがお互いの脚やら角やらを絡みあわせてもがく音が、わじわじわじわじわじわじわじわじわじと聞こえていたのだ。
 仰天してさっそく電話したのだが、「とれたから送った」と、しごくのんびりした返事。野菜と一緒である。畑の堆肥にするため落ち葉を積み上げていたら、そこにカブトムシが産卵し、それが大量の成虫となったらしい。まあ、畑でとれたものだし、野菜と同じものを食っているのだから、野菜と一緒か。
 幸か不幸か、カブトムシの宅急便はそれ一度だけだった。次の年からは、業者がどこからともなくやってきてカブトムシを盗んでいってしまったとか。いや、自分の地所とはいえ、勝手にわいたのだから、盗むという言葉は適当でないか。

 カブトムシを宅急便で送るくらいだから、うちの両親はお調子者というかおっちょこちょいというか、そういう性格である。素直に枝豆とかキャベツとか作っていればいいものを、新しがってゴーヤとかズッキーニとか香菜とかバジルとかハイカラな野菜ばかり作る。母親の話では、キャベツとか白菜とか枝豆とか普通の野菜は近所の人がいくらでも分けてくれるし、八百屋に行けば作るのが馬鹿馬鹿しくなるくらい安い値段で売っているからだとか。
 でも、ゴーヤをどっさり作っても、苦いといって誰も食べてくれなかったりする。なにしろ田舎だから、住民の食生活は保守的なのだ。香菜も食べさせてみたが、全員が「カメムシの味がする」といって辞退したそうだ。なにしろ田舎だから、村人全員に経験があるのだ。カメムシが口の中にとびこんできた経験が。
 そしてまた、ゴーヤとか香菜とかバジルとか、用途が限られた野菜に限って、始末に困るくらいどっさりとできてしまうらしい。ズッキーニもあまり評判が芳しくないうえに、やたらと実ってしまうらしい。いつの世も先駆者には苦しみがつきものである。

 といういきさつで、うちにゴーヤやズッキーニが届けられた。香菜はもう花が咲いてしまったのでシーズン外らしい。カブトムシはもういない。さて、これをどうしよう。
 他の野菜はいいよ。たとえばジャガイモとタマネギは保存がきく。しそやミョウガは薬味としてなんにでもふりかければいい。ニラは卵とじかレバニラで一発消費だ。トマトやキュウリは、生かじりがいちばん。

 ナスだったら、好きだしなんとでも料理できる。ナスを二つに割って、皮のところにちょいちょいと網の目に包丁を入れ、さっと油で素揚げにする。それをだし醤油とみりんで十分ほどことこと煮込み、おろししょうがとみょうがを添えていただく。ナスの揚げびたし。
 あるいはたっぷりの油で賽の目に切ったナスを炒め、これに豚肉とねぎを加えて味噌と豆板醤で炒める。ナスの味噌炒め。これに水を加えて味噌煮込みにしてもいい。煮込みにするときは唐辛子をたっぷり入れるのが好き。
 ナスは油と相性がいいのだが、さっぱりしたのが好みなら、たて薄切りにして豚の薄切りと交互に重ねて蒸し、ごまだれでいただく。ナスと豚肉のはさみむし。カブトムシじゃないよ。
 もしくはナスを丸ごと茹でてから氷水でさまし、切断しない程度にたてに包丁目を入れ、乾燥唐辛子をハサミで細く切ったものを包丁目につっこんで、冷蔵庫で半日ほどめんつゆに漬け込む。ナスのピリカラ漬け。食べるときは小口切りにして。三日くらいは保存できる。

 スカンポはフランスでオゼイユと呼ばれ、そのすっぱい味をいろいろな料理の味付けに利用しているらしい。肉と炒めたり、スープに入れたり、みじん切りにしてソースを作ったり。
 私が好きなのは、シンプルにスープに入れることかなあ。タマネギとニンニクのみじん切りとベーコンをバターで炒め、スカンポの小口切りを加え水を足して、スープストックを放り込み、塩胡椒で味付けするだけのシンプルかつインスタントなスープ。すっぱいスープは食欲が増進するんですよね。
 塩漬けのスカンポをそのまま囓るのも、酒のつまみにいい。

 というわけで問題はゴーヤとズッキーニである。
 ゴーヤは好き。あの苦さが酒によく合う。だけどなあ、三本も四本もあると持てあますんだよなあ。料理だって、ゴーヤチャンプル、ゴーヤのおかかのせくらいしか知らないし。この前ゴーヤのカレーを作ったら、苦みが汁に移って大失敗だった。ゴーヤの肉詰めベトナム風味にチャレンジしたこともあったが、思ったほどおいしくならなかった。
 ゴーヤチャンプルは有名ですよね。ゴーヤを輪切りにして、苦いのが好きな人はそのまま、苦手な人は湯通しするか塩でもんでから豚コマと炒める。さらに木綿豆腐を崩しながら加え、最後に卵でとじて塩胡椒と醤油で味つけ、おかかをふりかけていただく。
 ゴーヤのおかかのせは、チャンプルと同じ前準備のゴーヤを冷やしておかかをのっけ、醤油を垂らしていただくだけ。

