ここは直樹がマンガについて好きなことを書き連ねるところです。

*原稿料の話*

どこの世界でもお金の話はシビアです。

マンガの原稿料についても、他の世界と同様にやっかいな問題がいろいろあります。

私がこの世界に入った頃、雑誌の原稿料のランクというのはしっかりありました。当然、今もあるのですが、メジャーの世界から遠ざかって久しいので、今の水準がどの程度なのかよくわかりません。

しかし、戦後かわらなかったのは卵の値段と漫画家の原稿料だ、という冗談が笑えないほど、この十数年ほとんど変らないのではないかと思います。

70年代、私がもらった原稿料は4000円からでした。墨1色、B5原稿の相場で最低のレベルです。

ちなみに月刊「少年ジャンプ」です。集英社は、かたくなに低い原稿料を押し通していました。(これには色々理由があって、新人育成に熱心だったこと、単行本にしてからの歩合がよかったこと、などで、吉本興行の漫画版だと思えばいいでしょう)

小学館は新人でも8000円から1万円、講談社は少し落ち、秋田書店・双葉書店などはジャンプとあまり変りなかったように思います。

原稿料は源泉徴収が徹底していて、必ず1割を税金で引かれます。

年末に還付請求をすれば大半が返ってきます。(売れていないマンガ家はですが...)それがマンガ家にとってのボーナスのようなものでした。

大手の出版社なら、その月にした仕事の原稿料は月末か翌月末に振込まれます。

月の頭にやった仕事だと2ヵ月も金が入らないこともあるので、困ってしまうのですが、それでも確実に入るからまだ我慢できます。

問題は中小出版の仕事です。

私は経験ありませんが、友達はけっこう原稿料をふみたおされたりしているようです。

さらに、雑誌の仕事ではなく、書き下ろしとなるともっと悲惨です。

書き下ろし自体時間がかかりますが、その本が出版され、それから2ヵ月先ぐらいに原稿料が払われるというようなケースがざらにあるのです。

書き下ろし(1ヵ月)>出版(1ヵ月)>支払(2ヵ月)>4ヵ月

4ヵ月の間、収入がなかったら大変です。大手ならまだ前借りなど出来ますが、小出版はそうはいきません。原稿を画くのに手伝いを頼んだりすると、その支払が赤字ということになります。

実際はその間に細かい仕事をして稼ぎながら、振込を待つわけです。

私が今やってる仕事もみんなそういう仕事なのでまいります。

仕事はしたけど、いつ金がはいるやら……

こんなガケップチの生活をしながら、やせもせず、ハゲもしない私はけっこう図太い人間かもしれません。

イラストレーションの世界 1 

マンガの世界にいて、一番コンプレックスをかんじるのは本格的なデッサンや色彩、理論などを学んだ人達に対してです。

私自身はまったく独学で絵をかいてきましたので、デッサンはいいかげんだし、色彩やフォルムの形式についても何も知りません。こうした基礎を持っている人達と、私などはやはり力の違いが出るのですね。

もちろん、そうした教育を受けている人達が万能ではありません。マンガの神様・手塚治虫さんが医学部出身で、美術教育を受けていないという事もそれを象徴します。マンガにおける美術的な力の必要性は、せいぜい3ー40%程度だと思います。マンガ家に必要なのは、映画監督と同じく物語を明確に印象的に紡ぎ出すその技術と、それを必要充分なだけ絵画化できる腕だと言っていいと思います。

話は横道にそれますが、戦後の雑誌世界に大きな存在を占めた「絵物語」が、やがて衰退したのは、結局それが生産しにくいものだったという事に行き着きます。「少年ケニア」「砂漠の魔王」などの傑作を産んだ絵物語ですが、それを制作する作家たちにはかなり苛酷な制作環境を要求するものだったようです。

一つの側面ですが、絵物語の作家たちはいわゆる「純粋美術」にたいして大きなこだわりを持っていたようです。

それはマンガに要求される「デフォルメ(誇張)」「省略」「速度」などという独特の方法論からは遠いものでした。あくまでデッサンの正確さや、構図の完璧さなどを求める絵物語の作家たちにはマンガの要求するものは満たせないのでした。否、むしろそのこだわりからは、物語(ドラマ)が生まれることはなかったのです。マンガはあくまで物語(ドラマ)でした。

