act-1

 彼は雨の街が好きだった。雨水に黒く染められたアスファルトや、ビルの壁に出来た灰色の滲みが好きだった。車窓から見つめる雨の街は彼にとって魅力的なものであった。たまにはこの街を一人で歩きたいものだといつも思っていた。彼が最後に雨に打たれたのはいつの事だったであろう。車から降りればすぐにボディガードが傍らに付くし、どこからともなく傘を差す手が現れる。彼の意志に関わらずそれは行なわれる。彼は車窓から街を忙しそうに歩いていく人々を眺める。時計を気にしながら歩いているビジネスマン。雨合羽の小学生の集団。買い物袋を下げた主婦。頭の上に鞄をあてて濡れないように急ぎ足で駆けていく制服の女子学生。彼はここ何年の間、自分が走っていない事に気づく。彼は短い距離をボディガードの壁に守られながらゆっくりと歩くだけだ。無邪気に雨の中を駆け回った幼いころが懐かしい。彼は皺の奥にある鋭い目を滲ませる。
 彼を乗せたリムジンが止まる。いつもと同じようにドアが開き、ボディガード達の壁が出来る。彼はその雨に濡れたアスファルトにステッキを突き立てそれに体重を乗せて座席から立ち上がる。彼の頭上には黒い大きな傘が拡げられていて降り続ける雨と様々な人間からの視界を遮っている。ステッキに体重を乗せながらゆっくりと三歩歩いた時、彼は腹部に鋭い痛みと衝撃を感じる。彼は突然の突発的な痛みの意味を理解出来ぬまま濡れたアスファルトに倒れ落ちる。ボディガード達はすぐにそれに気づき彼の身体を覆い銃を構えて辺りを伺う。彼らはステッキの握られた腕の下の分厚い腹部から鮮血が流れ出している事を知る。ボディガード達がその赤く染まった彼の身体を車に引き摺り込む。雨に濡れた彼の身体は静かに終焉の時へと向かう。

 雨の交差点。赤信号を救急車のサイレンが突き抜けていく。
 「緑色の五月」は深いため息をついた。公衆の面前で任務を行なうのは「緑色の五月」の本意ではなかったが、「人目につくように射殺せよ」という指令により危険を犯して事を行なったのだった。今日の任務はかなり危険だったと自分でも思う。タイミング的にもぎりぎりだった。一瞬だけ見えた標的にあれだけの瞬発力で反応できるのは施設での訓練のお陰だろうと思うが、そもそもその施設にさえ入ってなければ「緑色の五月」なんて呼ばれることもなかった。
 「緑色の五月」のような現場の任務につく人間のことをその世界では単に「者(もの)」と呼んだ。任務の報酬は少しの金と自分自身の生命の保証。失敗した時、それは即ち、「死」である。幸い「緑色の五月」は絶対に任務を失敗しない自信と技術をもっている。それを持ち合わせていなかった「者」が何人消えていったことか。先日も「緑色の五月」と一度だけ行動を共にし見覚えのある「者」が首吊り死体で発見された。表向き製紙卸売り業を営んでいたというその「者」の死は仕事の資金繰りがつかなくなった中小企業の社長の自殺ということでテレビや新聞で報道された。そしてその死は世間をにぎわす事もなく人々の脳裏から忘れ去られていった。殆どの「者」の死に際はそのようなものであった。
 「緑色の五月」は唯一の連絡網である「アフター・ゼロ」なる人物のもとへいく。「アフター・ゼロ」は古本屋「いでかみ」の主人で五十歳くらいの男である。古本屋「いでかみ」は駅から歩いて2分くらいの裏通りにあり、地元の、それもいくらか本を読む人間しか立ち寄ることはない。「緑色の五月」は店のアルミサッシを開き、本の山によって外界から閉ざされた空間に足を踏み入れる。そのままレジカウンターの方に進み鞄から出した幾冊かの文庫本をレジに座っている「アフター・ゼロ」に渡す。「アフター・ゼロ」はその本を値踏みするように一冊一冊確かめる。
「なかなか良い本だね。」
 「緑色の五月」はその「アフター・ゼロ」しか連絡網をもっていない。横の繋がりはないから万一捕まった場合でも連鎖的に「者」が捕まることはない。「者」同士、一緒に任務についた場合でもその任務の時に便宜的に名付けた「タナカ」とか「スズキ」とかいう名前しかお互い知らない訳だから情報の漏れようがない。しかし顔を見れば思い出す。街を歩いていて見覚えのある「者」の顔を雑踏の中から見出してしまうこともありその時は絶対に視線を合わさないようにしその場から立ち去る。それが「者」達の相手に対する義務である。それを怠る事は相手と自分の「死」に繋がる。
 「アフター・ゼロ」は「者」ではないから「緑色の五月」と行動を共にすることはない。ただ指令の伝達と報告の受理だけが二人の関係である。指令はある合い言葉と短い指令内容で伝えられる。それは手紙の場合もあれば電話の場合もある。駅の伝言板ということもあるがそれは特殊な場合だけだ。「者」の活動報告は直接連絡役へ伝えられる。こういう時にも「者」の方が危険が多いのはこの世界の定めである。
 「アフター・ゼロ」が店内に客がいないのを確かめる。
「上出来だった。難しい任務だったが完璧にこなしている。さすがだな。」
 「緑色の五月」が持ち込んだ本の買い取り賃を渡す。
「これで次の任務までの間、生き延びられる訳だ。」
 「緑色の五月」は本の値段としては高すぎる金を受け取り、古本屋「いでかみ」を出ていく。「アフター・ゼロ」のそらぞらしい「ありがとうございました。」という声を背中に受けながら。