 ズッキーニというと、ゴーヤよりさらに疎遠である。なんかイタリア料理によくあるよね、そんなの、という程度しかおつきあいをしてこなかった。薄切りにしてオリーブオイルで炒めるか、あるいは角切りにしてラタトゥィユの一員となるか。
 ラタトゥィユは余り野菜の片づけに便利なせいか、母親がよく作っていた。ナス、ズッキーニ、トマト、じゃがいも、さつまいも、カボチャ、タマネギ、ニンジン、ダイコン、レンコン、ブロッコリー、なんでもいい。とにかく葉菜以外の野菜を大きめの賽の目に切って、ベーコンとバターで炒め、スープストックで煮込み、塩胡椒で味つけするだけ。あ、野菜はなんでもいいけど、トマトは必ず入れるように。トマト味がラタトゥィユの鉄則らしい。

 困ったときにはネットで検索、という祖父の教えに従い、「ゴーヤ レシピ」「ズッキーニ レシピ」でインターネット検索。すると、「ゴーヤの味噌煮」「ズッキーニの味噌煮」がそれぞれひっかかってきた。
 味噌煮というと、沖縄にはヘチマの味噌煮があった。あれ、好きなんだよね。私が食べたのは、未熟なヘチマをぶつ切りにして、白味噌仕立てでほのかに甘めに煮込んであった。ナスにちょっと似ているがナスほどぐにゃぐにゃにならない、冬瓜にもちょっと似ているが冬瓜ほど透き通った味でもない、もちろんゴーヤのように派手な苦さはぜんぜんない、ちょっとひなびたような地味で素朴な味。
 内地ではヘチマが売っていないのであの味は再現しようもないのだが、ひょっとしたらズッキーニ、味噌煮にしたらヘチマに似てくるかもしれないぞ。
 というわけで味噌煮にチャレンジ。めんどくさいのでゴーヤとズッキーニを一緒にしちゃおう。苦みが移るといけないので、ゴーヤは塩でもんで苦みを減らしておく。
 サラダオイルでベーコンを炒め、そこに適当に切ったズッキーニとゴーヤを放り込む。しなっとしたら水を加え、だし醤油とみりんと白味噌でことこと煮込む。ゴーヤが茶色っぽく変色し、ズッキーニの真ん中が透き通ってきたら火からおろす。できあがりにおかかをふりかけていただく。
 ううむ、このズッキーニの味は。ナスや冬瓜のようなつるつるではない、かといってカボチャやジャガイモのようなほくほくでもない。ほくほくになりかけて果たせない、という食味、記憶もあいまいだが、あのヘチマに似ているかも。
 ゴーヤもおいしかった。塩もみ、油炒め、煮込みでほどよく弱まった苦みと、白味噌の甘みがよく合う。ううむ、こうなると泡盛の古酒かオリオンビールが欲しいなあ。

 そういえばビールに関していままでもっとも感動したのは、この沖縄は慶良間島に行ったときのことであった。
 人のあまりいない海辺で赤や紫の巨大ナマコとたわむれたのち、昼飯を食おうということで、海岸近くの海の家のようなところへ行った。ダイビングショップを兼営していて、貸し更衣室があって、パンツや水中眼鏡やTシャツを売っているような、よくあるところだ。そこの二階で、このヘチマ味噌煮とゴーヤチャンプルとビールを頼んだ。海の家であるからして、料理にもビールにもまったく期待はしていなかった。
 しかし、この料理がうまかったのである。そしてビールはもっとうまかったのである。
 どうせ缶ビールがそのまま出てくるだろう、ぬるくなければラッキー、という予想に反し、なんと冷凍庫できんきんに凍らせたジョッキに生ビールをなみなみと注いで持ってきたのである。
 外は沖縄の夏。ちょっと歩いていると首肩や顔や腿は当然、ふくらはぎや小股までが日焼けするという怖ろしい日射しである。そんな中を歩きまわり、泳ぎまわり、われわれの肉体は熱と疲労でぐたっとしている。そこにビール。真っ白に霜のふったジョッキ。そのジョッキを傾けると、喉に流れ込む零下付近の液体。泡までもが凍っている。ビールの冷たさと炭酸とホップの苦みと、離島の海の家でこんなうまいビールが飲めたという意外性が、喉経由でくたびれきったわれわれの全身を刺激しまくる。乾いた肉体にビールがゆきわたる。体温が二度低下する。これがうまくないわけがない。
 感動したわれわれは、当然のように二杯目のビールを注文したのである。
 そして当然のように、午後は泳ぐどころの騒ぎではなかったのである。


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