| act-2 駅は夕方の帰宅ラッシュが始まっていた。 その黒いコートの男は殆ど目線を上げずに、人混みの中を擦り抜けるように歩いていく。その歩き方には微妙な傾きがある。見る人が見ればこの男の左足が義足であるということを見抜くであろう。男が自動改札を抜けて3番線のホームへと階段を降りていく。両方の手をコートのポケットに突っ込んで自動販売機の横に立つ。顔は動かさず目を少しだけ動かして辺りを見回す。何本かオレンジ色の電車が入ってきて目まぐるしく人間が流動している。この時間は制服の高校生が多く、色々なデザインの制服が目に留まる。 「次の電車か」 ぽつりとそう言うと彼はポケットから手を出す。その手にはコインロッカーの鍵が握られている。 電車が入ってきた。途端に人の流れがどっと押し寄せる。その中から不意に彼に声が掛かる。 「グラバーって喫茶店を知ってますか」 自分のコードネームを呼ばれた彼「グラバー」はその声の主を確認する。 「緑色の五月なら知っているがね。良い店だ」 「グラバー」は手に持ったコインロッカーの鍵を「緑色の五月」に渡す。「緑色の五月」はそれを受け取りホームの階段を昇って人混みに消える。それは殆ど一瞬の出来事であった。 古本屋「いでかみ」の主人「アフター・ゼロ」は積み上げられた文庫本の黄ばんだ上面を紙ヤスリで擦りながら目線をレジ内の防犯モニターに向けて広くもない店内に気を配っていた。彼は天井まである本棚の間の狭い通路に大きなスポーツバックを肩からさげた「緑色の五月」がいる事に気づいていた。「緑色の五月」は一冊の本を手にとって近づいてきた。「緑色の五月」はその本をレジカウンターの上に置いた。 「最近おもしろい本なにかありますか」 「「緑色の五月」が今いいね」 これが任務の指令の合図であった。 「どんなストーリーですか」 「あるディスカウントストアの店長が射殺死体で発見されるんだ。犯人の手口が鮮やかでね。これは読んでのお楽しみだ」 「何故死んだんです?殺された理由は?」 「アフター・ゼロ」は「緑色の五月」がレジカウンターの上に差し出したカミュの「異邦人」に目をやってから答えた。 「殺されたのは太陽のせいってとこだな。グラバーから道具は受け取ったか」 それに答えるように「緑色の五月」は肩にさげたスポーツバッグを少し持ち上げて見せた。「アフター・ゼロ」は文庫本を袋に入れるとテープで止めて「緑色の五月」に手渡した。 「今日を含めて四日以内だ。細かい情報は一緒に袋の中に入れておいた」 そういうと「アフター・ゼロ」は店に入ろうと近づいてきている客を見つけ「緑色の五月」にありがとうございましたと言った。「緑色の五月」もそれに気づき袋に入った文庫本と情報を受け取り店を出た。 席替えをしてから一カ月くらい経ったけど何にもイベントが起こらないし起こる兆しもない。今日も朝からつまらない。1時限目と2時限目が美術の授業だったからだ。絵を描くことは元々好きだし、だからこそ美術担任の川上がいくら嫌な先生でも我慢できているんだけど、毎回誰かが怒鳴られているのを見ればさすがにうんざりしてくる。今日は中沢が怒鳴られた。油絵のパレットに油を敷いてくるのを忘れたからだ。何もそんなことで怒らなくてもいいのに。でも興味深い話を聞くことも出来た。それはキャンバスにシルバーホワイトを塗る時に注意事項として言われた事だ。……油絵具には毒性の強い物が多く今使っているシルバーホワイトなどを大量に使う場合はかなり危険である。一番危険だった絵の具は製造中止になったエメラルドグリーンでこれは一滴舐めただけであの世にいってしまう。俺はそのエメラルドグリーンを製造中止になる前に2ダース取り寄せた。これがそのエメラルドグリーンだ……川上はそれをチューブから少し出して自慢げに見本用のキャンバスの上に拡げてみせた。あの綺麗なエメラルドグリーンが猛毒だなんてね。美術の時間は嫌いだけどたまに面白い知識を拾うこ とがある。 4時限目の数Uは自習だった。高橋先生は人のいい感じのじいさんで糖尿病を煩っている。今日はその検査の為に病院へ行ってしまったのだ。時限の初めに数式のずらっと並んだプリントが配られたがそんなものクラスのいわゆるデキル奴らのを写せばいいからどうでも良い。僕は何となく中沢と駄弁っていた。話す内容はくだらない事ばかり。死ぬだの、生きるだの、宇宙だの、時間だの。大抵、結論も出ないまま話は別のことに移っていく。こんなことを話して自分が偉くなったような気がしているんだから下らない。 僕の右隣では相田さんがまじめに数学のプリントをやっている。相田さんに関して僕は詳しいことを知らない。たしか親許を離れて一人で暮らしてるんだったよな。相田さんがまじめにプリントをやっているのに気づいた中沢が彼女に話しかけた。 「サツキちゃん、まじめだね。終わったら見せて。」 サツキちゃんて呼ばれた相田さんはそれに微笑みで返事を返す。中沢は大概女の子の名前を呼ぶときは○○ちゃんだ。 「ねえ、サツキちゃんの家ってどこだっけ。一人で住んでるっていったよね。いいなぁ、一人暮し。だってさ、何時に家帰っても誰も文句言わないんだぜ。めちゃめちゃいいじゃん」 中沢がしきりに羨ましがっている。相田さんがシャープペンをペンケースにしまった。 「終わったよ。間違ってたらごめん」 「いい、いい。俺らがやったらどうせ全部間違えるんだから」 軽音部の部室に行っていたらしい山口さんが息を切らせて戻ってきて席に座った。文化祭が近づいてバンドの練習が大詰めに入っているらしく、ヴォーカルの彼女は朝も昼休みも歌っているらしい。それでも納得いかないようで授業を抜け出して部室に行ってしまう事もたまにある。今日のように自習の時は当たり前の様に教室を出ていってしまう。 「見回りがきてさぁ。逃げてきたよ」 山口さんは彼女の机の上にあるプリントを取ると椅子を半回転させて相田さんの方を向いた。 「お願い、見せて」 僕と中沢と山口さんは三人で相田さんのプリントをせっせと写し始めた。 帰りに中沢と古本屋「いでかみ」によった。仏頂面したおっさんがカウンターに座っている。そのカウンターの前に相田さんがいた。僕らは相田さんに声をかけ少し話して「またね。」と別れた。でもあの子たまにあの古本屋であうよな。でも学校にあんなスポーツバッグ持ってきていたっけ。 |