 今日は僕の誕生日だ。この16回目の誕生日にクラスの席替えがあった。くじ引きなんていう偶然に支配された手段が勝手に僕の運命を決めるのは納得いかないけど、今回はちょっと偶然に感謝している。僕の席は真中の一番後ろ。僕の一つ前の席が中沢でその左隣が山口さん。そして僕の左隣が相田さんだ。中沢が一つ前になったから授業中退屈することはない。山口さんはクラスの女の子の中で一番活発で可愛いし、相田さんも無口だけど結構可愛いと思う。つまり僕は現在考えられる組み合わせの中で最高の席順を手に入れた訳だ。だけど僕から山口さんや相田さんに話しかけることなんて出来ないだろうな。せいぜい中沢が彼女達と話をしている所に加わるぐらいが精一杯だ。くじ引きは4時限目のホームルームの時に行なわれた訳だけど5時限目の英語の時は落ち着かなかったな。英語の担任は吉岡。吉岡がイジー・ライダーのピーター・フォンダに似てるなんて中沢は言ってたけどそれは外れてはいない、確かに似てる。でも授業はつまらない。僕は英語の教科書のトム・ソーヤのイラストに落書きをしながらちらちらと周りを見ていた。席替えしたばっかりって落ち着かないんだよな。見える視 界が全然変わっちゃうからね。でもそれだけ。次の6時限目は現国の授業。6時限目の授業はいつも出席率が落ちる。僕は殆ど授業はさぼったことはないけれど中沢は常習だ。一年間の授業回数の3/4出席しないと単位を落とすことになるから彼はいつも欠席できる時限数の計算をしている。彼にとって1/4の授業は有給休暇なんだそうだ。今日の6時限目もいなかった。だから僕の目の前はがら空きで居眠りしてたらすぐにばれる状況になってしまっていた。あと相田さんもいなかった。あの子も授業さぼったりするんだな。山口さんは教科書を縦にして何か書きものをしていた。ところで今日は僕の誕生日。だけど誰も祝ってくれなかった。しょうがないか、最初から誰にも教えてないんだから。

続く







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