「太陽にほえろ!」誕生の背景
  •  「太陽にほえろ!」の岡田晋吉(おかだひろきち)チーフプロデューサー(日本テレビ)は、著書「太陽にほえろ!伝説−疾走15年 私が愛した七曲署−」のなかで、関係者らと、放送枠や配役など何も決まっていないながらも昭和47年10月から新しい刑事ドラマをスタートさせようと準備していた、と記している。岡田氏らの企画が「太陽にほえろ!」としてスタートしたのは7月である。何故7月という中途半端な時期からのスタートとなったのかということであるが、それは「日本テレビ」、「金曜夜8時」という放送枠がおおいに関係しているのである。
  • 「太陽にほえろ!」がスタートする以前の、日本テレビ金曜夜8時枠はプロレス中継の時間枠であった。現在は、K-1に代表されるような格闘技は人気が高いものの、プロレス人気は低迷していると言ってよいと思うが、当時のプロレス中継は、テレビ放映が開始されて間もないころから続く人気番組であった。
     このプロレス中継は、「日本プロレス」という団体の興業を日本テレビが独占放映していたものであるが、昭和44年7月にNET(現・テレビ朝日)がこの放映に参入してきたことで、後のプロレス界にも禍根を残すこととなったテレビ史における大事件に発展する。そして、この一連のトラブルこそ「太陽にほえろ!」誕生のきっかけともなっているのである。
  •  このトラブルについては、大相撲に置き換えてみると何が問題となったのか分かりやすいかもしれない。たとえば初場所の取り組みを伝える大相撲放送を、ある人気力士はA局が、別の人気力士はB局が行ったとしたらどうだろうか。視聴者側としては、別なチャンネルで視聴できるのでさほど問題ではないが、テレビ局側にとってみれば問題で、とくに日本テレビ側からすれば他局に割って入ってこられた立場であるので、関係者の怒りのほどは相当であったろう。
  •  テレビ局同士のし烈な争いは、新規参入したNET系中継の中心的選手だったアントニオ猪木氏が昭和46年12月に「日本プロレス」を追放されたことに端を発してさらに激化する。
     A・猪木氏に代わる人気レスラーを求めたNETが「日本プロレス」に対し、日本テレビ系中継の試合に出ていたジャイアント馬場氏(故人)の中継を要請、同団体がこれを受諾したことに日本テレビ側が憤慨し、昭和47年5月、同団体のプロレス中継打ち切りに至ったのである。
  •  このように、プロレス中継の後番組として急遽、7月という中途半端な時期から、岡田氏が企画していドラマが「太陽にほえろ!」となり金曜夜8時枠で放映されることとなったのである。
     なお、プロレス中継のスポンサーであった三菱電機は、「太陽にほえろ!」でも引き続いてスポンサーとなっている。
  •  ところで、日本テレビがプロレス中継を打ち切ると、NETはそれまで月曜夜8時枠だったプロレス中継に加え、金曜夜8時台でも放映を開始している。(なお、昭和47年10月からは金曜日のみ)
     「太陽にほえろ!」の裏番組にプロレス中継があったため、チャンネル争いに負けて「太陽にほえろ!」を視聴できなかった経験をもつ方も少なくないだろうが、以上のように「太陽にほえろ!」とプロレスの因縁は深いものがあるのである。
  •  「太陽にほえろ!」スタート以降のテレビ局とプロレス団体との関係を簡単に触れておくと、日本テレビは昭和47年10月から土曜夜8時枠でJ・馬場氏が興した全日本プロレスの中継を放映を開始し、一方のNETは昭和48年4月、日本プロレスからA・猪木氏が興した新日本プロレスの中継に鞍替えしている。テレビ中継のなくなった日本プロレスは同年崩壊している。
 

【参考文献】
「検証 日本プロレス事件40年史 PART III」 日本スポーツ出版社刊(「週刊ゴング」平成7年5月5日号増刊)
「26年前の日本プロレスの2局放映から切って落とされた仁義なきテレビ戦争!−日本テレビVSテレビ朝日−」


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update 2006/6/30