その表現に置いて、物語をスポイルして純粋の美術を求めるような態度が優先されることはなかったのです。あるいは出来なかったのです。

メビウスを始めとするニューウェーブの作家たちはその限界に挑戦しているように思います。しかし皮肉なことに、彼らの挑戦が成功すればするほどそれはマンガとしての表現から遠ざかるのでした。

一方、マンガは腐敗しやすいものです。インスタントな表現であるゆえに、それは

「真似される」「形式化する」「抽象化する」「流行遅れになる」

という運命を持っているのです。

マンガ家の日常はこの運命との闘いに明け暮れるでしょう。しかしそれに成功する人はまれです。こうしたマンガの持つ宿命を考える時、純粋美術でもなくマンガでもない絵物語=イラストレーションの魅力はいやでも目立ちます。

私がホームページにイラストの部屋を造っているのもその憧れの表れです。

(つづく)

漫画家ノート 5  水木しげる さん

 水木しげるさんの評価というのは、どこからしていいのかわからないくらい大きいですね。当然、日本と世界の「妖怪」の紹介者として不朽の功績を持っているのだけど、それと同じくらい南アジアにおける日本軍の悲惨な戦いの記録者としても独自の位置を占めています。

 私がそれらに増して評価したいのは、哲学的といってもいいくらいの乾いた世界観を背景にした独特のユーモアです。ニューギニアの絶滅戦を生き延びた水木さんは、ドストエフスキーを越える「臨死体験者」です。そこから湧き出る思想は、人間の枠を越えた深い諦めを感じさせます。しかもドストエフスキーがいつもしかめっ面なのに対し、水木さんは自らを含めた人間世界を「笑い」とばす力を持っているのです。

 水木さんの仕事は形としては4期に分けられます。

1.紙芝居時代

2.貸し本時代

3.「ガロ」時代

4.講談社漫画賞以後

 私が水木さんの作品に出あったのは「2」の貸し本時代からで、伝説の紙芝居時代は知りません。加太こうじさん率いる紙芝居組合には参加していなかったようですが(参加していた白土三平さんと出会っていない)、紙芝居作家としては重要なメンバーの一人だったようです。「鬼太郎」はここから始まっています。原作者とのトラブルも一部で話題になりました。

 原作に近かったのは貸し本の「墓場の鬼太郎」シリーズで、私が好きだったのは「鬼太郎夜話」シリーズの方でした。こちらが後の「ゲゲゲの鬼太郎」につながって行きます。「恐怖もの」としての前者よりは、幻想ユーモア怪奇マンガとしての後者の方がより水木さんの特徴を表していると思います。

 原型の鬼太郎はセムシで出っ歯で片目がない、「ノートルダムのせむし男」をモデルにした醜い容貌をしています。それが「鬼太郎夜話」では普通の少年に近くなり、「ゲゲゲの鬼太郎」ではかわいい少年にまで変化しています。この変化は4つの時期を通じて行われたものでした。それは同時に水木さんがメジャーになっていく過程でもあります。

 貸し本時代の水木さんはすべての貸し本作家がそうであったように、食うためにあらゆるジャンルに挑戦しています。SF、剣豪もの、忍者もの、時代ロマン、怪奇もの等々です。私がひかれたのは欧米怪奇短編の翻訳ものでした。(ジェイコブの「猿の手」やモーパッサンの「手」など)当時のことですから版権など無視していたのでしょう、私はそれらが丸ごと水木さんのオリジナルだと思って背中がゾクっとするほど感動したものです。後でそれらの原作を読んだ時、ある程度の失望感はありました。しかしやがて日常の中の「異界」を描く作品群、「アラウネ」「マタンゴ」や「河童の三平」などのオリジナルが現れ、水木さんの非凡さがはっきりしてくるのです。

 いわゆる「劇画」作家たちは70年代に主に「少年マガジン」を舞台にして続々とメジャーの世界に登場します。なぜか、水木さんはその波に乗り遅れていました。その事情はよくわかりません。時代の流れとしかいえないでしょう。

 その間に水木さんは「ガロ」で一つの世界を築いていました。「ガロ」での仕事はもっぱら昔の作品をリライトする事だったのですが、それは貸し本時代の原稿が読者へのプレゼントになって四散していたという事情があったと思われます。マンガの原稿が再利用されて膨大な利益を産むことなど誰も考えていなかった時代なのです。

 その中で「鬼太郎」も復活していました。ここで女性キャラクターをかいていたのは当時無名の池上遼一さんでした。

 読切短編「テレビくん」 は、劇画の存在が普通のものになって一種のマンネリになっている中に衝撃的に登場しました。

 その内容は今となってはたあいのないものなのですが、当時は欧米怪奇短編の「奇妙な味」を持った、たとえば「不死鳥を飼う男」と同質の作品で、そのユニークさがマンガ世界にショックを与えたと思います。この「テレビくん」は講談社漫画賞を受け、その後の水木さんの活躍の基盤となりました。

 怪奇もの、妖怪ものの作家として水木さんは類例のない地位を築きました。でも、その間には日本のやった戦争がどういうものであったかを一兵隊の目から見た「総員玉砕せよ」などの作品もかいています。

 水木さんの作品の持っているものは、現代に生きる私たちの絶対に必要な知識と感性を提供していると私は考えています。今でも多数の読者を獲得している作家ではありますが、そういう意味でもう一度読み直してほしい人です。

漫画家ノート4 村野守美

村野さんをご存知の方はどれだけいるか、ちょっと不安です。

60−70年代に、名古屋から出ていた「日の丸」というマンガ雑誌にかいていました。この本は村野さんが上京する時期に、いつのまにかなくなっているようです。

絵としては白土さん系列の日本画調と、空間処理のうまいモダンさとが一体になった「うまい」人です。

この人も手塚さんにみこまれて永島慎二さんと同じ時期に虫プロに入ったと思います。そこで腕にみがきをかけたのでしょう。

「COM」では『ほえろボボ』という作品をかいていました。

青年マンガ誌の草創期に、センレツな青春ものをかいてひと時代を築きました。

でも、大ヒット、という作品はなかったのです。それが村野さんの悲劇でしょうか。

私の先輩の村祭まことは彼のファンで、よく出入りしていました。

まこちゃんの話によると、ちゃんちゃんこにヒゲ面、厚い眼鏡をかけた朴訥なおじさん、という印象だったようです。

「媚薬」シリーズでエロスを追及したり、赤旗で「どっぺんぱらり」シリーズという童話を長く連載したり、器用でうまい人のようにみえますが、なにか日向に向かない面があるのかもしれません。

今はエピゴーネンの域から完全に上にいっているように見える三山のぼる(『メフィスト』など)の存在はすごくしゃくにさわります。彼の方がメジャーになっているのはちょっと許せない気がしてしまうのです。絵の特許というのはないものでしょうか?

ちなみに、三山のぼるは村野さんのアシスタントとか、そういう経験はないそうです。彼もすごい才能の人物ですが、なにか奇異な感じがしてしまいます。

(『メフィスト』もアメコミのコピーの部分が多いし)

村野さんは、作家よりは職人肌であり、三山のぼるは作家で、その技術的なものを村野さんからぬすんだということでしょうか。

この二人の関係はマンガというジャンルのまか不思議さを象徴しています。

漫画家ノート3 吉田秋生 

吉田さんの歴史はハッキリ「カリフォルニア物語」の前と後で別れます。

前のほうでもけっこういい仕事をしていますが、後の方が断然すごいです。

「夢見る頃を過ぎても」(楽しい。いや、こわい)

「川よりも長く、ゆるやかに」(グレイト!「カムイ伝」に並ぶ偉大な1作)

「吉祥天女」(すごい!いや、怖い!)

この後に「BANANA FISH」が来るのですが、まあこの作品については前に書いたとおりです。

それじゃ愛想がないか。

一言で言うと、女から見た男の世界の男らしさの極端な表現、というものでしょう

か。さらに言うと、ここに出てくるキャラクターはみんなヒステリックです。

そういう特徴からいえば「オカマ」の物語だということですかね。

だから、

> しかし、この漫画は基本的に女性は出てこないのですね。

ということになります。

少女マンガの基本は、両性具有としてのオカマを理想とするわけですが(違うって?……どうもすいません)そういう観点からすれば、この作品は典型的な少女マンガなのでしょう。

私は、そういう典型からずれたところに吉田さんの作品のすごさがあったと思うのです。

つまり、男の存在を通して「女」を描くことです。

男の存在が女の添え物である、または主体の「女」を間接的に男の視線で描くことでより女の実在を浮き彫りにすることが出来た。言い換えれば「陰を描くために陽を描く」というスタイルがすばらしい効果をあげていたと思うのです。

そういう観点からすると、「BANANA FISH」は失敗しています。

でも、偉大な失敗作でしょう。

吉田さんが自分の方法論に立ち返ることが出来たなら、必ずまた偉大な傑作をかくことが出来るでしょう。

私はそれをワクワクして待っています。

                      KAMO

漫画家ノ−ト1 KAMO
 マンガの部屋の発足にあたり、なにか目玉企画が欲しいのですが、これといって思いつきません。差し当たり、私の好きな漫画家の羅列でお茶を濁します。

 まず最初は、大島弓子さん。

 大島さんの仕事は、大きく4期くらいに分けられると思います。まず1期目は、「つぐみの森」を頂点にした少女マンガの王道を歩いていた時期。
(これはあまり好意的な表現ではありません)
2期目は「さようなら女たち」「夏の終わりのト短調」などの独自の作風を完成させた時期。私は、その前後から読んでいますが、感動しました。
3期目は「綿の国星」で大ヒットをとばした時期。この時は大島さんがマニア向けのマイナ−・ポエットから一気にメジャ−な読者を獲得したのですが、私は失望しました。作品の中身が、人間の内面から離れ、観念的なものへ変わったように思ったからです。私は「綿の国星」シリ−ズは一冊も持っていません。
4期目は、なぜか枯れた線になって大人の鑑賞に耐えうる内容を持った作品を大量生産している現在です。

 私は2期目と4期目の本をたしか20冊くらい持っています。
 最初は女の子を書くときの参考にしていたのです。私の女性のモデルは、水野英子さん→西谷淑子さん→大島さんと変遷しました。
 現在は、ただひたすら「すごい作家だな−」と、遠く及ばない才能を憧れております。

漫画家シリーズ2 永島慎二 KAMO
私の好きな漫画家シリーズ第二弾は 永島慎二さんです。

永島さんも単に「好きな漫画家」というだけではすまない人ですね。
なんというか、世界観を変えられた人です。
でも、今ではいろいろあって本棚の隅に放り込んでいる感じです。

永島さんの作家生活も4期ほどに分けて考えると分かりやすいです。、
第1期は、「漫画家残酷物語」など貸し本漫画の俊英として特異な青春漫画を
書いていた時期。
第2期は、さいとうたかお氏の下で「劇画」を書いていた時期、及び、その後
「AAA(トリプルエース)」「柔道一直線(第一部)」など雑誌に書き始めた
時期。
第3期は、絵のうまさを買われて虫プロに入って活動したり、「COM」に
「フーテン」を連載していた時期。
第4期はその後です。

第1期には「漫画家になるぞー」と決心させられました。
漫画家になると、ごろごろして「書けない」などと煩悶していれば格好がつく、
それで世間からは尊敬される、などと幻想を持つようになったのです。
それだけでまったく罪深いですね。

第2期はどうでもいいですが、けっこう面白かったです。
あの永島さんが梶原一騎の原作で書くなんて、信じられなかったです。
すぐ終わったし、やっぱり合わなかったのだなと分かりました。
さいとうさんとの合作も少々無理してるような気はしましたが、まだマシでした。

本来の絵のうまさと、独特のエゴイスティックでナルシシックな主観性がマッチ
して一番完成した作品を残しているのが第3期でしょう。
でも、永島さん本人は2.3期の両時期にはいろいろ悩んだようです。

それを乗り越えて現在に至るのですが、こちらが成長したのかむこうが枯れたの
か、今ではあまり永島さんの作品に感動するということはなくなりました。
主観性やエゴが透けてみえるのがイヤだということかもしれません。

今思うと、そうしたエゴの主張は十代の私には憧れだったのに、今では猫も杓子
もエゴの塊に進化してしまいました。そうした時代の変化に永島さんも私もただ
流されている存在なのです。それが分かったせいでしょう。

                   

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